bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

南三陸から松島へ ― 震災の記憶と文化景観をめぐる旅

三陸海岸の旅もいよいよ最終日となった。この日は、南三陸町で震災からの歩みを伝える「震災復興祈念公園」と、日本三景の一つである松島を訪ねる予定である。行程は今日も盛りだくさんだ。

(図:南三陸町から松島海岸へ)

三日目ともなると、ツアー参加者の顔ぶれや雰囲気もだんだんと見えてくる。総勢四十名という大所帯で、そのうち二十九名が女性だ。一人旅は五名だけで、あとは夫婦や親子、女性同士のグループが多い。シニア世代の旅行では、女性の積極性が目立つように感じる。こうしたツアーに参加する男性は、同世代の中では比較的積極的な部類なのだろう。一方で、こうした場にあまり姿を見せない同世代の男性たちは、日々どのように過ごしているのだろうか――そんな思いがふと頭をよぎった。

参加者同士もほどよく打ち解け、軽い挨拶や雑談を交わしながらバスへと乗り込む。若い男性ガイドもすっかり一行に馴染んだようで、写真を撮られたり、気さくに声をかけられたりと、距離が近くなってきたのが分かる。和やかな空気のままバスは走り出し、ほどなくして最初の目的地――南三陸町震災復興祈念公園に到着した。

■ 南三陸町震災復興祈念公園 ― 失われたものと未来へのまなざし
バスを降りると、朝のひんやりした空気とともに、静かな緊張感のようなものが漂っていた。ここは、東日本大震災で甚大な被害を受けた志津川地区の中心部に整備された追悼と伝承の場である。2011年の津波は町全体に牙をむき、800人を超える尊い命が犠牲となった。

公園の中心に築かれた「祈りの丘」は海抜20メートルの高さを持ち、頂上には犠牲者名簿を収めた石碑が静かに佇む。丘の途中には、この地を襲った津波の平均高にあたる海抜16.5メートルを示す「高さのみち」も設けられている。しかし、今回は時間の制限もあり、ここまでは足を延ばすことができなかった。旅を終えてから改めて調べるうちに、祈りの丘が震災の記憶を象徴する重要な場所であったことを知った。あのとき、多少無理をしてでも行っておけばよかった――そう思うほど、現地で感じた空気は重く、深かった。

そうした中で、私が最も見落としたくないと思ったのは、公園の象徴ともいえる旧南三陸町防災対策庁舎である。赤い鉄骨だけが残るその姿は、写真で見るよりもはるかに生々しく、目の前に立つとただ圧倒され、言葉を失うほどだった。震災当日、防災無線で避難を呼びかけ続けた職員の方々を含む43人が津波の犠牲となった場所であり、なかでも女性職員が「早く逃げてください」と最期まで呼びかけ続けたというエピソードは、現地に身を置くと胸の奥に深く迫ってくる。

庁舎の保存をめぐっては長年議論が続いたが、震災遺構としての保存が決定し、現在は補強などの対策を経て、その記憶を未来へ語り継ぐ場となった。通常、犠牲者が出た場所を震災遺構とすることは、遺族や関係者への心理的影響から慎重に判断される。しかし、職員の方々が命を賭して住民の命を守ろうと重責を果たした歴史を鑑みれば、この庁舎を保存するという判断には大きな意味があると感じた。

震災復興祈念公園からは、隈研吾設計の「南三陸町東日本大震災伝承館 南三陸311メモリアル」が望める。未来へ向けて漕ぎ出す「船」をイメージした三角屋根が特徴的なこの建物は、海と山をつなぐ立体的な動線と、周辺の景観に溶け込む木や金属を組み合わせたデザインが見事である。隣接する「南三陸さんさん商店街」もまた隈研吾の設計によるものだ。地元の南三陸杉をふんだんに使った温かみのある平屋建ての建物が並び、店先に並ぶ新鮮な海産物や食事の準備に余念のない飲食店からは、人々の現在の暮らしの息遣いが確かに感じられる。

