bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

戦国から江戸へ ― 古民家が語る多摩丘陵の暮らしと建築の変化 ―

歴史的建造物として知られる城や寺院を訪ねると、その時代を代表する建築技術や意匠に触れることができる。時には、その精巧さに感嘆することもある。しかし一方で、庶民がどのような家に住んでいたのかにも強い興味を覚える。庶民の住宅には、当時広く用いられていた技術だけでなく、日常生活の具体的な姿が刻まれているからである。

ところが、民家は城郭や寺院に比べて保存例が極めて少ない。現存する最古級の民家として知られるのが箱木家住宅(神戸市北区山田町)であり、これに次ぐ古さとされるのが旧古井家住宅(姫路市安富町)である。いずれも室町時代の建築とされ、2025年にともに国宝に指定された。

関東地方では、江戸時代以前に建築された民家はほとんど残っていない。地面に柱を直接埋める掘立柱構造であったため柱脚が腐食しやすかったこと、さらに中世の戦乱による破壊が多かったことが主な理由と考えられている。

しかし江戸時代に入ると、民家でも礎石建てが採用されるようになり、江戸時代初期に建てられた民家の中には、改修を重ねながら昭和期まで使われ続けたものもある。以前ブログで紹介した町田市薬師池公園の旧永井家住宅もその一つで、江戸時代前期の特徴をよく残している。この住宅を見学したことがきっかけとなり、江戸時代初期の多摩丘陵地域における民家の姿を調べてみようと思い立った。

多摩丘陵地域では、昭和中期頃までは農家を比較的身近に見ることができた。そこで目にした特徴は茅葺屋根と土間である。この性格は江戸時代の農家にも共通するが、17世紀、すなわち江戸時代初頭の農家には、当時特有の様式が認められる。

昭和期の農家でも室内は薄暗い印象があったが、江戸初期の農家はさらに暗く、入口とわずかな窓以外に採光部がほとんどない。部屋には畳が敷かれていると考えがちだが、畳は江戸時代を通じて特別な部屋に限られ、一般の居住空間では板敷きはまだ少なく、土間や竹床の上に莚などを敷いて生活していた。

床材として木の板が広く使われるようになるのは18世紀以降である。長い板材を製材する大型の鋸が普及する以前は、丸太に楔を打ち込んで割り、それを手斧で削って板を仕上げていた。鉋もまだ十分に発達していなかったため、板の表面には手斧の跡が波状に残ることが多かった。このため板材は高価であり、一般の民家では容易に用いることができなかった。そこで竹材が豊富な多摩丘陵地域では、竹を並べて床材とするなど、木材を節約する工夫が見られた。

また、江戸初期の民家では、上屋・下屋構造と呼ばれる特徴的な架構が用いられていた。下の写真は、以前のブログで薬師池公園に復元されている旧永井家住宅を紹介した際に用いたものである。本来、屋根(上屋)の荷重を支えるためには、青色で示した位置に柱を立てる必要がある。しかしそのままでは室内に柱が並び、広い空間を確保することが難しい。そこで上屋を支える構造は維持したまま、下部の柱だけを外側へ移し、梁で荷重を受ける工夫が行われた。その結果、室内には柱の少ない広い空間が生まれ、さらに外側へ延長された屋根が下屋となる。このように四方へ下屋を巡らせた形式を四方下屋造といい、武蔵国南部をはじめ東日本の農家で広く見られる代表的な構造である。

(四方下屋造)

今回調べたのは、川崎市の日本民家園に移築されている旧清宮家住宅と旧伊藤家住宅である。両住宅とも、もとは日本民家園の近隣に位置していた。旧伊藤家住宅は国指定重要文化財、旧清宮家住宅は神奈川県指定重要文化財である。以下、建築年代が古いと考えられる順に見ていこう。

(旧伊藤家・旧清宮家の移設前の所在地)

旧清宮家住宅は17世紀後半の建築とされるが、後世の改修が多く、建築当初の形式はやや判然としない。ただし復元された姿を見る限り、次に述べる旧伊藤家よりも古い時代の様式が用いられていることから、この時期の建築と推定されている。さらに、江戸時代前期にまで遡る可能性も指摘されている。

次の写真は外観である。屋根は寄棟造りで、その棟に草が生えているように見える。これは手入れ不足ではなく、棟から雨水が浸入するのを防ぐための工夫で「芝棟」と呼ばれる。棟に植えられている植物はアヤメ科のイチハツで、5月上旬には紫色の花を咲かせる。右側の写真は正面を別角度から撮影したもので、右手の入口が日常的に用いられた土間大戸口である。中央の格子窓はひろまへの採光や通風のために設けられた「ししまど」で、猪や狼の侵入を防ぐためと伝えられている。真偽は定かではないが、防犯や採光・通風を兼ねた開口部であったとも考えられている。このししまどには板戸しかなく、後の障子付きの窓と比べると、採光を重視する方向への様式変化が読み取れる。

