昨今の世界の状況を見ていると混乱ばかりが目に入り、「これから社会はどうなってしまうのか」と強い不安を覚える。このような思いを抱いているのは、私一人ではないだろう。実際、その関心の高まりを示すかのように、リベラリズム*1の危機や、そのあり方を論じた書籍が近年多数出版されている。これまでブログでもその一部を紹介してきたが、ここで一度、それらを思想の流れとして整理しておきたい。
フクヤマの有名な「歴史の終わり」という議論を念頭に置きつつ、私が考えてみたいのは、「リベラリズムの行き着く先」である。結論を先取りすれば、そこには、トクヴィルが『アメリカのデモクラシー』で描いたような「中間団体や市民的結社」を、現代社会にどのように活かすかという問題がある。
リベラリズムの基本原理を擁護するフクヤマにとって、共同体は、多様な人々がそれぞれの「良い生き方」を模索し、実現していくことを可能にする「器」と捉えることができる。一方、リベラリズムそのものの転換を求めるデニーンにとって、共同体とは、受け継がれてきた伝統や文化を守り、次の世代へと伝えていくための場である。アプローチは異なるものの、過度な個人主義による分断を乗り越えるため、孤立した個人をつなぐ共同体を再発見しようとしている点では共通している。
トクヴィルが近代民主主義の黎明期に見出した共同体の価値が、個人主義の行き着いた先で生じた社会の分断や孤立を前にして、再び求められている。これは、一見すると歴史の皮肉のようにも見える。しかし、数百年におよぶリベラリズムの歩みを経験した私たちが、いま改めて共同体の意味を問い直すことには、深い意味と重みがあるのではないだろうか。
自由と共同体は本当に対立するものなのか。それとも、共同体こそが自由を支える条件なのだろうか。
これからの社会のあり方を考えるうえでの一つの整理として、これまで読んできた本を手がかりに、この問題について考えてみたい。
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小論文:自然権・自律・正義──近代自由主義と共同体思想の系譜
はじめに
近代政治思想の展開は、人間の自由と政治秩序の関係をめぐる長い探究の歴史として理解できる。中世ヨーロッパにおいて政治権力の正統性は、神的権威や伝統、王権に依拠していた。しかし17世紀以降、思想家たちは政治秩序の根拠を超越的権威から切り離し、人間そのものの自然的・理性的性質に求めようとした。これらの概念は、それぞれ異なる時代に形成されながら近代政治思想の骨格を形づくった。
本稿は、ホッブズからロック、ジェファーソン、ルソー、カント、ロールズ、コミュニタリアニズム、ネオリベラリズム、アイデンティティ政治、そしてポスト・リベラリズムに至るまでの思想的展開を、「自由の概念の変容」という観点から整理することを目的とする。すなわち、自然権としての自由から、自律としての自由、そして正義としての自由へという思想史的変遷を跡づけ、現代政治思想が直面する課題を明らかにする。
第一章 自然権と社会契約──ホッブズからロック、ジェファーソンへ
近代政治思想の出発点として位置づけられるトマス・ホッブズは、17世紀イングランドの内戦と宗教対立の混乱を背景に、人間社会がいかにして秩序を維持し得るのかという根源的問題に取り組んだ。ホッブズは『リヴァイアサン』において、人間は生まれながらに自己保存のための自然権を持つと主張する。しかし、すべての人が同じ権利を持つ自然状態では、相互不信と先制攻撃の連鎖が「万人の万人に対する闘争」を生み出す。
この混乱を回避するため、人々は社会契約を通じて自己保存に必要な権利を除き、自然権の行使を主権者に委ねることで、強力な国家権力を樹立する。ホッブズにとって国家は自由を抑圧する存在ではなく、むしろ自由の前提条件である。無秩序の状態では自由は成立しないからである。
これに対し、ジョン・ロックは自然状態をより穏やかなものとして描き、人間を理性的存在として評価した。ロックにとって自然権とは生命・自由・財産であり、国家はこれらを保護するために設立される。政府の正統性は人民の同意に基づき、権力は厳しく制限されなければならない。政府が自然権を侵害する場合には人民に抵抗権・革命権があるとされる。
