bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

戸塚宿を歩く ― 地形と浮世絵が語る歴史の道

初夏の爽やかさを味わえる季節になった。だが近年は、気候変動の影響もあってか、この心地よい時期がずいぶん短くなっているように感じる。澄んだ空気と柔らかな陽射しに包まれるひとときは、いまではどこか貴重なものになりつつある。そんな五月のある日、仲間に誘われて、かつて旅人たちで賑わった戸塚宿を訪ねることになった。

横浜市は戸塚宿を紹介するために立派な案内図を用意しているが、そこに記されているのは「○○跡」といった名称が多く、現地には「旧東海道 道しるべ」がひっそりと立つばかりである。建物が残っているわけではないため、往時の姿を思い描くには、こちらの想像力を働かせるしかない。

その想像力を支えるには、まず土地の成り立ちを知っておく必要がある。戸塚は現在では横浜市に属しているため、つい武蔵国の延長のように思いがちだが、江戸時代までは相模国鎌倉郡に属していた。正月の箱根駅伝で難所として知られる権太坂を登り切ったあたりが、ちょうど武蔵と相模の国境にあたる。そしてここは、東京湾側と相模湾側の流域を分ける、地形上の重要な分水嶺でもある。

この地域は丘陵地帯で、三浦半島へと連なる三浦丘陵の北端部に位置する。戸塚の市街地は、柏尾川によって大きく刻まれた谷に形成されている。明治期の地図を見ると、その谷底の大半が水田として利用されていたことがよくわかる。昭和初期までは、この季節になると田植えに励む農家の姿が、谷のあちこちに見られたことだろう。

柏尾川は下流で境川に合流し、川はそのまま藤沢方面へ南下して相模湾へ注ぐ。この一帯は典型的な沖積低地である。律令国家が東海道を整備した際、この地域で安定して通行できる連続した低地は一つしかなかった。それが、相模野台地と三浦丘陵に挟まれ、藤沢・戸塚・保土ケ谷・神奈川へと続くこの谷筋である。まさに地形そのものが、古代の交通路をこの谷筋へと導いたのである。

江戸時代になると、この自然の回廊に宿場が置かれた。戸塚宿は江戸から五番目の宿場で、日本橋からおよそ四十キロメートル。江戸時代の旅人が一日に歩く距離とされた「十里(約四十キロ)」にあたり、多くの旅人にとって最初の宿泊地となった。天保十四年(1843)の『東海道宿村大概帳』には、家数六百十三軒・人口二千九百六人・本陣二・脇本陣三・旅籠七十五と記されており、東海道でも屈指の大宿場であったことがわかる。

歌川広重は『東海道五拾三次』で街道沿いの宿場や旅の風景を描いているが、戸塚宿もその一つである。今回の散策の目的は、戸塚宿の江戸方半分を歩きながら、広重が描いた情景の背景に潜む「地形と歴史の秘密」を読み解くことにあった。

(図:明治36年と現在の戸塚付近の地図(今昔マップより)。柏尾川に沿って北から南へと谷が広がっている様子がはっきりとわかる。)

待ち合せ場所にした戸塚駅地下改札口には、戸塚を象徴するモニュメントとして、広重が描いた浮世絵の復元パネルが大きく掲げられていた。ここで案内役の友人から、この絵に隠された“謎解き”のヒントを受け取った。

広重の絵には、橋の袂のにぎわいが描かれている。戸塚は鎌倉道や大山道の分岐点であり、画面には「左かまくら道」と記された道しるべが立ち、その脇には灯籠が添えられている。手前には「こめや」という旅籠があり、軒先には大山詣での講中名が掲げられている。旅籠は休憩所としても機能していたようで、案内の女中、馬から降りたばかりの旅人、杖を手にひと息つこうとする女性の姿などが描かれている。橋の上には僧形の老人がこちらへ向かって歩いてくる。左奥には大山と思しき山影がそびえ、右側には家並みが連なって画面に奥行きを与えている。

(図:歌川広重『東海道五十三次 戸塚』(出典はWikimedia Commons))

こうした構図を頭に刻み込み、広重が見たであろう風景と現在の戸塚を重ね合わせながら、戸塚宿の探検が始まった。まずはバスで谷が大きく開く地点まで向かい、そこから旧東海道をたどるようにして駅方面へ戻ることにした。

バスが戸塚駅前の商店街を抜けると、ほどなくして進行方向左手にブリヂストンの大きな工場が姿を現した。その先にも工場群が続き、谷底の広がりが車窓越しにもよくわかる。バスを降りると、どこからともなく甘いパンの香りが漂ってきた。香りの先には、ヤマザキ製パンの工場があった。現在の戸塚には多くの企業が進出しているが、その先駆けとなったのがブリヂストンで、進出は1938年のことだという。谷底の広い土地と交通の便の良さが、工業地帯としての発展を後押ししたのだろう。

