bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

湯島天満宮参拝記──坂の由来から台地の地形へ

本郷での用事を済ませた帰りに、初めて湯島天満宮に参拝した。この神社は、入学試験が近づくと多くの受験生が合格祈願に訪れることで知られている。私も高校・大学と受験を経験しているので、本来ならばそのような機会があってもよさそうなものだが、当時はその種のことにまったく無関心で、この神社の存在すら知らなかった。罰が当たったわけではないだろうが、高校・大学ともに入試期間中にインフルエンザに罹り、ずいぶん苦労させられたものである。

いまさら当時の厄を払おうというわけではないが、せっかく近くまで来たのだから、この機会に参拝することにした。用事を終えた後は、近くのカフェで昼食をとった。自家焙煎の珈琲が美味しいと評判で、行列のできる人気店である。三組坂と清水坂が交差するあたりに位置しており、歩いていると両坂の由来を記した案内板を見かけた。

三組坂の歴史は徳川家康の時代にさかのぼる。案内板によれば、家康に仕えた中間・小人(こびと)・駕籠方の三組の者たちにこの地が与えられたことが、その名の由来であるという。1696年(元禄9年)には、この由緒にちなみ一帯が三組町と改称され、町内にある坂であることから「三組坂」と呼ばれるようになった。

清水坂の由来は大正時代に求められるが、その背景には江戸時代初期の歴史がある。この地にはかつて霊山寺という大きな寺院があったが、1657年(明暦3年)の明暦の大火で焼失し、浅草へ移転した。その後、跡地は旗本屋敷となり、明治期には清水精機会社の所有地となった。当時、湯島天満宮とお茶の水の間の往来が不便であったことから、同社が土地を町に提供して坂道が整備された。町の人々はこの貢献に感謝し、坂を「清水坂」と命名した。坂下にはその名を刻んだ石柱が建てられているという。

(図:三組坂と清水坂。左は江戸時代末期、右は現代。大江戸今昔マップより)

帰宅後に「大江戸今昔めぐり」で調べてみると、現在「三組坂上」と呼ばれる交差点周辺は、やはり三組町となっている。また、清水坂下付近は御使番・島田弥学(二千五百石)の屋敷地として記されており、湯島天神から神田明神への直接の往来を阻む形で屋敷が存在していたことが分かる。明治時代になっても、旗本屋敷が清水精機会社の所有地に変わっただけで、この状況は大きくは変わらなかったのであろう。

本郷や湯島は、どこを歩いても歴史の話題に事欠かない土地だと感じながら、カフェでサンドイッチを味わったあと、湯島天満宮へ向かった。社殿が近づくにつれ、周囲には「夏越の大祓(なごしのおおはらえ)」と記されたのぼりが目立ち始め、何やら特別な行事が行われている気配が漂っていた。鳥居が見えてくるころには参拝客の姿も増え、ほとんど人のいない境内をゆっくり参拝できるだろうという予想は、どうやら外れたらしい。

鳥居をくぐると、目の前に茅で作られた大きな輪が現れた。参拝客たちはその輪をくぐり、順に祈りを捧げている。どうやら「夏越の大祓」の茅の輪くぐりが行われているらしい。あとで調べてみると、くぐり方には定められた作法があるという。まず正面で一礼し、左足から輪をくぐって左回りに一周して正面へ戻る。次に再び一礼し、今度は右足からくぐって右回りに一周し、正面へ戻る。さらにもう一度左回りを行ったあと、最後に正面で一礼し、そのまま神前へ進んで参拝するという手順である。

(写真:「夏越の大祓」の茅の輪くぐり)

私が茅の輪をくぐったとき、神職の方がこちらへ歩み寄ってきた。もしかすると、作法を知らずに進んでいるように見え、教えようとしてくださったのかもしれない。しかし、そのときの私は作法のことなどまったく知らず、ただ前の人の動きを見よう見まねで追いかけるのに精いっぱいであった。

湯島天満宮の祭神は、学問の神として知られる菅原道真と、天之手力雄命(あめのたぢからをのみこと)である。創建は458年(雄略天皇2年)と伝えられ、古くから「湯島天神」の名で親しまれてきた。また、境内は梅の名所としても知られ、梅の季節には多くの参拝客でにぎわう。入口に立つ銅鳥居は1667年(寛文7年)に鋳造されたもので、現存する江戸時代の銅製鳥居としては貴重な存在であり、東京都指定有形文化財に指定されている。