ロックの思想は18世紀後半のアメリカ独立革命に決定的な影響を与えた。独立宣言を起草したトマス・ジェファーソンは、ロックの「財産」を「幸福追求」に置き換え、自由をより包括的な人間形成の権利として再定義した。また彼は、自立した市民によって支えられる共和国の維持を重視し、自由を市民的徳と結び付けて理解していた。こうして自然権論は民主主義の正統性原理へと転換されるとともに、自由主義と共和主義の要素を併せ持つアメリカ政治思想の基礎を形づくった。そして、この市民的徳や公共精神への関心は、後にトクヴィルが民主主義社会における自由の条件を論じる際の重要な主題へと受け継がれていく。
第二章 自由の再定義──ルソーとカントの自律概念
18世紀後半、思想家たちは「どのような権利を持つか」という議論から、「自由とは何か」というより根源的な問いへと向かった。その中心に位置するのがジャン=ジャック・ルソーである。ルソーは、欲望のままに行動することを自由とはみなさず、共同体の構成員として市民が主権者として一般意志の形成に参加し、その結果として成立した法に自ら従うことこそが真の自由であると主張した。
この考え方は一般意志の概念に結実する。一般意志とは、個々の利害の総和ではなく、市民全体の共通善を志向する公共的・道徳的判断である。ルソーはこれを単なる多数者の意見(全体意志)と区別した。市民が一般意志に基づく法に従うとき、それは他者への服従ではなく、自らの理性的かつ公共的意志への服従であり、したがって自律である。
ルソーの思想を継承したイマヌエル・カントは、自律を近代道徳哲学の中心概念へと高めた。カントにとって人間は、欲望や感情に支配される存在であると同時に、理性によって自己に法を課す能力を持つ存在である。真の自由とは、外的な制約からの解放ではなく、理性が自ら立法した道徳法則に従うことによって成立する自律である。
カントは、自由を「自律的主体の自己立法」として定式化した。ここにおいて自由は、単なる外的な権利としてではなく、理性が自らに課した道徳法則に従う自律にその根拠を求めるものとして理解され、近代の自由概念は根本的に再構築された。
第三章 市民社会と民主主義──トクヴィルからミルへ
19世紀に入ると、自由をめぐる政治思想は新たな課題に直面した。自然権や自律の理論が発展する一方で、民主主義社会が実際にどのような問題を生み出すのかが問われるようになったのである。
その代表的思想家が アレクシ・ド・トクヴィル である。トクヴィルは『アメリカのデモクラシー』において、民主主義の進展が人々の自由と平等を拡大する一方で、「多数者の専制」という新たな危険を生み出すと指摘した。民主社会では人々が平等化する反面、国家に依存しやすくなり、公共問題への関心を失う可能性がある。
トクヴィルが注目したのは、国家と個人の間に存在する中間団体であった。地方自治、宗教団体、市民結社などの自発的な共同体は、人々に公共精神を育み、自由な政治参加を支える役割を果たす。彼にとって自由は単なる権利の保障ではなく、市民が共同体の中で公共生活に参加することによって維持されるものであった。
一方、 ジョン・スチュアート・ミル は『自由論』において、個人の自由を民主社会において擁護する理論を展開した。ミルは「他者危害原理」を提唱し、他人に危害を加えない限り、個人は自己の生き方を自由に選択できるべきだと論じた。
しかしミルの自由論は単なる放任主義ではない。彼は自由な討論や多様な生き方の実践を通じて人格が発展すると考えた。自由とは欲望の充足ではなく、人間の能力を開花させるための条件なのである。
トクヴィルとミルはともに民主主義社会の到来を肯定しながらも、自由を維持するためには制度だけでなく、市民的徳や公共精神が不可欠であることを強調した。この問題意識は、後のコミュニタリアニズムや現代のコモングッド論へと受け継がれていく。
第四章 正義としての自由──ロールズと20世紀リベラリズム
20世紀に入り、ジョン・ロールズはカントの人格概念を政治的リベラリズムへ再構成した。ロールズは功利主義を批判し、社会全体の幸福の最大化が少数者の犠牲を正当化する危険を指摘した。彼は『正義論』において、原初状態と無知のヴェールという思考実験を提示し、人々が自らの能力や地位を知らない状況で社会制度を選ぶならば、誰にとっても公平な原理を採用するはずだと論じた。
