bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

「誇り」の失墜とコミュニティの再建──アーリー・ホックシールド『盗まれた誇り』を読む

「武士は食わねど高楊枝」というフレーズを覚えているだろうか。私がまだ学生だったころ、少し背伸びした料理を勧められて気後れしたとき、この言い回しでその場を凌いだことがある。黒澤明監督の映画『用心棒』(1961)で、三船敏郎演じる素浪人・桑畑三十郎が爪楊枝をくわえる姿も、どこかこの言葉の持つ独特の気概や可笑しみを思い起こさせる。

もともと「武士は食わねど高楊枝」は、江戸末期から幕末にかけて用いられ、時代の変化に取り残された武士を揶揄する表現であった。名誉や体面を最優先する武士社会において、清貧は美徳とされた。しかし幕末、急速に浸透する貨幣経済の中で下級武士たちは著しい困窮に陥る。その日の食事にも事欠きながら、武士としての体面を保つためにやせ我慢を続ける姿は、町人たちにとって格好の皮肉の対象となったのである。

社会のメインストリームから追いやられた彼らの理不尽さや恥の意識は、やがて「自分が悪いのではない。社会の仕組みが悪いのだ」という感情へと転じていったはずだ。黒船来航以降、下級武士たちは尊王攘夷運動や新選組、あるいは倒幕のテロルへと身を投じ、多様な政治行動へと駆り立てられていく。そして明治維新を経て、武士階級そのものが消滅した。

社会構造の激変によって周縁へ追いやられ、存在価値を脅かされていく人々──。この現象は、決して過去の日本に限った話ではない。現代のアメリカ社会にも、驚くほど似た構造が生じているのではないか。

この疑問を確かめるべく、まずは金成隆一のルポルタージュ『トランプ王国』『トランプ王国2』を読んだ。ラストベルトやアパラチア地方における製造業・石炭産業の没落と、そこに生きる人々の姿が見事に描き出されていた。そこにはまさに、「武士は食わねど高楊枝」的な気概と誇りを抱えたまま取り残された人々の叫びがあった。

名著であることは疑いない。だが同時に、彼らの内面深くで何が起きているのかという「感情の深層」にまで迫るには、ジャーナリズムの域を超えたアプローチが必要なのではないかとも感じた。人々の生活世界に入り込み、その語りを直接汲み取れる社会学者の視点──そう考え、辿り着いたのがアーリー・ホックシールドの『盗まれた誇り』である。

本書の導入部は、まるで黒澤明監督の『七人の侍』の冒頭のように巧みに構成されている。『七人の侍』が、麦の収穫期を控えた村を野武士が襲うという不穏な予兆から始まるように、『盗まれた誇り』もまた、強い緊張感を孕んだ場面で幕を開ける。ネオナチのグループが、ケンタッキー州パイクヴィル市のメインストリートでデモを行いたいと申し出てきたのだ。直前に他都市で実施された彼らのデモでは暴力事件が起きており、市にとっては看過できない危機であった。

パイクヴィル市が属するパイク郡は、ケンタッキー州東部の白人比率の高い貧困地域である。かつては石炭産業で栄え、「俺たちがこの国の明かりをともしてきた」と住民が誇りを語った街だった。しかし今日では産業が衰退し、ドラッグが流入し、深刻な社会問題に苛まれている。長らく民主党の地盤だったが近年は共和党へ急速に傾斜し、憲法修正第2条の「銃所持の権利」を神聖視するほど典型的な保守派の拠点となっている。

暴力行為を引き起こしかねない極右団体を受け入れるべきか──市の責任者は深く葛藤する。しかし最終的には、言論の自由を尊重しデモを許可する決断を下す。ネオナチが現れたとき何が起きるのか。読者の不安が募るなか、ホックシールドはこの結末をあえて焦らし、そこに至るまでにパイクヴィルの住民がどのような価値観と感情を抱えて生きてきたのかを丁寧に解き明かしていく。

ルイジアナ州南部を舞台にした前著『壁の向こうの住人たち』で、彼女は保守派の人々の奥底に眠る「ディープ・ストーリー(感情の物語)」を掘り起こしていた。それは「アメリカンドリームに向かう列に並んでいるのに列は進まず、女性や移民、難民が割り込んできている」という納得のいかない被害意識であり、トランプ支持の原動力となる「怒り」の描写であった。

これに対し、近年の作である『盗まれた誇り』は、その怒りがさらに増幅・変質し、「報復」や「奪還」という言葉が公然と語られるようになった時代の深層を踏まえている。ホックシールドの観察は一段と深まり、人々の感情構造をより精密に解読していく。

彼女がここで提示するのが「プライド経済」という概念だ。従来の「物的経済(所得、資産、所有といった豊かさの指標)」に対し、「プライド経済」とは敬意、承認、尊厳の階層を指す。人々は「自分はこの程度の敬意を得る権利がある」という自負心を形成して生きている。本来、アメリカンドリームにおいては「物的成功」がそのまま「敬意(プライド)」に直結していた。マイホームや自動車は、努力の証たる「誇りのトロフィー」だったのである。

