bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

佐藤彰一著『宣教のヨーロッパ 大航海時代のイエズス会と托鉢修道会』を読む

作品『沈黙』と問題意識の提示
江戸時代初期、幕府はキリスト教を禁制とし、信徒に対して激しい弾圧を加えた。『沈黙―サイレンス』は、遠藤周作の小説『沈黙』を原作とする映画であり、信頼する司祭が棄教したという噂の真偽を確かめるため、日本へ密入国した二人の宣教師の姿を描いている。

五島列島にたどり着いた宣教師たちは、苛烈な弾圧のなかでも信仰を守り続ける信徒と出会う。布教活動は当初こそ順調に進むが、彼らの潜伏を察知した幕府は村に宣教師の引き渡しを要求する。宣教師を守ろうとした村人たちは激しい拷問を受け、次々と処刑されていく。その姿を目の当たりにした宣教師は深い苦悩に沈み、やがてその一人は「なぜ神は、これほどの苦しみの中で沈黙しているのか」と問いかける。

映画では、二人の宣教師のうち一人は拷問の末に溺死し、もう一人は苦悩の果てに棄教して幕府から職を与えられ、日本で生涯を終える。彼の遺体は仏式で火葬されるが、その手には密かにキリスト像が握られていた。

この映画は十年ほど前に公開されたが、鑑賞後、「なぜ人は命を賭してまで信仰を守ろうとするのか」という問いが強く胸に残った。そして、この問いを深めるうちに、キリスト教が歴史の中でどのように広まり、どのような葛藤を抱えてきたのかを知りたいと思うようになった。以前、山内進の著書『北の十字軍』を読み、異教地域への十字軍遠征と植民活動を進めたドイツ騎士修道会の存在を知った。一方、日本が戦国時代にあたる16世紀、カトリックは武力ではなく、主として宣教活動を通じてヨーロッパ外の各地へキリスト教を広めようとした。このような動きを理解するため、『宣教のヨーロッパ』を読んだ。

16世紀キリスト教世界とイエズス会の形成
16世紀のキリスト教の変化としては、マルティン・ルターやジャン・カルヴァンによる宗教改革がよく知られている。同じ時期、世界各地への布教活動という観点から見ると、修道会、なかでもイエズス会の活躍は特に注目に値する。

当時のカトリック教会では、腐敗や規律の緩みが深刻化していた。キリスト教では、人は原罪を負って生まれ、救済は神の恩寵によって与えられると考えられていた。しかし、中世末期の教会では、その救済をめぐる実践が大きく形骸化していた。実際には、贖宥状が金銭と結びつき、乱用される例も見られた。また、一人の司教が複数の司教区を兼任して多額の聖職禄を得たり、司教が自らの司教区を訪れずに牧会の務めを十分に果たさなかったりする例も見られた。さらに、聖書の内容を十分に理解していない聖職者さえ存在した。

こうした状況を是正し、本来の信仰の姿を回復しようとして、宗教改革者たちは聖書を重視し、救済は教会制度や聖職者の仲介ではなく、神への信仰によって与えられると考えた。また、「万人祭司」という思想のもと、すべての信徒が神の前では平等であるとされた。こうした状況のなかで、宗教改革がヨーロッパ全土に広がるにつれ、カトリック教会内部でも自己改革の必要性が強く意識されるようになった。大きな転換点となったのが、トリエント(トレント)公会議であった。

この公会議に先立ち、カトリック内部でも改革の動きが見られた。ルネサンス以来の潮流を受け、古代ギリシア・ローマの文献に立ち返り、人間の理性や尊厳を重視する学問・文化運動が広がっていた。この思想は人文主義と呼ばれ、デジデリウス・エラスムスはその代表的人物である。人文主義は原典に立ち返る姿勢を通じて、教会の在り方を批判的に見直す知的風土を生み出した。

