bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

海と祈りの岸辺で──三陸鉄道から陸前高田へ

三陸海岸の旅も二日目を迎えた。この日は、NHKの朝ドラで一躍有名になった三陸鉄道への乗車に始まり、極楽浄土を思わせる浄土ヶ浜、そして震災からの復興を遂げつつある陸前高田を巡り、南三陸町へ向かって宿泊するという行程である。天気予報は雨だったが、幸いにも曇り空にとどまってくれた。ただ、気温は10度ほどしかなく肌寒い。寒さを避けるため、ヒートテックの下着にセーターを重ね、万全の防寒対策をして見学に向かった。

(図:岩手県の海岸線を北から南へ)

1. 三陸鉄道での出会いと車窓の絶景
バスに乗り込むと、若い男性ガイドが「おはようございます!」と元気に迎えてくれた。この日の最初のイベントは三陸鉄道への乗車である。朝ドラ『あまちゃん』で全国的に知られるようになった鉄道だが、ガイドは放送当時まだ幼く、ドラマの記憶はほとんどないという。そのためか、説明にはどこか控えめなところも感じられたが、「海女さんが列車に同乗しますので、ぜひ楽しんでください」と笑顔で案内してくれた。

乗車区間は久慈駅から普代(ふだい)駅まで。ガイドは両駅のお土産も熱心に紹介し、特に久慈名物の昆布を強く勧めていた。そのアナウンスの効果は絶大で、私たちが売り場に向かった時には、彼が勧めていた昆布はすでに売り切れていた。旅先ならではの、思わず頬が緩むひと幕だった。

列車に乗り込むと、海女姿のガイドが「今日はあまちゃんとしてご案内します」と笑顔で迎えてくれた。現役の海女でもあるという。明るくはきはきとした語り口で、まずは三陸鉄道の成り立ちを紹介してくれた。

三陸鉄道は、岩手県の三陸海岸に沿って走る第三セクター方式の鉄道で、北の久慈から南の盛(さかり)まで163キロを結ぶ「リアス線」を運行している。戦前から構想されていた三陸沿岸縦貫鉄道計画をもとに整備が進められ、国鉄時代に建設された路線を引き継ぐ形で1984年に北リアス線・南リアス線として開業した。2011年の東日本大震災では甚大な被害を受けたものの、わずか5日後には一部区間で運転を再開し、2014年までに全線が復旧。さらに2019年にはJR山田線の宮古~釜石間が移管され、久慈から盛までが一本の「リアス線」としてつながり、日本最長の第三セクター鉄道となった。太平洋を望む車窓の美しさと、地域の生活路線としての役割を併せ持つ、まさに地元の希望の光のような鉄道である。

私たちが乗車した区間は北上山地の北側にあたり、海側にはそそり立つ崖が続く。列車は段丘の上を走るが、谷を渡る瞬間には海側の眺望が一気に開け、息をのむような絶景が広がる。海女のガイドは、こうした景観の見どころをタイミングよく丁寧に説明してくれた。

沿線の特産品の話も興味深かった。久慈市では世界最古級とされる琥珀(こはく)が産出され、それは中生代白亜紀後期(約8,500万~9,000万年前)の植物樹脂が化石化したものだという。昆虫が閉じ込められた琥珀を見せてもらうと、太古の時間が急に身近になったような不思議な感覚にとらわれた。

また、野田村では意外にも梨の栽培が盛んだという。三陸沿岸は冷涼な季節風「やませ」の影響を受け、本来は果樹栽培に向かないとされる。しかし、和野平(わのだいら)地区には日当たりの良い傾斜地が広がり、この地形を生かすことで甘くみずみずしい梨が育つのだと教えてくれた。厳しい自然環境の中でも工夫を重ね、特産品を育ててきた人々の営みが、その言葉からしみじみと伝わってきた。

普代村の防災への取り組みも印象的だった。漁業が盛んなこの村は、東日本大震災で甚大な津波に襲われたものの、防潮堤や水門が大きな役割を果たし、周辺地域に比べて人的被害が大幅に抑えられたという。明治三陸地震(1896年)と昭和三陸地震(1933年)の教訓から、「被害を二度と繰り返してはならない」という強い決意のもと、昭和期に和村幸得(わむら こうとく)元村長が高さ15.5メートルの防潮堤と水門の建設を決断した。その先人の備えが、2011年の大津波から村民の命を救ったのだ。

あまちゃんガイドは、こうした地域の歴史や暮らしを織り交ぜながら、車窓に広がる景観を次々と案内してくれた。特に眺望の良い場所では、あらかじめ設定された撮影ポイントで列車が一時停車し、乗客がゆっくり写真を撮れるような粋な演出もあった。あまちゃんガイドの絶妙な案内に乗客一同が引き込まれ、旅の時間がひときわ豊かに感じられた。