旧東海道を下っていくと、かつての施設や遺構の跡が点々と記されている。宿場の出入口には「見附(みつけ)」と呼ばれる番所が置かれ、戸塚宿では江戸見附と上方見附が約二・二キロメートルほど離れて設けられていた。今回はまず江戸方見附跡を確認した。

街道には一里ごとに一里塚が築かれたが、ここには吉田一里塚跡が残されている。また、宿場には「問屋場(といやば)」が設けられ、公用の馬や人足の手配、公用書状の継ぎ立てなどを統括していた。戸塚宿では矢部・吉田・戸塚(中宿)の三か所に問屋場が置かれ、今回はそのうち最も江戸寄りの矢部町問屋場跡の標柱を確かめた。
(写真:東海道沿いの道しるべ。左上は吉田一里塚跡、左下は江戸方見附跡、中は旧東海道、右は江戸方見附跡)

さらに、戸塚は鎌倉道と大山道の分岐点でもあったため、これらの旧道の分岐も確認した。バスを降りた地点近くには「かまくら道」があり、かつて「鎌倉中道」と呼ばれた古道の一つである。また、大山道への分岐には大山不動が祀られており、大山詣での旅人が道中の安全を祈願した場所であったのだろう。後ほど触れる吉田大橋の手前で左に折れる吉田道も鎌倉道の一つで、近くの妙秀寺には延宝年間(1673〜1680)とされる道標が、どこからか移設されて残っている。

(写真:左上は鎌倉中道、左下は大山不動、右は妙秀寺の道標)

ほかにも戸塚には興味深い逸話がいくつか伝わっている。たとえば、建武の新政期に活躍した護良親王が足利直義により斬首された際、その首がこの地の井戸に現れたという伝承が残る。また、明治初頭にはイギリス人ウィリアム・カーチスが外国人居留民のためにハムの製造を始めたとされ、その後日本人の製造者が次々と現れ、やがて全国へ広まった。「鎌倉ハム」という名は、当初“鎌倉郡で作られたハム”と呼ばれたことに由来するという説もある。現在紹介されている鎌倉ハム倉庫は、その歴史の名残である。

さらに、現在の日立製作所のあたりは昭和初期には地方競馬場であり、そこへ通じる橋は「駒立橋」と名付けられていた。地名や施設の名に、当時の面影が今も受け継がれている。

(写真:左上は鎌倉ハム倉庫、左下は近くのハム製造本舗、中は駒立橋、右は首洗井戸)

さて、いよいよ広重の浮世絵の謎に迫る。彼が描いたとされる場所は吉田大橋で、視線は北から南へ向けられている。実際にその場所に立ってみると、そこに広がるのはごく普通の街並みで、特別な眺望があるわけではない。写真では分かりにくいが、欄干の頭に載る玉ねぎ形の擬宝珠(ぎぼし)だけが妙に印象深く目に映った。

(写真:吉田大橋)

ところが、広重の絵には大山が大きく描かれている。だが現地は低地で、周囲を丘陵に囲まれているため、大山が見えるとは考えにくい。本当に現地を見て描いたのだろうか――そんな疑問が浮かび始めたその時、友人が司馬江漢によるとされる「戸塚・吉田大橋」の図を差し出した*1

その構図は驚くほど広重のものと似ていた。「こめや」の前では女中が旅人らしき男女を迎え、橋の上には老人がこちらへ歩いてくる。背景には旅籠の家並みと、大きく迫る大山が描かれている。馬と馬引きが描かれていない点を除けば、ほぼ同じ構図と言ってよい。

司馬江漢は日本で初めて銅版画を制作し、遠近法を本格的に取り入れた画家として知られる。1992年頃には岐阜で保管されていたとされる五十三次の作品群が発見され、その五十五枚のうち五十枚程度が広重と酷似した構図で描かれていた。江漢の方が先に描いたとされるため、広重が江漢の構図を参照した可能性も指摘されている。ただ、その構図に同じ源流があったとしても、画面に漂う旅情や叙情性においては、広重の表現が際立っているように思われる。

江漢は蘭学を通して西洋画を学び、その構図は広重へと受け継がれ、さらに広重の作品はフランス印象派の画家たちにも影響を与えた。絵画という芸術を介して、西洋と日本のあいだを表現が往還していたことを、改めて実感させられる。戸塚宿を歩きながら、一枚の浮世絵の背後に広がる歴史の大きな流れに触れられたことは、実に貴重な体験であった。

ところが、この記事を書き進めるうちに、事態はそれほど単純ではないことも分かってきた。発見された「江漢画帖」そのものの真贋が、いまだ確定していないのである。本当に司馬江漢の真筆なのか、後世の模写なのか、あるいは広重以後に制作されたものなのかについて、研究者のあいだでも見解は定まっていないようだ。そう考えると、今回の発見を手放しで喜ぶことはできない。しかし、こうした未解決の問題に触れられるところにも、歴史の奥深さと魅力があるのだろう。

*1:對中如雲著『広重東海道五十三次の秘密: 新発見、その元絵は司馬江漢だった』 (ノン・ブック 372)