ロールズの正義論は、自由で平等な人格が合意する原理として正義を定義し、カント的自律の理念を、現代民主社会における制度設計の原理として再構成した試みと理解できる。ここで自由は、個人の権利や自律だけでなく、社会制度の公正さを通じて実現されるべき価値として位置づけられる。
ロールズの理論は、20世紀後半のリベラリズムを代表する思想となり、政治哲学の中心的議題を「正義の原理の探究」へと移行させた。
第五章 共同体の再評価──コミュニタリアニズムのロールズ批判
ロールズの理論は大きな影響を与えたが、同時に強い批判も招いた。1980年代に登場したコミュニタリアンたちは、ロールズが共同体から切り離された抽象的個人を前提にしていると批判した。
マイケル・サンデルはロールズの人間像を「負荷なき自己」と呼び、実際の人間は家族、地域社会、宗教、文化といった共同体的文脈の中で形成されると主張した。アラスデア・マッキンタイアは、徳倫理の観点から、共同体の伝統の中で徳が培われるのであり、正義の原理だけでは社会は維持できないと論じた。チャールズ・テイラーは、個人のアイデンティティが共同体的承認によって形成されることを強調した。マイケル・ウォルツァーは、正義は共同体ごとに異なる社会的意味に依拠すると論じ、普遍的な分配原理には限界があると主張した。
コミュニタリアニズムは、自由や正義の議論に共同体の役割を再導入し、近代リベラリズムの個人主義的前提を問い直す思想的潮流として重要である。ここで自由は、個人の権利や自律だけでなく、共同体的文脈の中で形成される価値として再評価される。
コミュニタリアニズムは、共同体から切り離された個人という近代リベラリズムの前提を批判した。しかし、この批判にもかかわらず、20世紀後半の自由主義社会は、経済的自由の拡大と承認要求の拡大という二つの方向へ進んでいく。そして後にデニーンらは、これらが対立する現象ではなく、同じ個人主義的前提から生じたものではないかと問い直すことになる。
第六章 自由の分岐──ネオリベラリズムとアイデンティティ政治
コミュニタリアニズムが共同体の重要性を訴えた一方で、20世紀後半になると、リベラリズムはさらに異なる方向へと展開していった。経済領域では市場における個人の選択を重視するネオリベラリズムが広がり、文化領域では承認を求めるアイデンティティ政治が台頭した。こうして自由主義は経済領域と文化領域において大きく分岐していく。
経済学者のフリードリヒ・ハイエクは、市場経済を人々の自由な相互作用から生まれる「自生的秩序」と理解し、国家による計画経済は自由を脅かすと論じた。一方、ミルトン・フリードマンは、市場競争が個人の選択の自由を最大化すると考え、小さな政府や規制緩和を提唱した。こうした思想は、市場メカニズムを資源配分だけでなく社会運営全般においても重視するネオリベラリズムへと発展した。ネオリベラリズムは、市場競争の原理を経済活動のみならず教育、医療、福祉など公共政策の分野にも広く応用しようとし、その結果として規制緩和や民営化、小さな政府を推進する政策へと結び付いていった。
しかしその一方で、市場原理の拡大は経済格差の拡大や地域共同体の衰退を招き、人々の社会的連帯を弱めたとの批判も生み出した。自由が市場における選択能力へと還元されることで、自由の社会的基盤そのものが損なわれるのではないかという懸念が提起されたのである。
一方、文化・社会領域では、1960年代の公民権運動やフェミニズム運動などを背景として発展したアイデンティティ政治が、冷戦終結後には政治の中心的課題の一つとして大きな影響力を持つようになった。人種、民族、宗教、性別、性的指向など、社会的に周縁化されてきた集団が平等な尊厳と承認を求める運動が政治の重要なテーマとなった。
この流れの中で、 チャールズ・テイラー や アクセル・ホネット は承認論を展開し、人間の自由や尊厳は社会的承認によって支えられていると論じた。自由とは単に外部から干渉されないことではなく、自らの存在や価値が他者から認められることによって初めて実質的な意味を持つというのである。
