東日本大震災から年月が過ぎた今、被災地がどこまで復興しているのか気になっていた。ちょうど三陸海岸を巡るツアーがあり、参加して自分の目で確かめてみようと思った。
おそらく中学生のころだったと思うが、社会科の先生から「三陸地方はリアス式海岸で、大きな津波に襲われることがあります」と教わったことを鮮明に覚えている。入り組んだ湾が津波のエネルギーを集中させ、場所によっては想像を超える高さまで津波を駆け上がらせるという説明だった。
ところが今回のバスガイドは案内を始めてすぐに、「三陸海岸の北部は直線的で、南部がリアス式です。北部は陸地が隆起して断崖となり、南部は地盤が沈下して谷が海に沈み込み、複雑な地形になりました」と語った。この説明を聞いた瞬間、これまでの理解と異なることに気づき、軽い違和感を覚えた。三陸海岸のすべてがリアス式ではないらしい。それではリアス式でない海岸では津波はどのように振る舞うのか。そして、なぜ北と南でそのような地形的な違いが生じたのか。新たな疑問が次々と浮かんできた。
もっとも、若いガイドにそこまでの地質的背景を求めるのは酷でもあり、詳しい調査は帰宅後に回すことにした。旅行中はまず、北部と南部でどのように地形が異なるのか、自分の目で確かめることに集中した。
今回の旅は二泊三日で、岩手県の太平洋側を北から南へ、さらに宮城県北部まで縦断する行程である。初日は、新幹線で盛岡に向かい、そこから神秘的な地底湖で知られる龍泉洞を訪れ、断崖海岸として名高い北山崎でクルージングを楽しみ、田野畑村に宿泊する。北上山地を横断する一日だ。

(図:初日の行程、青森から田野畑村まで、北上山地を横断)
日本列島は四つのプレートの境界に位置し、東北地方の東側の日本海溝では太平洋プレートが沈み込み続けている。このため東西方向の圧縮を受け、東北地方には隆起帯と沈降帯が帯状に並んでいる。東から順に、隆起した北上高地、沈降した北上川低地帯、再び隆起する奥羽山脈、その西側に沈降する内陸盆地列、さらに出羽山地を経て日本海側の海岸平野へと続く。この隆起帯には古い地層が残されており、これから向かう北上山地もその一つである。
新緑に覆われた北上山地の山道を、バスはゆっくりと進んでいく。険しい山というより、どちらかといえば穏やかな山並みだ。ガイドは我々を眠らせまいと、見どころを紹介したり、歌やクイズを披露したりと工夫を凝らす。それでもバスの心地よい揺れが眠気を誘う。
今回のバスガイドは男性で、バスガイド自体が減っている中、男性ガイドはさらに珍しく、全国的にもあまり多くないという。入社四年目とのことで、とにかく若い。ツアー客の多くは年配の女性で、彼はまるでアイドルのような人気ぶりだ。さすがに黄色い声が飛ぶわけではないが、彼が話すたびに相槌が入り、車内が和む。彼も心得たもので、どこで何を買うとよいか、何を食べるとよいかを熱心に紹介する。次の休憩地「道の駅 三田貝分校」でのおすすめは、揚げたての「揚げパンきなこ」だった。小学校の給食の定番だったのだろう。私たちもいただき、懐かしい気持ちになった。
次は最初の見学地である龍泉洞だ。岩手県岩泉町にある日本三大鍾乳洞の一つに数えられ、世界有数の透明度を誇る地底湖をもつ石灰岩洞である。古生代末期、北上山地が海底だった時代に、有孔虫やサンゴの殻が堆積してできた安家石灰岩が母体となり、その後の隆起で地上に現れた。石灰岩に浸透した雨水が長い時間をかけて溶食し、断層や節理に沿って洞窟が発達した。現在確認されている総延長は4,000m以上で、内部には水深98mの第三地底湖をはじめ、青く澄んだ地底湖が点在する。豊富な湧水、多彩な鍾乳石、そしてコウモリ類の生息地としても知られ、国の天然記念物に指定されている。

(写真:上の左は第一地底湖で水深は35メートル、中は第三地底湖で水深は98メートル、右は第二地底湖で水深は38メートル。下の左は第二地底湖、中は鍾乳洞入口付近、右は第一地底湖)