(写真:湯島天満宮。左上は参集殿、左下は古札納所、中上は狛犬、中下は本殿裏、右は本殿)

合格祈願の神社という印象が強かったが、実際に訪れてみると、季節の行事を通じて地域の人々の信仰に今もつながっているのだと感じた。そして帰り道を探すと、男坂・女坂が現れた。いずれもかなりの急坂である。歌川広重も女坂から不忍池を望んだ景色を『名所江戸百景』のなかで「湯しま天神坂上眺望」として描いている。そこで、湯島天満宮は台地の上に造られたのではないかと思い、帰宅後に調べてみた。

(写真:女坂。左は歌川広重作「湯しま天神坂上眺望」。Wikipediaより)

やはりその通りで、この辺りは本郷台地と呼ばれ、武蔵野台地の東端に当たるという。武蔵野台地はいくつかの段丘から成り立っており、その代表的な分類は下末吉面・武蔵野面・立川面である。

(図:本郷台地(全国q地図 を利用))

下末吉面は、およそ12~13万年前の最終間氷期(更新世後期)に形成された海成段丘で、この時期には海面が現在より高く、古東京湾は関東平野の内陸部まで広がっていた。形成後、この段丘面は下末吉ローム層(関東ローム層の下部に相当する火山灰層)によって覆われた。段丘面は横浜市鶴見区から中区にかけて広く残っており、下末吉台地と呼ばれている。

武蔵野面は、古多摩川が下末吉面を侵食しながら、青梅付近を扇頂とする扇状地性の礫層(武蔵野礫層)を堆積させて形成した段丘面で、その形成時期は更新世後期の約10万年前から6万年前の氷期にあたる。この時期、古多摩川は現在より北寄りの流路をとり、広大な扇状地を形成した。形成後、この面は武蔵野ローム層(関東ローム層の中部)に覆われ、さらに後の火山活動によるロームが累積した。その後の侵食によって、本郷台・小石川台・目黒台・四谷台などの台地が谷によって分断されて残った。

立川面はさらに新しく、約2万~3万年前の最終氷期(更新世末期)に古多摩川によって形成された扇状地である。この時期、古多摩川は武蔵野面形成期とは異なる、より南寄りの流路をとっており、その結果として別の扇状地面が形成された。立川・国分寺・府中などの多摩川沿いに広がるこの段丘面の表層は、富士山・箱根山などの噴火に由来する立川ローム層(関東ローム層の上部)によって覆われている。

その後、縄文海進(約6000年前)には海が内陸へと進入し、低地部は浅い湾や潟湖となった。海退後、河川の堆積作用によって沖積層が形成され、現在の沖積低地が成立した。

各段丘の標高は地域によって異なるが、おおむね下末吉面が40~60m、武蔵野面が20~40m、立川面が10~25m程度である。

湯島の周辺には、よく知られた池が二つある。一つは上野の不忍池、もう一つは夏目漱石の小説『三四郎』に登場する東京大学本郷キャンパスの三四郎池である(三四郎池という名称はこの小説に由来する通称で、本来の名称は育徳園心字池である)。不忍池は沖積低地に位置するのに対し、三四郎池は本郷台地の内部に位置する。

不忍池の水は、現在では周辺の地下水を人工的に導水して維持されているが、かつては北から流れてきた藍染川が流れ込み、その水源の一部をなしていたと考えられている。一方、三四郎池には注ぎ込む河川が存在しない。三四郎池は本郷台地を刻む小さな谷の奥にあり、武蔵野台地に降った雨が地下に浸透し、崖線から湧き出した水によって支えられている。都会の真ん中にありながら豊かな水辺の景観が残されているのは、このような地形と水の循環によるものである。

一度も訪れたことがなかったので、ただ湯島天満宮へ行ってみようと思っただけのことであった。しかし、百聞は一見に如かずという言葉の通り、実際に参拝してみるとさまざまな疑問が湧き起こり、地形や歴史への興味は思いがけず広がり、結果として一篇の紀行文にまとめることができた。現地を訪れ、五感で感じ取ることの素晴らしさを改めて実感したところである。次は、この近くにある神田明神を訪ねてみたいと思っている。