■ はじめに:古くて新しい問い
個人の自由と共同体の利益は、どこで折り合いをつけるべきなのか。この問いは古くから政治思想の中心にあり続けてきた。しかしそれは政治や経済だけでなく、多くの人々が熱狂するスポーツの世界にも顔を出す。半世紀以上前、日本プロ野球で「空白の一日」と呼ばれる事件が起きた。これは、個人の権利と組織のルールが鋭く衝突した象徴的な出来事である。
■ 「空白の一日」──制度の隙間とルールの精神
プロ野球では新人選手の入団先を決めるためにドラフト制度が設けられている。ドラフト会議では、どの球団がどの選手と独占的に交渉できるかが決定される。選手は入団先を自由に選ぶことができず、指名球団への入団を拒否した場合、その年は他球団と交渉することができない。この制度的背景のもとで、あの事件は発生した。
当時「怪物」と称された法政大学の江川卓投手は、卒業年のドラフト会議でクラウンライターライオンズが交渉権を獲得したものの入団を拒否し、浪人生活を送りながらトレーニングを続けた。そして翌年のドラフト会議前日、読売巨人軍と契約を結んだ。野球協約では、交渉権の有効期限が「次年度ドラフト会議の前々日まで」と定められていたため、前日はどの球団も交渉権を持たない。この協約上の間隙を突いた契約であったことから、「空白の一日」と呼ばれるようになった。
契約当事者たちは「協約違反ではない」と主張した。しかし、他球団やプロ野球関係者の多くは、制度の趣旨を損なう行為であるとして強く反発し、世論からも厳しい批判が寄せられた。
この出来事は、単なる野球界の騒動ではない。個人の職業選択の自由と、リーグ全体の均衡ある発展を支える制度との衝突という、より普遍的な問題を含んでいる。またそれは、ルールの文言だけを守ればよいのか、それともルールが目指している精神まで尊重すべきなのかという問いでもあった。
■ ライシュ『コモングッド』──現代アメリカの分断を読み解く
江川事件が示したこの問題は、スポーツ界に限られた特殊な事例ではない。ライシュはまさにこの問いを、スポーツの世界ではなく現代アメリカ社会全体に当てはめて考察している。
今回紹介する『コモングッド:暴走する資本主義社会で倫理を語る』は、まさにこの観点からアメリカ社会の分断を捉え、解決策を模索する書物である。著者は、クリントン政権で労働長官を務め、現在はカリフォルニア大学バークレー校の教授である経済学者ロバート・ライシュである。彼は冒頭で、「勝つためには、あるいは儲けるためには何でもあり」とする人々の姿を描き、アメリカ社会からコモングッドが失われつつある現状を嘆く。
● シュクレリ──資本主義の“抜け道”を突く
最初に取り上げられるのはマーティン・シュクレリである。彼は無一文から大富豪へと成り上がった、いわばアメリカン・ドリームの体現者のように語られることがあるが、その過程は到底称賛できるものではない。日本でも話題になったように、トキソプラズマ症の治療薬ダラプリムは、WHOの「エッセンシャル・ドラッグ(必須医薬品)」に指定され、人々の生命を守るために安定供給されることが求められている。ところが、シュクレリはこの薬の販売権を取得すると、薬価を一挙に50倍へと引き上げた。この行為は激しい非難を浴びたが、彼は「誰も言いたがらないし、誰も褒めようとしないが、これが資本主義社会であり、資本主義の制度であり、資本主義のルールなのだ」と弁明した。その後、彼は薬価問題とは無関係に、ヘッジファンドでの長年の詐欺行為によって逮捕されることになる。
● ニクソン──権力維持のための規範破り
政治家として、ニクソン大統領が紹介されている。再選を狙った彼は、民主党本部への盗聴工作を行うとともに、対立候補となり得るエド・マスキー上院議員らに対する中傷工作も進めた。これにより、ニクソンが自らの権力維持のために大統領職の規範を踏みにじったことが明らかとなり辞任に追い込まれた。しかし、後任のフォード大統領が特赦を与えたため、ニクソンは法的責任を免れた。この特赦は、コモングッドに対する新たな攻撃と受け止められ、その後も政治家によるコモングッドの欠如を示す事件が続くことになる。
● ジャック・ウェルチ──株主価値最大化への急旋回
経済界からの例としては、ゼネラル・エレクトリック社(GE)のジャック・ウェルチが挙げられる。彼は20年間の在任中に、同社の時価総額を140億ドルから4,000億ドルへと拡大させた。しかし、彼がCEOに就任する以前は終身雇用が一般的であった同社で、就任後わずか4年の間に全従業員の4分の1にあたる10万人を解雇した。さらに海外工場の開設によって人件費削減を進め、続く15年間でアメリカ人労働者を約16万人削減し、外国人雇用を約13万人へと倍増させた。かつて経営者は株主・地域社会・顧客・従業員など多様な利害関係者のバランスを取る「調整者」であったが、この時期以降、企業は株主利益の最大化を最優先する方向へと大きく舵を切った。
● ルイス・パウエル──企業ロビー活動の拡大