(写真:様々な形を作る石筍。左は洞窟ヴィーナス。中は上が守り獅子、下が亀石、右は上が石柱、下が地獄岩)
岩泉町を後にして再び海岸方面へ向かう。車窓からは岩手の豊かな自然が続く。ガイドの紹介によると、岩手県の誇りである大谷翔平選手の好物として知られ、「世界一」と評したとも紹介されるのが、ここ岩泉のヨーグルトだそうだ。その工場を横目に見ながら、バスは次第に海へと近づき、北山崎断崖クルーズ船乗り場へと向かう。
これまで夏を思わせる暑い日が続いていたのに、旅行初日は冬が戻ったかのように気温が10度ほど。運悪く雨も降っている。クルーズ船は外洋に出るため、波が高いと欠航になる。この日も心配されたが、出航できるとの連絡が入り、ガイドは「皆さんはとてもラッキーです」と喜んだ。出航率は五割ほどだという。ただし揺れが大きいとのことで、酔い止めを飲む人もいた。ガイドは酔い止めのツボまで教えてくれた。
パンフレットによれば、北山崎断崖クルーズは島越港から出航し、高さ約200メートルの断崖を海上から見上げる迫力ある景観を楽しむ約50分の遊覧である。海食によって刻まれた奇岩や白亜紀(約1.45億年前〜6600万年前)の地層を間近に観察でき、三陸北部の隆起による直線的な海岸地形を実感できる点が大きな魅力だと紹介されていた。
しかし当日は外洋の揺れが大きく、雨も降っていたため、見学は室内からにした。崖側の席の方が眺望は良いのだが、出遅れたため海側の席に座ることになった。このあたりはウミネコが多く、船内では餌としてパンも販売されていた。しかし寒さのため外に出る人は少なく、購入者はわずかだった。その一人は香ばしさに惹かれたのか、「おいしい」と言いながら半分ほど自分で食べてから外へ出ていった。
やがて、窓越しに見事な断崖が姿を現した。切り立った岩壁をつくり上げた波の力の大きさに、思わず息をのんだ。


(写真:北山崎断崖クルーズ船からの眺望)
宿泊地は羅賀湾に面したホテル羅賀荘である。この十階建てのホテルは、東日本大震災の際、三階の高さまで津波が押し寄せたという。ホテル側は、地震発生直後に到着していた宿泊客を、ホテルのバスで高台にある村営施設へ避難させた。その後、従業員たちは五階に集まり、海の様子を見守っていた。
やがて第一波が港の堤防付近で渦を巻きながら押し寄せ、続いて恐ろしいほどの高さの第二波がホテルを直撃した。その衝撃で生じた風圧によりエレベーターのドアが吹き飛ばされ、従業員たちは吸い込まれそうな風圧に必死で耐え、壁にしがみついて身を守ったという。その後、階段を使って十階まで避難したとのことである。
震災後、このホテルは被災者の宿泊場所として利用され、従業員と宿泊者が協力しながら困難を乗り越えたという。営業再開にこぎつけたのは、震災から1年8か月後のことであった。

(写真:羅賀湾の眺望、上中央がホテル羅賀荘で、三階まで津波が押し寄せた)