(旧清宮家住宅の外観)

次に梁の構造である。土間側の柱や梁には大きく曲がった材が使われていることに気づく。こうした曲がり材が用いられた理由としては、①入手できる材の形状をそのまま活かした、②曲がり材のほうが力学的に有利な場合がある、③製材技術の制約により真っ直ぐな長材が得にくかった、などが挙げられる。曲がり材を巧みに組み合わせ、堅牢な構造物を築き上げた当時の高い技術力には驚かされる。

(梁)

この写真は、先に説明した上屋・下屋構造のうち、下屋部分の屋根裏を写したものである。竹を縦横に組んで下地を作り、その上に茅を敷き詰めて屋根を構成している。


(梁)

次の図は間取りである。この時代の間取りは「ひろま型」が一般的で、表から裏まで一体となったひろまを中心とする。しかし旧清宮家では、ひろまの裏に小部屋があり、でえの裏の部屋と続き部屋になっている。ひろま裏の部屋は納戸として、でえの後ろの部屋は寝室として使われたと考えられる。裏に小部屋を備えてはいるものの、18世紀後半に現れる四間取り型とは異なり、基本的には当時一般的であったひろま型の構成とされる。

(間取り:川崎市のホームページより改変)

次は「ひろま」である。この時代のひろまは一般農家では竹簀子が使われていたが、上層農家では板敷きはこの頃になると導入が始まり、清宮家も名主級だったため、板敷きを用いたようである。また、左の写真で、うらべやとの境の壁が少し凹んでいるのが分かると思う。これは押板と呼ばれる。押板は室町時代に上流住宅の座敷飾りとして使われ、床の間の前身と見られている。民家に取り入れられた押板はお札を張ったり、棚板に灯明皿を置いたりしていたようなので、信仰・祭祀と関係を持っていたものと思われる。ひろまには囲炉裏も切られており、ここは家族の食事や憩いの場であった。

(ひろま)

次は「でえ」である。ここは僧侶や村役人など、身分の高い客を迎える部屋であり、そのため畳敷きとなっている。

(でえ)

次の写真は「でえどこ」である。ここは土間になっており、食事の調理や日常の作業を行う場である。農家は職住一体であり、家は生活の場であると同時に仕事場でもあった。でえどことひろまの間は、腰板壁に格子窓を設けた構えになっている。これも古い防御的な形式の一つと考えられている。また、この場所は家の中心に近く目につきやすいため、一般には他の柱より太い柱を用いて家格を示すことが多いが、旧清宮家ではその傾向は見られない。

(でえどこ)

次は家の正面である。左の写真はでえへの入口で、庇が張り出しており、客を迎える場所としての性格がうかがえる。右上の写真は、でえどこへの入口である大戸口で、右下の写真は正面を斜め方向から撮影したものである。

(正面)

側面を見ると、ほぼ全面が土壁で覆われ、開口部は設けられていない。当時の民家がいかに閉鎖的な構造であったかがよく分かる。

(側面)

最後は裏側である。こちらも土壁で覆われ、正面以外には開口部がほとんどない、極めて閉鎖的な構造であることが分かる。

(裏側)

旧清宮家住宅は、開口部の少ない閉鎖的な外観、ひろま型の間取り、上屋・下屋構造、そして曲がり材を巧みに用いた架構など、江戸時代前期の民家の特徴をよく残している。一方で、ひろまの板敷きや押板には、名主級の家としての格式もうかがえ、後の農家建築へとつながる過渡的な姿を見ることができる。

次は旧伊藤家住宅である。旧清宮家住宅の平面積が102㎡であったのに対し、旧伊藤家は143.5㎡と約1.4倍の広さがある。屋根は入母屋造となり、開口部が多く、より開放的な印象を与える。右の写真で手前に見えるのが客室の「でい」で、正面側と側面側の双方に開口部が設けられている。

(旧伊藤家住宅概観)

土間の大戸口には、兜の鍬形のような形をした大きなマグロのひれが取り付けられている。この地方では魔除けのまじないとして取り付けられ、水の王者ともいえる大魚の力によって火災などの災厄を防ぐ意味があったという。名古屋城天守の金の鯱も、水にちなむ霊力によって火除けを願うという点では共通する発想といえる。

(大戸口に飾られているマグロのひれ)

土間の上の梁は、旧清宮家と比べると曲がりが少なく、柱の太さもそろっている。左上の写真に見える内部の入口は「みそべや」へ通じている。左下の写真からは、内部空間を広く確保するための工夫である四方下屋造の構造がよく分かる。

(梁)