次の例は、金が政治に流れ込むことで大企業や富裕層に有利なルールが形成されるという問題である。ここでは、後に最高裁判事となるルイス・パウエルが紹介される。彼は商工会議所の依頼を受けて作成した政策メモの中で、「アメリカの経済は多方面から攻撃を受けている」と主張し、消費者団体・労働組合・環境団体を批判した。このメモは企業側に組織的な政治活動の必要性を認識させる契機となり、ワシントンや州都において産業界のロビー活動が急速に拡大する一因となった。
■ コモングッドとは何か──思想史的背景
ライシュのいうコモングッドは、近世政治思想の伝統の延長線上に位置づけることができる。それでは彼は、これらの事例をどのような意味で「コモングッドの欠如」と見なしているのだろうか。まずはコモングッドの思想的背景を確認したい。本書では明示的な定義は与えられていないが、その思想的起源は近世から近代にかけての政治思想史に求めることができる。
● ホッブズ:秩序のための強力な国家
政治哲学の祖とされるトマス・ホッブズは、『リヴァイアサン』において、人間は生まれながらに自己保存のための自然権を持つと主張した。しかし、すべての人が同じ権利を持つ自然状態では、相互不信と先制攻撃の連鎖が「万人の万人に対する闘争」を引き起こす。この混乱を避けるため、人々は社会契約を結び、権利の行使を主権者に委ねる。こうして成立する強力な国家こそが秩序を維持し、人々の安全を保障する。
● ロック:自由のための限定政府
これに対し、ジョン・ロックは自然状態をより穏やかなものとして描き、人間を理性的存在として評価した。ロックにとって自然権とは生命・自由・財産であり、国家はこれらを保護するために設立される。政府の正統性は人民の同意に基づき、権力は厳しく制限されなければならない。政府が自然権を侵害する場合には、人民には抵抗権・革命権が認められる。
● ジェファーソン:自由と市民的徳の統合
ロックの思想は18世紀後半のアメリカ独立革命に決定的な影響を与えた。独立宣言を起草したトマス・ジェファーソンは、ロックの「財産」を「幸福追求」へと置き換え、自由をより包括的な人間形成の権利として再定義した。また彼は、自立した市民によって支えられる共和国の維持を重視し、自由を市民的徳と結びつけて理解していた。こうして自然権論は民主主義の正統性原理へと転換されるとともに、自由主義と共和主義の要素を併せ持つアメリカ政治思想の基礎を形づくることになった。
著者ライシュは、先に見たような「勝つためには、あるいは儲けるためには何でもあり」という態度を示す人々の事例を挙げたうえで、コモングッドを次のように説明している。
私たちが共通して持っている「善」とは、法の意図と精神をも含めた「法による統治」を尊重し、それを実践し続けることであり、民主的な仕組みを守ることであり、真実を見出し広めていくことであり、変化を受け入れ互いの相違に寛容であることである。コモングッドとはまた、誰にも等しく政治的な権利や機会を保障することであり、ともに市民生活に参画することであり、ともにそれを犠牲にすることでもある。
米国独立宣言では、政府が守るべき不可譲の権利として、生命・自由・幸福追求が掲げられている。また本書では、自由の理念を説明する際に、フランクリン・ルーズベルト大統領の「四つの自由」が引用される。すなわち、言論の自由・信教の自由・欠乏からの自由・恐怖からの自由である。
ライシュが述べる「法による統治の尊重」は、独立宣言以来のアメリカ政治思想が重視してきた自由や平等の理念を、現代社会において具体的に実現しようとする試みと理解できる。それに対して、経済的自由を理由に「勝つためには、あるいは儲けるためには何でもあり」という態度を正当化することは、独立宣言の趣旨を逸脱していると著者は指摘する。
「コモングッド(共益)」とは、何世代にもわたって積み上げられた「信頼」の集合体である。前章で述べたように、「信頼」とは多くの人々が共有する基本的な理想のことであり、この「信頼の集合体」には大きな価値があり、人々の生活をよりわかりやすく、より安全なものにする力がある。しかし、まさに人々が自発的に維持しようとする大きな価値があるがゆえに、自分本位の利益のために「コモングッド(共益)」を搾取しようとする者が現れてしまう。
■ コモングッドの侵食──個人利益の追求がもたらす影
社会は、個人と個人が有機的に結びついた集合体である。個々人が利益を追求することは認められた権利であり、尊重されるべき自由である。しかし、社会の中で活動する以上、ある人の利益追求が他者の不利益をもたらすこともある。
ジャック・ウェルチの例は象徴的である。株主と自身に莫大な利益をもたらした一方で、多くの労働者には深刻な不利益を与えた。解雇された労働者の中には、生活基盤を大きく揺るがされた者も少なくなかったと考えられる。その結果、多くの労働者が生活への不安や将来への恐怖を感じたことは想像に難くない。これは、ルーズベルト大統領が掲げた「欠乏からの自由」「恐怖からの自由」に反する状況である。