(写真:羅賀ふれあい公園、左は明治、昭和、東日本大震災の慰霊碑、右上は津波で運ばれたと伝承されていたがそうではないことが近年判明、右下は明治29年の明治三陸大津波により打ち上げられた津波石)
三陸の景観は美しい。しかし、その美しさを生み出した地形は、ときに大きな災害ももたらす。帰宅後、北と南でなぜこれほど違うのかを改めて調べてみると、地質学的な背景が少しずつ見えてきた。
北上山地と三陸海岸の地質学的成り立ち
北上山地の成り立ちは、起源の異なる二つの地質帯が長い地質時代を通じて移動・集積し、接合したのち、火成活動や地殻変動を経て現在の姿に至った過程である。
1. 始まりは「別々の場所」で生まれた地層だった
(古生代〜中生代:約5億年前〜1.5億年前)
まず、南部北上帯と北部北上帯が独立した地質体として存在していた時代にさかのぼる。
南部北上帯
古生代(約5億年前〜2.5億年前)、現在の日本列島付近ではなく、ゴンドワナ大陸縁辺の低緯度海域に位置していたと考えられる。温暖な浅海ではサンゴ礁が発達していた。
北部北上帯
主にデボン紀〜ペルム紀(約4.2億年前〜2.5億年前)に海洋プレート上で形成された深海性堆積物や海山起源の岩石から構成される。一部にはジュラ紀の地質体も含まれる。龍泉洞の母体となる安家石灰岩はこの北部北上帯に属し、古生代末期の浅海で堆積した石灰岩である。
これらの地質体はプレート運動によって日本列島側へ運ばれ、現在の位置に集積した。
2. プレートに運ばれ、一つに合体する
(中生代ジュラ紀〜白亜紀前期:約1.8億年前〜1億2千万年前)
次に、プレートの沈み込みに伴って南北二つの地質帯が接合していく段階を迎える。
海洋プレートが陸側プレートへ沈み込む際、海洋プレート上の堆積物や海山が上盤側に削り取られ、陸側に押しつけられて積み重なる。この「付加」の過程が長期間続き、ジュラ紀後期〜白亜紀前期(約1.6億〜1.2億年前)にかけて南部北上帯と北部北上帯の接合が進み、現在の北上山地の骨格が成立した。
3. マグマの注入と、長い時間をかけた平坦化
(白亜紀後期〜新生代:約1億年前〜数千万年前)
白亜紀後期(約1億年前〜6600万年前)には、北上山地の地下深部で大規模なマグマ活動が起こり、花崗岩類が広く貫入した。これらは現在の北上山地の強固な基盤を構成している。
その後、新生代(約6600万年前以降)には長期間の侵食が進み、かつて起伏の大きかった山地は削られて小起伏の侵食面が形成された。種山高原(中部)や袖山高原(北部)などの平坦な高原地形は、この侵食小起伏面の名残である。
4. 地盤の動きと海面の上昇が、北と南の明暗を分けた
(第四紀〜現在:約260万年前〜現在)
第四紀には、地殻変動と氷期・間氷期の海面変動が重なり、現在の三陸海岸が形成される重要な局面を迎えた。
● 北部三陸(宮古市以北)
北部三陸では、新生代前半に形成された平坦な高原状地形が強い隆起運動によって押し上げられ、海岸線には段丘が発達した。隆起した平坦面の東端は太平洋の強い波浪によって侵食され、高さ100mを超える海食崖が連続する断崖海岸が形成された。北山崎や鵜の巣断崖がその代表例である。
● 南部三陸(宮古市以南)
南部三陸では、長期間の河川侵食によって深い谷が形成されていた。最終氷期最盛期(約2万年前)には海面が現在より100m以上低下し、河川は谷をさらに深く刻み込んだ。
ガイドもそのように指摘していたが、かつては「陸地自体の沈降」が主因と考えられていた。しかし近年の研究では、南部三陸は北部ほど強い隆起を受けず、地殻変動が比較的穏やかであったことが明らかになっている。つまり、北部のように地盤が大きく持ち上がらなかったため、氷期後の海面上昇の影響をより強く受け、谷が深く入り込んだリアス地形が形成されたのである。
こうして上昇した海面が深く刻まれた谷へ入り込み、谷が沈水して溺れ谷となり、複雑な入り江と岬からなるリアス海岸が成立した。
総括
北上山地と三陸海岸の形成は、古生代以来の地質体形成、中生代の接合と火成活動、新生代の侵食、そして第四紀の地殻変動と海面変動が重なり合うことで進んできた。
北部では地盤が大きく隆起して波に削られ、圧倒的な断崖絶壁が形成された。一方、南部は隆起が穏やかだったため海面上昇の影響を受け、複雑で美しいリアス海岸が生まれた。
この地形の違いは、旅の始まりに抱いた「リアス式でない海岸では津波はどのように振る舞うのか」という疑問への答えにもつながっている。南部のリアス海岸では、奥へ進むほど狭まる湾の形状が津波のエネルギーを集中させ、波高を増幅させる。これに対して北部の断崖海岸では、リアス海岸ほど湾奥での波高増幅は起こりにくい。しかし外洋に面した場所では、大きな波力を伴った津波が海岸へ直接作用し、地形条件によっては急な斜面や谷筋を駆け上がることがある。
十階建てのホテル羅賀荘の三階まで津波が押し寄せ、凄まじい風圧がエレベーターのドアを吹き飛ばしたという証言は、津波の巨大なエネルギーが海岸地形と組み合わさることで、想像を超える被害を生むことを生々しく物語っている。
長大な時間の積み重ねが現在の三陸海岸の対照的な景観を生み出し、それが災害の性質をも変える。今回の旅を経て、点として存在していた机上の知識と被災地の現実、そして地球の歴史が一本の線として結びついたように感じた。