こうして現代リベラリズムは、市場における自由を重視する方向と、承認と平等を重視する方向へと分岐した。両者はしばしば対立するように見えるが、いずれも個人の選択や自己決定を重視する点で共通している。そのため近年では、ネオリベラリズムとアイデンティティ政治は対立する思想ではなく、むしろ同じリベラルな個人主義から派生した二つの形態であるという批判も現れている。もっとも、この見方には異論もあり、両者はそれぞれ異なる歴史的背景と思想的系譜を持つため、同一の思想的起源に還元することはできないとする見解も存在する。こうした対立は、自由主義そのものをどのように捉えるべきかという、より根本的な問題へとつながっていく。
さらに、ネオリベラリズムに対する批判は、共同体主義や保守思想の側からだけでなく、リベラリズム内部からも提起された。ジョセフ・スティグリッツは、フリードマンと同じ『資本主義と自由』という題名の著書で、、市場経済そのものを否定するのではなく、市場が本来の力を発揮するためには、公正な競争を支える制度と公共財への投資が不可欠であると主張した。その上で、自由市場が十分に機能するためには、強固な制度的枠組みと適切な公共的規制が必要であると論じた。彼によれば、規制緩和や金融自由化を過度に進めた結果、競争は十分に機能せず、巨大企業や金融資本への権力集中を招き、結果として個人の自由と民主主義の基盤が弱体化した。自由が市場における選択そのものへと還元されると、教育、医療、情報アクセスなど、人々が実際に選択を行うための条件が損なわれる。その結果、形式的には自由が保障されていても、それを実際に行使できる人とできない人との格差が拡大するという逆説が生じるのである。
スティグリッツの批判は、ネオリベラリズムが自由の拡大を目指しながら、その基盤となる競争条件や公共的制度を弱体化させた結果、かえって自由を支える条件を損なったという構造的問題を指摘する点に特徴がある。彼は、自由を市場競争の拡大として理解するのではなく、すべての人が実質的に選択できる条件――公共財、社会的インフラ、透明な情報環境――が整備されていることを不可欠の前提として強調する。このような内部批判は、ネオリベラリズムの限界を示すだけでなく、自由を支える制度や共同体のあり方を問い直す議論へとつながっていく。
ホッブズやロックにおいて国家によって保障される権利として理解されていた自由は、ここに至って市場における選択の自由と、自己のアイデンティティを承認される自由という二つの方向へと展開した。さらに、市場自由を重視する立場の内部からも、その自由を支える制度的条件を問い直す批判が現れ、リベラリズムそのものをどのように修正すべきかという問題が浮かび上がってきたのである。
第七章 リベラリズムの自己修正──フクヤマと自由主義の再構成
ベルリンの壁崩壊やソ連の解体に象徴される東側の政治・経済体制の瓦解により、資本主義陣営と共産主義陣営の冷戦が終結した頃、フランシス・フクヤマは『歴史の終わり』を著し、自由民主主義が、ファシズムや共産主義との競争を経て、人類が到達しうる最終的な政治体制となったと論じた。しかしその後、市場の自由化やグローバル化が深刻な経済格差を生み出す一方、文化・社会領域ではアイデンティティをめぐる政治が活発化し、それぞれの領域で新たな対立や分断が生じるようになった。こうして、フクヤマが想定した「歴史の終わり」の後には、むしろリベラリズムそのもののあり方が問われる状況が生じることとなった。
他方、文化・社会的自由をめぐっては、構造主義やポスト構造主義などの思想的影響も受けながら、既存の社会規範や権力関係を問い直す動きが強まった。ミシェル・フーコーらは、普遍的・客観的な真理として受け入れられている知識や規範について、それらが成立する歴史的・社会的条件と権力との関係を問い直した。こうした思想的潮流は、人種や性などをめぐる既存の規範や差別を批判し、社会的に周縁化されてきた人々の承認と解放を求める運動にも影響を与えた。こうしたアイデンティティをめぐる政治的対立は、右派にも反作用を及ぼし、対抗的なアイデンティティ政治やポピュリズムが台頭する一因ともなった。左右がそれぞれ極端化するにつれ、社会には深刻な分断が生じ、両派は激しく対立するようになった。