カトリックの司教の中にも人文主義を尊重する人物が現れ、ジョヴァンニ=マッテオ・ギベルティは聖職者としての模範的な姿を実践した。また、イグナティウス・デ・ロヨラは、従来の修道会とはやや異なる性格をもつイエズス会を創設した。イエズス会士は、修道会の三つの誓願(清貧・貞潔・服従)に加えて「教皇への特別な服従」という第四の誓願を立てた。彼らは高度な教育を受けた司祭として活動し、各地で宣教や教育に従事した。

トリエント公会議は当初、カトリックとプロテスタントの和解も視野に入れて召集されたが、実際にはプロテスタントの参加は限定的で、会議の主導権はイタリア系聖職者が握っていた。そのため、プロテスタント側からは「イタリア人による地方公会議」にすぎないと批判されることもあった。また、ペストの流行やイタリア戦争などの影響によって中断が繰り返され、開会から閉会まで十八年を要した。当初は参加者も少なかったが、閉会時には約二百三十名が出席し、カトリック教会の再建に向けた強い意思が示された。

トリエント公会議では、教義の明確化と規律の刷新という二本柱によって、カトリックの立て直しが図られた。特に重要な決定として、次のようなものが挙げられる。

  • 聖書と聖伝の権威の確認:啓示の源泉は聖書だけでなく聖伝にもあるとし、教会の解釈権を重視した。
  • 七つの秘跡の再確認:洗礼・聖体など七つの秘跡を正統なものとして確認した。
  • 実体変化説の確認:ミサにおいて、パンと葡萄酒がキリストの体と血へ実体変化すると確認した。
  • 義認論の明確化:救いは神の恩寵によるが、人間は自由意志によってそれに応答すると考えた。
  • 司教の定住義務:司教は自らの司教区に居住し、司牧を怠ってはならないと規定した。
  • 神学校の設置:聖職者教育を充実させるため、各教区に神学校の設置を義務づけた。
  • 贖宥状をめぐる乱用の禁止:金銭と引き換えに贖宥状を販売するような乱用を禁止した。

このように、トリエント公会議は教義と組織の両面からカトリック教会の再建を進め、その後の対抗宗教改革の方向性を決定づけた。そして、この改革によって活性化したイエズス会は、日本を含む世界各地で積極的な宣教活動を展開していくことになる。

イエズス会の創設者は、前述したイグナティウス・デ・ロヨラである。彼はスペインのバスク地方に生まれた小貴族(ヒダルゴ)階層の出身であった。若い頃は騎士道に憧れ、イタリア戦争に従軍して負傷する。その後、療養中に聖人伝やキリスト伝を読んだことをきっかけに回心し、洞窟での苦行や聖地巡礼を経て、より深い神学的知識の必要性を自覚してパリ大学へ留学した。ここで出会った仲間たちが、後にイエズス会の創設メンバーとなる。その中には、小貴族出身のフランシスコ・ザビエルも含まれていた。

学業を終えた彼らはローマへ赴き、教皇への奉仕を願い出た。そして、教皇に直接従属する修道会を組織し、世界各地への宣教に乗り出すことを決定した。この頃、フランシスコ・ザビエルは二人の会士を伴い、インドへ向けて出発している。

イグナティウスはイエズス会の初代総長となり、自身の霊的体験をもとに霊操をまとめた。『霊操』は、四つの段階(罪の黙想、キリストの生涯、受難、復活)を通して自己を省み、神の望む生き方を選び取ることを目的とする精神修養である。イエズス会に入会する者には、この霊操の実践が重視された。

イグナティウスの存命中にイエズス会士の数はすでに千人を超え、彼の死後にはさらに急速に拡大した。会はまずイタリアとイベリア半島で広まり、その後北ヨーロッパへと進出した。さらに、ラテンアメリカや北アメリカにも管区や宣教拠点を設置し、アジア各地にも活動を広げていった。

イエズス会学校では、人文主義教育を基盤とした体系的な教育が行われた。教育課程はラテン語から始まり、人文諸学や修辞学へと進み、ギリシア語も学ばれた。その後、アリストテレス哲学に基づく論理学・自然哲学・形而上学を修得し、最終段階として神学教育が置かれた。この教育体系は後に『ラティオ・ストゥディオールム(学事規定)』として整備され、近世ヨーロッパの教育に大きな影響を与えた。現在でも、多くのイエズス会系学校にその伝統が受け継がれている。

