bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

ブラフの丘から山下へ ― 薔薇の横浜散策

来週、横浜市の人気スポットである山手と山下を案内することになっている。どちらも季節を問わず人が訪れる場所だが、バラが美しい五月はとりわけ賑わう。しかし山手と山下は、名前は似ているが、成り立ちはまったく異なる。山手は太古の海岸地形が隆起してできた台地であり、山下は近世以降の埋立によって生まれた土地である。両者の間にはおよそ30メートルの高低差があり、その境界には急な崖が横たわっている。

歌川広重の傑作『東海道五十三次』の「神奈川」には、神奈川宿の様子が描かれている。画面の中ほどに切り立った崖があり、山手・山下とは場所こそ異なるものの、横浜の地形的特徴をよく示している。また、横浜が開港し外国人居留地が置かれたころ、彼らは山手の崖を見て “Bluff(ブラフ)” と呼んだ。英語で崖を意味する言葉である。元町商店街の中ほどにある百段通りには、山手へと登る急峻な階段がかつてあり、明治時代には観光名所として知られていたという。

(図:左は広重の「神奈川」(出典はWikipedia)、右は「百段階段」(出典はNew York Public Library))

なぜこのような崖ができたのだろうか。地球上のどこかに氷が残り続けているような時代を氷河時代といい、現在は258万年前に始まった「第四紀氷河時代」のただ中にある。第四紀氷河時代には、寒冷な氷期と温暖な間氷期が繰り返され、海面は大きく上下した。そして氷期と間氷期のサイクルは、およそ10万年周期で繰り返される。現在は温暖な間氷期に属している。

寒冷な時期から温暖な時期へ移ると、氷床が溶けて海面が上昇する。よく知られる縄文海進は8000年前から5000年前にかけて起こり、東京湾の海面は現在より2〜3メートル高かったとされる。

同じような海進は、ひとつ前の間氷期にも起きている。約12.5万年前、東京湾では現在より5〜10メートル高い海面が広がり、これを下末吉海進と呼ぶ。現在の山手地区一帯は、この時代には海岸から浅海にかけての環境にあった。その海岸では、波が崖や斜面を削り、海岸近くには平坦な波食台(海食台)が形成された。同時に、砂・礫・泥が海辺に堆積した。

その後、寒冷化による海面低下(海退)と地盤の隆起によって、かつての海岸面が高所に取り残され、現在の下末吉台地となった。山手の急崖は、この海進期の波食作用によって形成された地形の名残である。少し話が込み入っているので、そのイメージをつかむために、ChatGPTに12万年前と2万年前の様子を描いてもらった。正確な描写とは言えないだろうが、地学的な変化を追う上で、理解の助けにはなるだろう。

(図:左は下末吉海進での海岸線(出典は神奈川県立自然博物館)、右は下末吉台地形成の想像図(ChatGPTにより作成))

山手に比べると、山下側の地形はきわめて新しい。山下を含むこの一帯の低地は、江戸時代以前には入海であり、そこへ山手側から砂州が張り出していた。その砂州の上に成立した漁村が横浜村であり、ペリーが二度目の来航で上陸し、幕府と交渉を行ったのもこの地である。

江戸時代初期になると、入海の奥に広がる広大な浅海が、江戸の材木商・吉田勘兵衛によって開発され、吉田新田となった。さらに江戸時代後期には、海側の入海も干拓され、横浜新田・太田屋新田が造成された。

横浜が開港されると、長崎の出島のように、外国人が商売し居住できる区域が制限された。その出入りは吉田橋に設けられた関所によって管理され、内側は「関内」、外側は「関外」と呼ばれるようになった(なお、関内で外国人居留地となったのは山手に隣接する山下で、その北側は日本人用の商業地である)。吉田新田が関外にあたり、横浜新田・太田屋新田および砂州の部分が関内である。現在のJR根岸線は、この関内・関外の境界にほぼ相当する。横浜新田の一帯は、のちに中華街として発展した。

(図:ペリー来航前の横浜(出典はWikipedia、ペリー横浜上陸(出典はWikimedia Commons))

時代が下って明治になると、新橋・横浜間に鉄道が開通した。しかし、このときの「横浜駅」は現在の横浜駅ではなく、現在の桜木町駅である。駅は関内の北側に位置し、鉄道は陸地ではなく、急ぎ造成された埋立地の上を走っていた。当時の錦絵には、蒸気機関車がまるで海の上を走っているかのように描かれている。現在の横浜駅周辺も、明治時代になるまでは海や干潟であった。

山下公園の誕生はさらに後のことである。大正時代の関東大震災で横浜は壊滅的な被害を受けたが、その復興事業の一環として、震災瓦礫を用いて海が埋め立てられ、山下公園が造成された。

今回は、午前中に山手を歩き、昼食を中華街で取り、午後は山下公園を案内する予定である。そのため、見学場所の多い山手を先に下見しておくことにした。最寄り駅は、みなとみらい線の元町・中華街駅である。この駅は高低差が大きく、ホームは地下深くに位置し、山手への入口となるアメリカ山は、これまで説明してきた崖の上にある。エスカレーターは思いのほか長く、いつまでも続くように感じられるほどである。そのため、今回はエレベーターを使った。