また、公園の一角に立つチリ共和国から寄贈されたモアイ像も目を引く。1960年のチリ地震津波以来、長年培われてきた絆の証として、震災後に再び友好と復興を願い贈られたものだという。異国の石像が海辺に佇む光景には、どこか不思議な趣があった。今回は近くまで足を延ばす時間はなかったが、遠くからその姿を眺めるだけでも、町と世界のつながりを感じることができた。

祈念公園、旧庁舎、商店街、モアイ像――。
南三陸町は「失われたもの」と「未来へつなぐもの」を同時に見つめる場として、力強く再生を続けていた。

(写真:左上は旧南三陸町防災対策庁舎、左下は南三陸311メモリアル、右上はモアイ像、右下は南三陸さんさん商店街)

■ 松島へ ― 地形・歴史・文化が織りなす日本三景の風土
南三陸を後にし、バスは松島へ向かう。海沿いの林を走るにつれ、車窓の風景はしだいに視界が開け、やがて松島湾に浮かぶ数々の島々が眼下に姿を現した。

天然の防波堤が生んだ奇跡の地形
車窓から島影が増えてくるにつれ、松島の地形が南三陸とはまったく異なることに気づく。松島湾は沈水地形を基盤としながらも、典型的なリアス海岸とは異なる多島海の景観をつくり出している。その起源は、山地の谷が海面上昇によって水没した「溺れ谷(沈水谷)」。氷期後の海面上昇によって複雑に入り組んだ谷地形がそのまま海に沈み、現在の景観が形成された。

一般に、入り組んだ沈水海岸は津波のエネルギーを増幅させやすいため、災害に弱いとされる。しかし松島は違った。松島湾を巡る遊覧船のアナウンスによれば、2011年の震災時、外洋側で津波の高さが8〜10メートルに達した一方、湾内は1〜2メートル程度に抑えられたという。湾口部の島々が天然の防波堤となり、複雑な地形が波の勢いを殺したためだ。松島は、自然の美しさだけでなく、自らを護る独自の防災機能をも併せ持つ、自然の造形が生んだ極めて特徴的な景観である。

こうした松島の特異性は、三陸海岸全体の多様性の一端でもある。 実際、 三陸海岸と一口に言っても、その姿はきわめて多様である。北部は直線的な海岸線が続き、南部は典型的なリアス式海岸、そして最南端の松島湾は溺れ谷によって形成された複雑な地形をもつ。

(写真:左上が直線的な田野畑村の海岸、左下と右上がリアス式地形の陸前高田市と南三陸町の海岸、右下が複雑な入り江が連なる松島湾)

「西行戻しの松」の絶景から松島湾クルーズへ ― 伝承とリアルが交錯する旅
バスがやがて停車したのは、松島湾を高台から一望できる場所だった。古来、多くの文人墨客に愛されてきた松島だが、その歴史を今に伝える象徴的な名所が「西行戻しの松」である。由来となった一本の松が立つ高台には、西行法師が童子との問答に敗れ、松島行きを断念したという伝承が残る。現在の「西行戻しの松公園」は、湾内を見渡せる屈指の展望地だ。春には約260本のソメイヨシノが咲き誇り、青い海とピンクの桜のコントラストが人々を魅了する。

展望台から眺める島々の連なりは、まるで一幅の絵巻物のように静かで美しい。海面も松の枝も動きを見せず、島影はただ静かに浮かんでいるように見えた。

(写真:左と右下は西行戻しの松、他は公園から見た松島)

しかし、ここからバスが松島の門前町へと入っていくと、景色は一変した。溢れかえる人波と立ち並ぶ土産物店。先ほど高台から見下ろした静寂の世界とはあまりにも異なり、その俗世的な賑わいに、一瞬、興ざめするような感覚さえ覚えた。

ここでの滞在時間は、昼食も含めて自由行動の3時間。私は遊覧船に乗るべきかどうか、まだ決めかねていた。そこへガイドから「乗船される方は手を挙げてください」とアナウンスが入る。最初に手を挙げたのは、わずか一人だった。ところが、「ツアー客の方は割引になります」と言葉が添えられた途端、かなりの人々が興味を示し始めた。その様子に背中を押されるようにして、私も遊覧船を利用することに決めた。