こうしたリベラリズムの危機が叫ばれる中で、フクヤマはリベラリズムの基本原理を擁護しつつ、今日の課題に応答するための再構成案を提示する。第一に、政治の質を高めること。第二に、権力を最も適切で低位の統治レベルへ委譲すること。第三に、インターネットの普及によって複雑化した言論環境の中で、言論の自由を確保すること。第四に、寛容の価値を再確認することである。これらを通じて、フクヤマはリベラリズムを放棄するのではなく、その制度的・文化的基盤を再構成することで、リベラリズムが本来備えている自己修正能力を再活性化しようとしている。しかし、リベラリズムの問題は制度の修正によって解決できるものなのだろうか。リベラリズムそのものの前提を問い直すべきだという立場も現れている。
第八章 ポスト・リベラリズムの台頭──自由の限界と共同体の再建
こうした問いに対して、リベラリズムを内部から修正しようとする動きと、その前提そのものを問い直そうとする動きの双方が現れている。21世紀に入り、自由主義の限界が明らかになるにつれて、自由を維持しながらその制度的・社会的基盤を再構築すること、そして共同体や共通善をいかに再建するかという問題が重要になってきた。
前章で見たように、ネオリベラリズムは経済的自由を拡大することで個人の選択を最大化しようとしたが、その帰結は経済格差の拡大、共同体の弱体化、民主主義の機能不全といった深刻な問題を生み出した。こうした問題に対して、スティグリッツのような制度改革派リベラルは、リベラリズムそのものを否定するのではなく、誤った市場観によって歪められた制度を修正し、自由の条件を再構築することを提唱した。
また、リベラリズムを維持しながら、社会を支える共通の価値そのものを再構築しようとする動きもある。ロバート・ライシュは、市場の自由な活動だけでは社会を支える価値や倫理を維持できないと考え、社会の成員が共有できる公共的な価値として「コモングッド(共通善)」を捉え直そうとしている。これは、自由を制限して共同体を再建するというよりも、自由な社会そのものを維持するために、私たちは何を共同で大切にするのかを問い直す試みといえる。
しかし、こうした制度改革や共通善の再構築によって、リベラリズムが抱える問題を十分に克服できるのだろうか。ここから、リベラリズムそのものの前提を問い直す思想潮流が登場する。
パトリック・デニーンは『リベラリズムはなぜ失敗したのか』において、現代社会の分断や共同体の崩壊は、リベラリズムが失敗したからではなく、むしろ成功した結果であると論じた。リベラリズムは個人を伝統や共同体から解放することで自由を拡大したが、その結果として、家族、地域共同体、宗教的結びつきなどが弱体化し、人々は孤立した個人へと向かうことになったと論じる。ネオリベラリズムは市場の論理を社会全体に浸透させ、アイデンティティ政治は共通善よりも個別の承認要求を強調した。デニーンは、これらが対立するように見えても、共通する個人主義的前提から生じたものと指摘し、中間共同体の再建を政治の中心課題とすべきだと主張する。
もっとも、共同体再建の具体的制度設計については十分に示されていないとの批判もある。こうした議論は、近年「ポスト・リベラリズム」と呼ばれる思想潮流の一つとして位置づけられている。
結論──自由の先にある共同体
ホッブズ以来の近代政治思想は、人間の自由と政治秩序の関係をめぐる探究の歴史であった。ロックとジェファーソンは自然権を基礎として近代自由主義を築き、ルソーとカントは自由を自律として再定義した。さらにロールズは、自由で平等な人格が合意しうる公正な社会制度の原理を探究し、自由を正義の問題と結びつけて捉え直した。
しかしその一方で、民主主義社会における自由の維持という課題も提起された。トクヴィルは、中間団体や市民的結社が自由を支える基盤であることを指摘し、ミルは個人の自由な人格形成と公共的討論の重要性を論じた。彼らはともに、自由な社会を維持するためには制度だけでなく、市民的徳や公共精神が不可欠であることを示した。
20世紀後半には、自由主義は異なる方向へと展開した。フリードマンやハイエクらは市場における自由を重視し、ネオリベラリズムの思想的基盤を形成した。一方で文化領域では、承認を求めるアイデンティティ政治が台頭し、自由の意味はさらに多様化した。しかし両者には、個人の選択や自己決定を重視するという、共通するリベラルな個人主義的前提が見られる。