(図:山手・山下のバラ園を巡るコース(Google Mapsにより作成))

エレベーターを降りると、ぱっと華やいだ景色が広がる。一面に咲き誇るバラは色彩が鮮やかで、明るい日差しを受けて輝いている。ゴールデンウィークの名残を楽しんでいるのだろうか、園児たちのグループが目につく。仲間と手をつなぎ、列をつくって楽しそうに歩く姿がほほえましい。

(写真:アメリカ山のバラ)

アメリカ山を後にして外人墓地を抜け、港の見える丘公園へ向かう。バラを満喫した後、さらに多くの花を見たいという自然な気持ちに惹かれて、夫婦や恋人たち、友人同士が談笑しながら同じ方向へ歩いていく。途中の気象台や岩崎記念館、そして公園入口付近にも、バラが競い合うように咲き誇っている。爽やかな気分のまま、公園の中へと足を踏み入れる。

(写真:左は横浜地方気象台を背景にした庭園、右上は公園入口付近、その下は岩崎記念館)

まずは、あふれるバラへの期待を少し抑え、港の見える丘公園からの景色を楽しむ。ここは崖の上にあるため眺望がよく、ベイブリッジも大さん橋もよく見える。大型クルーズ船が停泊していないか探してみたが、この日は見当たらなかった。

(写真:左は大さん橋、右はベイブリッジ)

さて、いよいよバラ園の中へと進む。高貴な香りが、さらに奥へと誘ってくる。ゴールデンウィークが終わったとは思えないほど多くの人でにぎわっており、なかなか前に進めない。絶好のカメラスポットを見つけて写真を撮ろうとするのだが、どうしても人が写り込んでしまう。それでも、何枚かは満足のいく写真を収めることができた。

(写真:港の見える丘公園でのバラ園)

この公園の中には横浜市イギリス館がある。昭和初期に英国総領事公邸として建てられた建物で、当時の東アジアでも上位に位置づけられる格式を備えていたという。主屋の一階南側には、西からサンポーチ、客間、食堂が並び、広々としたテラスは芝生の庭へと続いていると紹介されていた。中に入ってみると、こどもの日の飾り付けが施されていた。

(写真:左はイギリス館、右は室内の様子)

次の見学場所はベーリック・ホールである。そこへ向かう道沿いには洋館が立ち並び、日本でよく見かける街並みとは異なる落ち着いた趣のあるしゃれた景観が続く。初めてここを訪れたのは1970年代初め、留学前の健康診断のためにブラフ・クリニック(Bluff Clinic)を訪れた時だった。日本とは勝手の違うアメリカ式の診察に驚いたことを覚えている。

(写真:下部中心から時計回りに、山手十番館、山手資料館、横浜山手聖公会、山手234番館、えの木てい、ブラフ・クリニック。港の見える丘公園から山手通りを歩くと、左側にこの順番で現れる。)

山手はミッションスクールの多い街でもある。さらに進むと、横浜雙葉中学・高等学校やフェリス女子大学の施設が見えてくる。

(写真:左は横浜雙葉中学・高等学校の入口、右はフェリス女子大学の家政科記念館と歴史資料館)

そして、手前に現れるのがベーリック・ホール(Berrick Hall)である。イギリス人貿易商B.R.ベリックの邸宅として、昭和初期に建てられた西洋館で、山手に残る戦前の外国人住宅としては最大規模を誇る。スパニッシュスタイルを基調とした建物は、三連アーチの玄関や小窓、瓦屋根の煙突など外観も華やかで、広いリビングルームや白黒のタイル床を備えた内部にも、往時の豊かな暮らしぶりが感じられる。細部の意匠も美しく、山手西洋館を代表する建物の一つであることがよくわかった。

(写真:左上は全景。その下左は夫人寝室、右は主人寝室、右側は上からリビングルーム、令息寝室、ダイニングルーム)

この後は元町公園を抜け、中華街までの道を確認した。途中、生糸貿易商社の横浜支配人であったフリッツ・エリスマン(Fritz Ehrismann)の邸宅を通り抜け、関東大震災で崩壊した山手80番館遺跡を見学し、さらにジェラールの瓦工場と水屋敷跡で一休みした。アルフレッド・ジェラール(Alfred Gérard)は幕末に横浜へ来たフランス人実業家で、日本初の西洋瓦・レンガの製造を行い、同時に船舶給水業(水屋敷)を営んだことで知られている。

(写真:左はエリスマン邸、右は上より瓦工場と水屋敷跡、その下は山手80番館遺跡)

その後、元町商店街に出て中華街の入口を確認し、下見を終えた。バラが予想よりも早く見ごろを迎えていたようで、この日がちょうど見ごろの盛りだったのかもしれない。一週間後に案内するときには盛りを過ぎてしまうのではと少し心配になったが、それでも十分に楽しめるだろうと感じた。当日、天気に恵まれることを願いながら帰路についた。