(写真:野田村の風景。右下は水田風景と野田村防潮堤①、右中は十府ヶ浦海岸駅付近から見た米田水門②、右上は十府ヶ浦海岸の南端③、左上は玉川漁港④、左下は下安家サケマスふ化場 ⑤)

(写真:普代村の風景。左側は堀内(ほりない)駅からの風景で海側は堀内漁港、堀内駅はあまちゃんのロケで袖が浜駅として使われた。右下は国道45線にかかる大沢大橋)

2. 極楽浄土の美しさ、浄土ヶ浜
次の見学地は、昼食も兼ねて訪れた浄土ヶ浜である。ここは岩手県宮古市にある三陸を代表する景勝地で、白い流紋岩(りゅうもんがん)の奇岩と青く澄んだ海が織りなす独特のコントラストで知られる。江戸時代、霊鏡和尚(れいきょうおしょう)がその美しさを「まさに極楽浄土のごとし」と称えたことから、この名が付いたと伝えられている。

先の記事で北上山地の形成について触れたが、浄土ヶ浜の誕生もその長い地質史と深く関わっている。ここを特徴づける白い岩は、約5200万年前(古第三紀)の火山活動によって形成された流紋岩質の岩石である。長い年月の海蝕作用によって岩体が削られ、現在の白く鋭い奇岩群が姿を現した。流紋岩は石英や長石を多く含むため明るい色調となり、浄土ヶ浜特有の白い岩肌をつくり出している。火山活動、地殻変動、波浪の浸食という自然の営みが重なり合い、今日の浄土ヶ浜が形づくられた。

浜に立つと、外海の荒々しさが嘘のように入り江の波は穏やかで、光を受けて海面がきらめき、どこか幻想的な雰囲気に包まれていた。遊歩道を歩けば、白い岩肌の造形美を間近に楽しむことができる。太平洋から昇る朝日は、きっと息をのむほど美しいのだろうと想像が膨らんだ。

昼食をとったレストランは、東日本大震災の津波で壊滅的な被害を受けた場所だという。一時は廃業も考えたそうだが、「浄土ヶ浜の素晴らしい景観をこれからも多くの人に伝えたい」という強い思いが支えとなり、再開に踏み切ったのだと聞いた。目の前に広がる美しい入り江を眺めながら、その決断の重さと、地域に根ざして生きる人々の強さに深く胸を打たれた。

(写真:浄土ヶ浜、左下は復興なったレストハウス)

3. 陸前高田 ― 震災の記憶と復興の歩み
前日は大谷翔平選手の話題で盛り上がったが、この日は陸前高田を訪れるということで、同市出身の佐々木朗希(ろうき)選手の話から始まった。男性ガイドとは一歳違いだということもあり、彼にとっても同世代のヒーローとして特別な思いがあるのだろう。

陸前高田は「奇跡の一本松」の言葉通り、街全体が津波によって壊滅的な被害を受けた場所である。佐々木選手の自宅も流され、父親と祖父母を津波で失った。震災後は母親に支えられながら野球を続けたという。震災の深い爪痕と、そこから立ち上がってきた人々の歩みを思うと、胸に迫るものがある。

(1)震災が奪ったもの
陸前高田市が受けた被害はあまりにも壊滅的だった。津波は市街地を一掃し、死者・行方不明者は1,750人以上と、明治以降で最大規模の犠牲を出した。かつての高田松原は、江戸時代から先人が植林を重ね、約7万本もの美しい松林が白い砂浜に沿って数キロにわたり続く、日本屈指の名勝であった。しかし、その市民の誇りであり地域の宝であった松林は、激しい濁流によってほぼ全滅し、市の中心部は広範囲にわたって流失。住宅や公共施設、商店街もことごとく失われ、多くの住民が長い避難生活を余儀なくされた。

(写真:東日本大震災前の陸前高田市街地(ウィキペディアより、建物名追加)、海岸沿いには名勝の松林が、陸地には市街地と田が豊かに広がっている)

(写真:東日本大震災後の陸前高田市街地(ウィキペディアより、建物名追加)、津波でことごとく流失)

(2)復興への歩み
震災後、市は早期の生活再建と産業復興を目指し、2011年12月に「震災復興計画」を策定した。高台移転や防潮堤の整備、大規模な土地のかさ上げなどによる都市再編が進められ、仮設住宅から恒久住宅への移行も段階的に行われた。長期にわたる懸命な取り組みの結果、現在では公共施設や商業エリアの再建が進み、地域の活力を取り戻しつつある。震災から十年以上が経過した今も、陸前高田市は「海と緑と太陽との共生」を掲げ、持続的な地域づくりに取り組み続けている。