コミュニタリアニズムは、この前提を批判し、人間が共同体の中で形成される存在であることを強調した。さらに、ネオリベラリズムがもたらした格差や社会的分断に対して、スティグリッツは市場経済そのものを否定するのではなく、公正な競争を支える制度や公共財への投資によって、リベラリズムを内部から修正する道を示した。フクヤマもまた、リベラリズムの基本原理を維持しながら、政治の質や統治のあり方、言論の自由、寛容の価値を見直すことで、その制度的・文化的基盤を再構成しようとした。
しかし、こうした体制内部からの修正によって、リベラリズムが抱える問題を十分に克服できるのだろうか。近年、デニーンに代表されるポスト・リベラル思想は、自由主義が成功することによってかえって共同体を衰退させたのではないかという問題を提起している。こうした議論を踏まえると、共同体は自由の対立物なのではなく、むしろ自由を支える条件なのではないかという問いが浮かび上がる。
近代政治思想の流れを一つの軸で捉えるならば、それは「自然権としての自由から、自律としての自由へ、そして正義としての自由へ」という歩みであった。しかし、その先には、自由や正義を支える社会的基盤をいかに維持するのかという問題が残されている。トクヴィル以来繰り返し提起されてきた「自由を支える共同体はいかに維持されるのか」という問いが、今日再び重要な意味を持ち始めているのである。政治思想は現在、「正義を実現しながら、共同体をいかに維持するのか」、そして「自由を保障しながら、自由を支える共同体をいかに維持するのか」という新たな課題に向き合っている。
参考書
1. フランシス・フクヤマ(会田弘継訳)『リベラリズムへの不満』新潮社(2023)
2. フランシス・フクヤマ(渡部昇一訳)『歴史の終わり』三笠書房(1992)
3. ロバート・B・ライシュ(雨宮寛、今井章子訳)『コモングッド―暴走する資本主義社会で倫理を語る』東洋経済新報社(2024)
4. アンガス・ディートン(松本裕訳)『大脱出――健康、お金、格差の起原』みすず書房(2014)
5. アン・ケース、アンガス・ディートン(松本裕訳)『絶望死のアメリカ――資本主義がめざすべきもの』みすず書房(2021)
6. ジョセフ・E・スティグリッツ(山田美明訳)『資本主義と自由』東洋経済新報社(2025)
7. パトリック・J・デニーン(角敦子訳)『リベラリズムはなぜ失敗したのか』原書房(2019)
8. 先崎彰容『知性の復権:「真の保守」を問う』新潮新書(2025)
9. 宇野重規『ルソー『社会契約論』-民主主義をまだ信じていいの?』中央公論新社(2026)
10. 西研『カント 純粋理性批判: 答えの出ない問いはどのように問われるべきか?』NHK出版(2023)
11. 宇野重規『トクヴィル 平等と不平等の理論家』講談社(2019)
12. 関口正司『J・S・ミル 自由を探究した思想家』 中公新書(2023)
13. 玉手慎太郎『ジョン・ロールズ 誰もが「生きづらくない社会」』講談社 (2024)
*1:「リベラル」という語は、本来「自由の」あるいは「自由主義に関する」という意味内容を有する概念である。ヨーロッパの政治思想史においては、主要なイデオロギー的潮流として「保守主義(Conservative)」「自由主義(Liberal)」「社会主義・社会民主主義(Socialist / Social Democratic)」の三系統が伝統的に区別されてきた。これに対し、アメリカ合衆国の政治的スペクトラムは、広義の「自由主義」的枠組みの内部で右派・左派が分化している点に特徴がある。すなわち、市場経済の自律性や政府規模の縮減を重視する勢力が「保守(Conservative)」とされる一方、政府による再分配政策や社会的公正の確保を重視する勢力は「リベラル(Liberal / Social Liberal)」と位置づけられる。この用語法は、ヨーロッパにおいて「リベラル」がしばしば市場重視の中道右派を指示することと対照的であり、両地域間で語義のずれが生じる要因となっている。本稿では、以上の混同を避けるため、「リベラル」という語を原義に即して自由主義一般を指す概念として用いる。また、アメリカ政治における中道左派を指示する場合には、混乱を避ける目的から「左派」と表記することとする。