15世紀、ポルトガル王国は王権主導の海外進出を進め、香辛料貿易などによって富を獲得しようとしていた。15世紀末にはヴァスコ・ダ・ガマがインド西海岸のカリカットに到達し、ポルトガルは本格的にインド洋交易へ参入する。

16世紀半ば、フランシスコ・ザビエルはインドのゴアで布教活動を開始した。すでにポルトガルの進出から数十年が経過していたため、フランシスコ会やドミニコ会など、既存の修道会も現地で活動していた。

ザビエルは、ゴアに設けられた学校でイエズス会士が教育を担うよう要請され、その運営に力を注いだ。この学校は後に、アフリカやアジアでの宣教活動を支える人材育成の重要な拠点となった。

その後ザビエルは、日本での約二年間の滞在を含め、十年近くにわたってアジア各地を巡り、最終的には中国布教を目指して広東沖の上川島で没した。当時の報告書では数百万人を改宗させたとも語られるが、実際には誇張が含まれていたと考えられている。

日本宣教史と近代の信徒発見
日本に最初のポルトガル船が到着したのは、1542年あるいは1543年のことである。中国との密貿易に従事していたポルトガル人を乗せた船が嵐に遭い、種子島へ漂着したのが始まりであった。漂着を契機に日本との接触を得たポルトガル商人は、やがて日本銀が中国貿易で莫大な利益を生むことを知り、日本を重要な銀供給地として位置づけるようになった。当時の中国では、生糸や絹織物の取引に大量の銀が必要とされており、ポルトガル商人は日本銀を中国へ運ぶことで大きな利潤を得たのである。日本は世界有数の銀産出地であったため、東アジアの交易網において欠かせない存在となっていった。

そのころ、フランシスコ・ザビエルはマラッカで日本人のアンジロウ(ヤジロウ)と出会う。ザビエルは、アンジロウが理性的で学習意欲に富んでいることに感銘を受け、日本は宣教に適した土地であると考えるようになった。1549年、ザビエルは鹿児島に到着する。島津貴久は、ザビエルを受け入れることでポルトガル商人との交易が可能になると期待したが、その見込みが薄いことを知ると、キリスト教への統制を強めた。そこでザビエルは平戸へ移り、松浦隆信の保護を受けた。平戸は当時、ポルトガル商船も来航する貿易港として栄えていた。

やがてザビエルは、戦国大名たちがポルトガルとの交易を通じて勢力を強めようとしていることに気づく。そこで、日本全国での宣教を実現するためには将軍の許可が必要であると考え、京都へ向かった。しかし、将軍権力が衰えていることを知り、山口の大内義隆を頼ることになる。山口では一定の保護を受けて布教活動を行った。その後、ザビエルはインド方面のイエズス会運営に携わるため、日本を去った。

その後、日本での布教を引き継いだのがコスメ・デ・トーレスである。大内義隆が家臣の陶晴賢によって滅ぼされると、宣教師たちは豊後の大友義鎮(のちの宗麟)の保護を受けるようになった。大友氏の支援のもとで布教活動は筑前・豊前へも広がった。また、宣教師たちは貧民や社会的弱者への布教や救済活動にも力を注ぎ、施療院などを設けた。しかし、こうした活動は一部の武士や住民から反発を招くこともあった。

その後、イエズス会の主要拠点の一つは、キリシタン大名・大村純忠の保護を受けた大村へと移っていった。この地域でキリスト教が広がった背景には、領主たちがポルトガルとの交易によって商業的利益や軍事的利益を得ようとした事情もあった。こうした点については、イエズス会士たちも十分に認識していた。