法の精神を尊重するのであれば、労働者や地域社会を含めた利益、すなわち広い意味での福利を考慮すべきであり、ライシュの観点からすれば、ウェルチの行動はコモングッドから逸脱していると言わざるを得ない。
ライシュは、コモングッドを取り戻すための方策をいくつか提示しているが、その中で特に強調するのは、各組織のリーダーが「公的な信任を受けてその役割を果たしている」という受託者精神を決して軽視してはならないという点である。しかし、これを実践することは容易ではない。
■ 日本企業の事例──永守と稲盛の対照
この課題はアメリカだけのものではなく、日本の企業社会にも通じる。私がその一例として思い起こすのが、2025年に表面化したニデックグループの不祥事である。
精密モーター大手のニデック(旧日本電産)では、グループ会社で会計処理や品質管理をめぐる不祥事が相次いで明らかになった。もっとも、これらの問題の原因を経営者個人に還元することはできず、企業統治や組織運営を含む複合的な要因として考える必要がある。背景として、短期的な業績達成を重視する企業風土や、現場への強い業績プレッシャーが指摘されている。
私は強い違和感を覚えた。というのも、永守重信は21世紀初頭、日本で最も成功した創業経営者の一人として圧倒的に称賛されていたからである。
その同じ人物が率いてきた組織において、結果としてコンプライアンス上の問題が相次いだことは示唆的である。もちろん不祥事の原因を一人の経営者の思想だけに帰することはできない。しかし、業績達成を強く求める組織文化が現場に過度の圧力を与えた可能性については考えさせられる。
● 稲盛和夫──利他の精神と受託者意識
これと対照的なのが、同じ京都で京都セラミック(後の京セラ)を創業した稲盛和夫である。稲盛は、ライシュのいう受託者精神を体現した経営者の一人と見ることができる。
彼の経営哲学の根幹は利他の心にあり、その代表的理念は「動機善なりや、私心なかりしか」と自らに問い続ける姿勢にある。経営判断の基準を倫理に置く点で、業績重視の経営観とは異なる方向性を示している。
同じ京都で企業を興した二人であるが、その経営思想には大きな違いがある。もちろん企業経営は理念だけで語れるものではなく、不祥事の原因を特定の思想に還元することもできない。しかし、企業が社会から託された存在であると考えるならば、稲盛の思想はライシュのいうコモングッドにより近い位置にあるように私には感じられた。
■ 教育と市民性──コモングッドを支える基盤
ライシュは、コモングッドを取り戻すための方策として教育の重要性を強調している。アメリカでは大学をはじめとする高等教育が、近年ますます職業訓練的な性格を強め、経済学・ビジネス・コンピュータ工学に学生が集中するようになった。その結果、教育が「公益」ではなく「私的投資」として理解される傾向が強まったと彼は指摘する。
学校教育ではスキルの向上だけでなく、市民としての義務も教えるべきである。手始めに、すべての子どもたちが、政治制度、憲法、権利章典、権力分立、抑制と均衡(チェック・アンド・バランス)、連邦制度について正しい知識を学べるようにすべきだ。子どもたちにはさらに、法治の意義と重要性、そしてなぜ誰も他者の上位に立ってはならないのかを理解させ、そのような「この国の遺産」がどのように受け継がれてきたのか、なぜ今も大切なのかを学ばせなくてはならない。こうしたことは、アメリカ人に帰化しようとする人々に求められていることでもある。
私は1970年代初頭にアメリカへ留学したが、その際に最も驚かされたのは、公民権運動の影響力の大きさであった。大学ではマイノリティに属する学生を一定数以上受け入れる制度が整えられ、小中学校では黒人と白人の比率を均衡させるために、学区外からバスで児童を輸送する取り組みが行われていた。それほどまでに「公平」に配慮していた国が、いまや市民としての義務を改めて教える必要に迫られているという事実に強い衝撃を受ける。
ライシュが教育を重視するのは、コモングッドを支える市民的徳性が自然には生まれないと考えているからであろう。日本でも市場原理や自己責任を重視する風潮が強まるなか、「自由とは何か」「自由と公共善はいかに両立しうるのか」をめぐる議論を深めることが不可欠であると、この本を読んで改めて感じた。
■ おわりに──「勝つこと」と「社会を支えること」
結局のところ、社会を支えるルールは自由を制約するために存在するのではなく、すべての人が自由を享受できる条件を守るために存在するのである。
本書は、私たちに「勝つこと」と「社会を支えること」のどちらを優先すべきかを問いかけている。その問いは、半世紀前の「空白の一日」が投げかけた問題とも通じているように思われた。
自由とコモングッドの緊張は、ホッブズやロックの時代から繰り返し問われてきた問題である。そして、グローバル化と市場競争が加速する現代において、その問いはますます重みを増している。私たちはいま、その問いに改めて向き合うことを求められている。