バスを降りたあと、ひとまず遊覧船の乗車券を購入。乗船までの時間は寺院巡りにあてたが、これについては後述する。

いよいよ乗船した遊覧船は、松島湾を一周するルートを進む。事前の調べでは「右側の席が良い」とのことだったが、それを知る乗客は多かったらしく、乗船が後方に回った私たちは、仕方なく反対側の席に座った。

だが、実際に海へ出てみると、その落胆は予想を大きく裏切る形で解消された。松島湾は想像以上に広大で、島々も意外なほど距離を置いて点在している。穏やかな海に浮かぶ島々は、一様に松をまとっているものの、その形は実に様々で飽きることがない。湾の入り口に並ぶ島々が津波の防波堤となり、それが結果として松島の景観を守ることにもつながった。

(写真:遊覧船からの松島)

伊達政宗の美意識が息づく宗教文化
松島は日本屈指の景勝地として名高いが、歴史に興味がある者にとっては、この地に遺る建築物も見逃すことができない。松島の寺院群は、単なる観光名所ではなく、戦国大名の美意識と政治的意図が色濃く刻まれた文化空間である。遊覧船の前後のわずかな時間ではあったが、その一端に触れることができた。

戦国武将の中でも屈指の知名度を持つ人物が、「独眼竜」伊達政宗である。彼は当時、荒廃していた松島の寺院を伊達家の菩提寺として再建し、さらに豊臣秀吉から拝領した伏見城の茶室をこの地に移築させるなど、松島を自らの精神的・政治的な重要拠点として厚く保護した。そうして、松島に絢爛豪華な「伊達文化」を根付かせたのである。

その代表格が、政宗が5年の歳月をかけて大規模に再興した瑞巌寺(ずいがんじ)である。本堂と庫裡はいずれも国宝に指定されており、金箔や極彩色の装飾が施された本堂内部は、桃山文化の華麗さと禅宗美術が融合した重厚な空間だ。一方で、庫裡の広い土間は、往時の寺院生活の営みを今に伝えている。

(写真:瑞巌寺で、左上は中門、左下は洞窟遺跡群、中上は庫裡への門、中下は本堂、右上は庫裡、右下は御成門)

(写真:本堂の内部から見た瑞巌寺の庭園)

また、瑞巌寺の塔頭である円通院(えんつういん)は、政宗の嫡孫・光宗の菩提寺だ。境内には、松島特有の凝灰岩の地形を生かした枯山水庭園や、苔むした石組が美しい「雲外庭」、さらにはバラを配した洋風庭園など、多様な庭園が広がる。特に枯山水庭園は松島湾の島々を縮景的に表現したとされ、静寂の中に深い陰影が漂っていた。

(写真:円通院で、左は庭園、中上も庭園、中下は山門、右上は洞窟遺跡、右下は仙台藩主二代忠宗の次男光宗の霊廟)

さらに、松島湾を望む高台に建つ観瀾亭(かんらんてい)は、先述した伏見城の建物を伊達家が拝領し、この地へと移築したものと伝わる名建築だ。今回はあいにく時間がなく、中に入ることは叶わなかったが、外観からだけでも往時の素晴らしさが十分に伝わってきた。

(写真:左は観瀾亭近くからの眺望、右は観覧亭)

旅の終わりに
松島は、自然の造形美、歴史的伝承、武家文化、宗教空間、そして景観を愛でるための建築が重層的に構成された稀有な地域である。溺れ谷の地形が生んだ島々の風景は、単なる観光資源ではなく、自然と人間の営みが長い時間をかけて織りなした文化景観そのものであった。

三日間の旅は多くの発見に満ちていたが、同時に、田野畑、陸前高田、南三陸で目にした震災の記憶が心の底に静かに残り続けていた。美しい景観に触れるたび、その背後にある人々の苦難と再生の歩みを思わずにはいられなかった。

バスは帰路の仙台駅へと向かう。車窓を流れる松島の島影は、曇天の拡散した光を受けて輪郭をやわらかく曖昧にしていた。その景色を眺めながら、この地の自然と、それを守り受け継いできた人々の営み、そして失われた命への静かな祈りが、胸の内でひとつに重なっていくのを感じていた。