大名の保護と交易利益が布教の背景にあった点は、天草諸島や五島列島でも同様であった。転機となったのは、1579年にアレッサンドロ・ヴァリニャーノがイエズス会東インド巡察師として日本を訪れたことである。彼は、日本人にキリスト教を受け入れてもらうには、日本人の価値観や作法に合わせる必要があると考え、順応政策を推進した。すなわち、宣教師に対して、日本式の礼儀や服装、言葉遣いを学ぶよう求めた。たとえば、日本人と会う際には礼を尽くすこと、身なりを整えること、日本社会の上下関係を尊重することなどを重視したのである。

また、ヴァリニャーノは、日本人自身が聖職者となることが重要であると考えた。そこで、神学校(セミナリヨ)や修道士養成施設(ノビシャド)などを整備し、日本人教育を進めた。これは、「外国人が支配する宗教」ではなく、日本人自身による教会を育成しようとする発想であった。さらに、日本のキリシタン少年たちをヨーロッパへ派遣することも企画した。これが1582年に出発した天正遣欧少年使節であり、ローマ教皇への謁見、ヨーロッパ文化の視察、日本への理解促進などを目的としていた。

こうした順応政策や大名層との結びつきによって、日本におけるキリスト教は急速に発展した。しかし、1587年、豊臣秀吉が伴天連追放令を出したことで、宣教活動は大きな制約を受けるようになる。さらに、江戸幕府によって禁教政策が進められ、キリスト教徒に対して厳しい弾圧が加えられた。

この後、再びキリスト教が公然と認められるようになるのは、約250年後、開国後のことである。フランスの宣教師たちは長崎に教会を建設した。代表的なのが、1864年に完成した大浦天主堂である。これは在留外国人のための教会であった。

1865年、この大浦天主堂を訪れた浦上村の人々が、フランス人司祭のベルナール・プティジャンに対し、「私たちの心はあなたと同じです」と告げた。彼らは、マリア崇敬、独身の司祭、ローマ教皇への信仰などを確認し、自分たちが密かに守り続けてきた信仰と同じであることを確かめた。これはヨーロッパ側にとって非常に大きな衝撃であった。宣教師が追放されてから二世紀以上が経過していたにもかかわらず、日本に信徒共同体が存続していたからである。この出来事は「信徒発見」と呼ばれている。なお、この時点ではまだ禁教政策は続いており、その後も浦上の信徒たちは弾圧を受けた。しかし、明治政府は1873年にキリスト教禁制を撤廃した。

また、2018年には長崎と天草地方の潜伏中のキリシタン関連遺産が世界文化遺産として登録された。二世紀以上にわたり密かに信仰を守り続けた人々の歴史は、世界史の中でも特異な宗教体験として高く評価されている。

結語:信仰と超越的存在をめぐる比較考察
「なぜ人は命を賭してまで信仰を守ろうとするのか」という問いに対しては、当時の時代背景を踏まえて考える必要がある。16世紀ヨーロッパでは、神という超越的存在の実在を前提として社会や思想が組み立てられており、信仰は人間の生と死を貫く根本的な枠組みであった。とりわけキリスト教では、人間は生まれながらに原罪を負い、その赦しは神の恩寵によってのみ与えられると考えられていた。このような世界観のもとでは、神を裏切ることは永遠の救いを失うことを意味し、命の危険に直面しても信仰を守ろうとする行動は、彼らにとって必然に近い選択であったといえる。

キリスト教、とりわけイエズス会が世界へ広がっていった背景には、その強固な組織力と知的基盤があった。高度な教育を受けた宣教師たちは、各地で布教と教育に従事し、神学校をはじめとする教育制度を整備した。こうした活動は信徒の育成にとどまらず、人々の教養を高め、近代以降の学問の発展にも少なからぬ影響を与えたと考えられる。

16世紀ヨーロッパの人々にとって、超越的存在とは神であった。しかし現代では、科学技術の進歩によって、超自然的な力を社会全体で自明視することは少なくなった。その一方で、人類は自らの制御を超える可能性をもつ人工知能を生み出しつつある。16世紀ヨーロッパの人々が神という超越的存在と向き合っていたのに対し、現代人は自らが創り出した新たな「超越的存在」と向き合おうとしているのである。超越的な力と人間がどのように向き合うべきかという問いは、形を変えながら、なお現代にも続いている。