間取りは典型的なひろま型である。土間の一部を仕切って「みそべや」とし、樽などを置いて味噌や漬物などを仕込み、貯蔵する部屋である。

(間取り:川崎市のホームページより改変)

次は土間である。ひろまとの境は腰板壁のみで仕切られている。腰板壁は、大戸口から入る風によって囲炉裏の灰が舞うのを防ぐために設けられたものである。また、土間の奥にはひろまから張り出した床があり、その奥に「すわり流し」が設けられている。旧清宮家では屋内に流しがなかったため、野菜などの洗い物は屋外で行われていたとみられるが、旧伊藤家では内部での作業が可能になった。流しの右上には穴があり、洗い物に使った水を外部へ排出できるようになっていることが分かる。

(土間)

ここは「ひろま」である。竹簀子の上には筵が敷かれている。断熱性や座り心地を改善するためであったと考えられる。この頃は板敷ではなく竹簀子が一般的であった。右下の写真では、奥の方に畳敷きの「でい」が見える。ここは、客を迎えるための特別な部屋である。

(ひろま)

次は正面である。左上は土間へ通じる大戸口、右上は客室の「でい」への入口、右下はひろまの採光のための格子窓である。格子窓は、旧清宮家住宅でも説明したように、「ししまど」とも呼ばれる。

(正面)

側面はほとんどが土壁であるが、「でい」の部分だけは縁側が付いた出入口があり、ここでも居住性が向上していることが分かる。

(側面)

旧伊藤家住宅は、旧清宮家住宅に比べて規模が大きく、開口部が増え、内部設備も充実している。屋内にはみそべややすわり流しが設けられ、居住性や作業性が向上していることが分かる。また、曲がり材の使用が減り、柱や梁の構成も整然としており、17世紀後半から18世紀にかけて民家建築が機能性と快適性を重視する方向へ発展していく様子が読み取れる。

(裏側)

建物の様子が分かったところで、この時代の庶民(百姓)がどのように暮らしていたのかを考えてみたい。下図は明治末期と現在の地図に、旧伊藤家と旧清宮家の位置を重ねたものである。この一帯は典型的な多摩丘陵地で、旧伊藤家は谷戸に、旧清宮家は沖積地に位置している。とくに旧清宮家周辺は、16世紀末に開発された二か領用水の恩恵を受け、豊かな水田地帯であったと考えられる。

江戸時代後期の石高を旧高旧領取調帳で見ると、旧伊藤家のあった金程村は85石と小規模な村であり、旧清宮家の登戸村は931石と大規模である(武蔵国では平均的な村がおよそ400石前後とされる。)。こうした村の規模の違いは、農地の生産力や村の構造、名主の役割にも影響していたと考えられる。

江戸時代の百姓は、夫婦と子どもを中心とした家族で暮らす例が多かったとされる。朝になると土間で朝食を作り、囲炉裏を囲んで食事をとり、日中は野良仕事に出るか、土間で農作業の準備や整理を行った。夕食もまた囲炉裏を囲んで過ごしたことであろう。祭礼や寺社への参詣などが、農作業の合間の楽しみであった。名主の家や寺に集まって村の運営について話し合うなど、共同体としての活動にも参加していた。

こうした民家は、単なる住居ではなく、一家の生活の場であると同時に、農作業や村の運営を支える拠点でもあった。建物の細部を丁寧に観察すると、その時代の人々が何を大切にし、どのような暮らしを営んでいたのかが少しずつ見えてくる。古民家の魅力とは、まさにその「生活の痕跡」が建物の中に息づいている点にあるのではないだろうか。

おわりに

町田市薬師池公園の旧永井家住宅について専門家から教示を受けたことをきっかけに、同時期に建築された川崎市日本民家園の民家を訪ねることにした。歴史博物館でともにボランティアをしている仲間の中に、日本民家園でも活動している方がいたため、案内をお願いし、調査を兼ねて見学した。単独で見学すると、帰宅後に写真やメモを整理して初めて「これは見落としていた」と気づくことが少なくない。旧伊藤家の大戸口に取り付けられていたマグロのひれなどは、ひとりで見学していたら気づかずに通り過ぎてしまったに違いない。効率よく調査を進めることができたことに、深く感謝している。

江戸時代初期の民家は、近隣の民家園にもいくつか保存されている。今後はそれらも見学し、地域全体としての特徴を把握していきたい。今回見学した二棟からは、戦国の世から平和な江戸時代へ移行する中で、民家が防御性を重視した閉鎖的な構えから、居住性や作業性を重視した開放的な構えへと変化していく様子をうかがうことができた。建築様式は、単なる建築技術の変化ではなく、その時代の社会や人々の暮らしを映し出す鏡でもあることを改めて実感した。今後も事例を積み重ね、多摩丘陵地域における農家建築の変遷を、より立体的に理解していきたい。