(3)震災遺構
まずバスの車窓から見えてきたのは「下宿(おりじゅく)定住促進住宅」である。東側の国道45号沿いに建つ5階建ての市営住宅だが、津波は高さ14.5メートルに達し、4階までを水没させ、5階の床面にまで到達した。内部は非公開だが、押し寄せた津波の圧倒的な高さを無言で伝える震災遺構として、今も当時の姿を留めている。

(写真:下宿定住促進住宅、4階まで水没し、窓・ベランダなどは津波でさらわれた)

続いて「米沢商会ビル」が目に留まる。包装資材の卸小売店だったこの建物は、鉄筋コンクリート造で高さ約14~15メートルという堅固な造りだった。震災時、店主は間一髪で屋上のさらに上にある煙突のトップに避難して一夜を過ごし、翌日ヘリコプターで救助されたという。当時の壮絶な状況を後世に伝えるため、公的支援を受けず店主が個人で維持・保存している、極めて貴重な民間の震災遺構である。

(4)奇跡の一本松と祈り
「東日本大震災津波伝承館」の前でバスを降り、私たちは防潮堤へと向かった。途中にある「旧道の駅高田松原(タピック45)」は、かつて多くの人に利用されていた憩いの場だった。震災の津波で内部は大きく損壊したが、周辺が壊滅する中、逃げ遅れた3名が屋上へ駆け上がり、奇跡的に命を取り留めた場所でもある。

現在、周囲は「高田松原津波復興祈念公園」として美しく整備されており、最新のAI技術を用いた芝刈りロボットが静かに園内を動き回っていた。道すがら、数束の花が手向けられた献花台が目に入る。さらに進むと防潮堤の上部へとつながる橋があり、そこを渡り切ったところで、ガイドの呼びかけにより全員で黙祷を捧げ、震災で亡くなられた方々の冥福を祈った。その後、この地域の被害状況について改めて詳しい説明を受けた。

(写真:高田松原津波復興祈念公園。左上は黙祷した「海を望む場」から東日本大震災津波伝承館を望む。左下は「海を望む場」からタピック45を右手に見ての眺望、中上は防潮堤上の歩道、中下は防潮堤と公園との間を流れる川、右上は植栽された松、かつては名所であった防潮堤の松林の復元を目指している、左下は「海を望む場」からの西側の眺望)

「奇跡の一本松」へと向かう手前のエリアには、復興事業の土砂運搬を支えた巨大ベルトコンベヤーの吊り橋「希望のかけ橋」のコンクリート製基礎(橋脚)が震災遺構として残されている。トラックでは9年かかるとされたかさ上げ工事を、わずか2年に短縮し復興を加速させたこの橋は、上部構造こそ撤去されたものの、残された重厚な基礎が当時の圧倒的な事業規模と人々の熱意を今に伝えている。

その遺構を通り過ぎた先に、一本松が静かに立っている。津波によって約7万本の松林が失われる中、ただ一本だけ津波に耐えて立ち続けた松である。その後、塩害などにより枯死してしまったが、現在は防腐処理を施したモニュメントとして保存されている。保存・モニュメント化には1億5千万円という巨費を要したため、当時は「復興期に無駄遣いだ」という批判もあったそうだが、当時の市長は「震災の記憶を長く未来にとどめる象徴になる」と信念を貫いて建造を決断したという。今、こうして国内外から多くの人々がこの地を訪れ、祈りを捧げている姿を見ると、その先見性と強い意志の意義深さを強く感じる。

一本松の背後には、同じく震災遺構である「陸前高田ユースホステル」が、津波で大破した当時の姿のまま保存されていた。一本松の背後には、同じく震災遺構である「陸前高田ユースホステル」が、津波で大破した当時の姿のまま保存されていた。当時は冬季休館中だったため、幸いにも館内での犠牲者は出なかったという。また、近くの「気仙中学校」でも、津波によって甚大な被害を受けた旧校舎が震災遺構として保存されており、私たちは自然の脅威と、忘れてはならない記憶を胸に刻みながら、その地を後にした。

(写真:左上は旧気仙中学校、左下はタピック45、中上は奇跡の一本松、中下は「希望の橋」の橋脚、右は陸前高田ユースホステルと新たに設けられた水門)

復興の歩みは今も続いている。三陸の海と人々が歩んできた時間の重みを胸に刻みながら、私たちはこの日の宿泊地、南三陸町へと向かった。