だが石炭産業の衰退に伴い、その誇りを体現する場そのものが消失した。プロテスタント的な自助自立の精神を重んじるこの地域の人々は、政府の援助を受けることを猛烈に恥じる。しかし背に腹は代えられず給付金に頼らざるを得ない。「誇り高くありたい」と願うほど、依存せざるを得ない現実に自己嫌悪を深めていく──このジレンマをホックシールドは「プライド・パラドックス」と名付けた。

本来、自助自立の文化では「うまくいかないのは自己責任だ」という猛烈な「恥」が内省的に生じる。しかし、恥は人間にとって耐えがたい感情だ。耐えかねた心は、内省を回避するために「自分が悪い(恥)」から「他者が悪い(非難)」へと感情をスライドさせる。

この感情の転換を決定的に加速させたのが、右派ポピュリスト政治家や極右勢力のナラティブである。「あなたが苦しいのは努力不足ではない。リベラルエリートや多様性政策によって、正当な誇りが『盗まれた』のだ」──この言葉を受け取った瞬間、人々は自己嫌悪から解放され、「不当に奪われた被害者」という道徳的正当性を手に入れる。

こうして個人の内面で完結するはずだった自責と恥(プライド・パラドックス)は、政治的扇動によって「怒り」と「他者への非難」へと反転し、集団的な攻撃性へと変質していく。ホックシールドが描き出したのは、現代アメリカを揺るがす「感情の増幅回路」そのものなのである。

さて、最初の場面に戻ろう。ネオナチの極右グループがパイクヴィル市でデモを行うと申し出たとき、町はどのように対応したのだろうか。住民の感情が「自分が悪い」から「他者が悪い」へとスライドしつつあった当時、極右集団から見れば自分たちが歓迎される可能性すら期待できる状況だった。しかし市は彼らの思惑に反し、万一の事態に備えて州兵を目立たぬ場所に待機させつつも、過度に刺激することなく静かにデモ隊を通過させた。市の責任者は、言論の自由が保たれ、破局が回避されたことに安堵したという。

本書ではパイクヴィルが「とても貧しい地域」と描写される。だが実際の街並みを調べてみると、その印象は見事に裏切られる。洪水対策と土地確保のために山を切り崩して造られた「パイクヴィル・カット・スルー」は壮大な景観を生み出し、馬蹄形に人工造成された町は、むしろ理想的なアメリカの姿を思わせるほど美しく整っている。このような美しく整った街並みの中で、人々が深い悲嘆に沈んでいる姿を直感的に想像することは難しい。だが、まさにこの外観と内面の激しいギャップこそが「パラドックス」の本質なのである。

ネオナチのデモはトランプ前政権が発足した当初の出来事だ。その後、この地域では再生への動きが少しずつ現れ始めた。ドラッグ依存から立ち直り、厚生施設で同じ苦しみを抱える人々の回復を支える者。知識を求めて市内の大学に通い始める者。地域病院ではイスラム系の医師が働き、住民に温かく受け入れられている。わずかではあるが、地域再生の光が確かに差し始めているのだ。

ホックシールドは、この「プライド・パラドックス」を生み出す根源に、アメリカンドリームそのものが抱える構造的問題があると指摘する。子どもは親より「多く」稼ぎ、「多く」を所有し、「多く」を成し遂げる──これまで理想とされてきたこの「より多く(More)」という価値観は、本当に人々を幸せにするのだろうか、と彼女は問いかける。

そして、ホックシールドはこう提案する。

それよりも、十分な物資を蓄え、強固なコミュニティを築き、この脆弱な地球を大切にすることを目標としてはどうだろうか。極端なまでに過剰な富を減らし、中間層を再建し、わたしたちの民主主義を守るガードレールの強化に努めるのだ。そうした目標を誰もが平等にめざせるようにすることで、最も手痛い打撃を受けた地域に蔓延する恥の感情をやわらげることもできるだろう。

非常に強く深く肯首させられる提起である。ジョン・ロールズが『正義論』で正義の原理を提示して以来、私たちは「公正な社会とは何か」を長年問い続けてきた。未だ決定的な解は見つかっていないが、過剰な競争主義の果てに、多くの人々がコミュニティの重要性を再び認識し始めている。パイクヴィルで芽生えた小さな変化にも、その兆候が確かに見て取れる。

かつてトクヴィルが『アメリカの民主主義』において見出した古き良きコミュニティの精神──互いに支え合い、公共善を担う市民同士の結びつき──は、いま再びその価値を取り戻しつつあるのではないか。日本においても、かつて存在していた地域コミュニティが家族構成の変化や高齢化によって弱まり、孤立や無縁社会といった課題が深刻化している。アメリカのアパラチア地方やラストベルトで起きている「誇りの失墜と再生の試み」を単なる対岸の火事とせず、私たち自身の足元にあるコミュニティの再建について、改めて丁寧に考え直してみたい。