民主主義の危機としての議事堂襲撃事件
トランプ政権以降、あまりにも衝撃的な政策や出来事が相次ぎ、過去の出来事が記憶から薄れそうになる。しかし、決して忘れてはならないのが、2021年1月6日に起きた連邦議会議事堂襲撃事件である。民主主義の模範とされてきたアメリカで、選挙結果を受け入れない群衆が議会を襲撃するという事態は、民主主義そのものの危機を世界に印象づけた。
私は当時から、「なぜアメリカはここまで分断されてしまったのか」という疑問を抱き続けてきた。その問いに一つの思想的な答えを与えてくれたのが、フランシス・フクヤマの『リベラリズムへの不満』である。本書は、現代アメリカの混乱を理解するためには、自由という概念そのものがたどってきた長い思想史を振り返る必要があることを示している。

自由という概念の長い変容の歴史
近代リベラリズムが誕生した当初、自由とは国家権力の不当な干渉から個人を守る権利を意味していた。しかしその自由は、国家が法と秩序を維持して初めて成立する。ホッブズとロックは立場こそ異なるものの、自由と国家が対立するだけでなく、相互依存的な関係にあることを示した点で共通している。とりわけロックの思想は、国家の権力を制限しつつ自由を保障する制度的枠組みを構想し、アメリカ独立宣言に大きな影響を与えた。
やがて自由は、外部からの干渉を免れる権利という意味を超え、主体の内面に位置づけられる概念へと変容する。カントは、人間が欲望のままに行動するのではなく、理性によって自ら選び取った法に従うときこそ真の自由が実現すると考え、自由を「自律」として再定義した。
さらに民主主義社会が発展すると、自由は個人の内面だけでは完結せず、社会的基盤によって支えられるものとして理解されるようになる。ミルは個人の自己決定を擁護しつつ、それを可能にする成熟した市民社会の重要性を強調した。トクヴィルは地方自治や市民団体などの共同体が、自由を維持する社会的基盤として不可欠であると論じた。
二十世紀後半には、自由はさらに制度的な次元へと拡張される。ロールズは自由を「公正な制度の中で保障されるもの」と捉え直し、社会的・経済的な不平等を是正する制度的枠組みなくして自由は成り立たないことを示した。
このように自由は、
外部から守られる権利 → 内面の自律 → 社会的基盤 → 公正な制度
という連続的な変容をたどりながら、その意味を広げてきたのである。
リベラリズムの分岐と思想的揺らぎ
しかし、こうして形成されてきた自由概念は、二十世紀後半以降、異なる方向へと分岐していく。一方では、市場の自由を最優先するネオリベラリズムが広がり、国家の役割を縮小し、市場競争を自由の源泉とみなす潮流が強まった。他方では、人種・性別・民族などの承認を求めるアイデンティティ政治が台頭し、自由とは自己の属性や経験が社会から認められることであると理解されるようになった。
一見すると、この二つは対立する思想のように見える。しかしフクヤマは、両者がともに「個人の自己決定を絶対化する」という同じ構造を共有している点を指摘する。ネオリベラリズムは、市場における選択の自由を最大化することで個人の自己決定を強調し、アイデンティティ政治は、自己の属性や経験の承認を要求する権利を通じて個人の自己決定を強調する。すなわち、両者は方向こそ異なるものの、自由の重心を共同体や制度ではなく、個人の選択や自己理解そのものに置くという点で共通しているのである。
こうした自由概念の変化と並行して、戦後の思想潮流もリベラリズムの前提そのものを問い直していった。まず、フランクフルト学派を中心とする批判理論は、啓蒙主義が掲げた合理性や客観性が、権力や支配の装置として機能しうることを指摘し、近代的合理性の自己正当化に疑問を投げかけた。
続く構造主義は、人間の主体や真理を、言語・文化・社会構造といった外部の体系によって規定されるものとして捉え、「普遍的個人」という前提を相対化した。主体は自律的な存在ではなく、構造の産物として理解されるようになったのである。さらにポスト構造主義は、構造そのものの固定性を疑い、真理・主体・意味が権力関係の中で絶えず生成・変容することを強調した。これにより、客観的事実や合理的討議といった近代リベラリズムの基盤は、根本的な再検討を迫られることになった。
このように、批判理論・構造主義・ポスト構造主義は、
① 合理性の権力性の暴露 → ②主体の構造化 → ③真理の流動化
という三段階を通じて、リベラリズムが依拠してきた「普遍的個人」「客観的事実」「合理的討議」という前提を次第に解体していったのである。
複合的な要因が生んだアメリカの分断
もっとも、フクヤマは、現代アメリカの分断を思想的変化だけで説明しているわけではない。グローバル化による格差拡大、市場原理の浸透、国家への信頼の低下、そしてSNSを中心とする情報環境の変化といった経済的・制度的・文化的要因が複雑に重なり合い、現在の危機を生み出したと考えている。
そのうえで本書が特に重視するのは、こうした現実の構造的問題に加えて、戦後思想がリベラリズムの自己理解を変容させ、「普遍的個人」「客観的事実」「合理的討議」といった基盤を揺るがしてきた点である。これらの基盤が弱体化した結果、政治は共通利益をめぐる議論から離れ、集団的アイデンティティの対立へと傾斜し、公共的討議は次第に困難になっていった。議事堂襲撃事件は、民主主義の制度よりも、自らが信じる「真実」や集団への忠誠が優先されてしまったポスト・トゥルース(客観的事実よりも感情や信念が重視される状況)の象徴的な政治的帰結と考えられる。
自由を支える制度と公共精神を取り戻すために
このように複合的な危機を前にしながらも、本書はリベラリズムそのものを否定しているわけではない。むしろフクヤマは、リベラリズムが本来備えていた普遍的人権、法の支配、表現の自由といった原則を維持しつつ、行き過ぎた個人主義を修正する必要を強調する。自由とは、孤立した個人が自己決定を行うことではなく、共通の制度と公共精神の中で初めて成立する政治的秩序だからである。
自由の多義性が突きつける問い
本書を読んで私が最も強く感じたのは、自由が決して単一の意味をもつ概念ではないという点である。権利としての自由、自律としての自由、市場としての自由、承認としての自由、公正としての自由──その多義性は、近代以降の思想史の中で絶えず拡張されてきた。
しかし現代の混乱は、自由そのものを否定すべきだということを意味しない。むしろ問題は、自由の多義性が生み出す緊張を、いかに制度・共同体・公共精神の中で調停するかという点にある。自由の諸相が互いに衝突しうる以上、それらを調和させる政治的・制度的枠組みを再構築することが求められている。
民主主義が揺らぐ現在において、この課題はもはや思想史の問題にとどまらない。自由の多義性をいかに統合し、公共的討議の基盤を再建するかという課題は、民主主義の持続可能性そのものに関わる問題である。
こうした議論を踏まえると、リベラリズムを維持するためには、共通の制度と公共精神が不可欠であることが改めて理解できる。本書はその必要性を強く示唆しており、同時にリベラリズムの再構築には多角的な検討が不可欠であることを痛感させる。この問題意識をさらに深めるために、次はパトリック・デニーンの『リベラリズムはなぜ失敗したのか』を読み、フクヤマとは異なる視点から現代リベラリズムの危機と可能性を検討してみたいと思う。