子どものころ、何よりの楽しみは普段とは異なる経験ができる夏休みであった。次に楽しみだったのはお正月である。もちろん珍しい正月行事を味わえることも理由の一つだが、最大の魅力はお年玉だった。父は十二人兄弟、母も六人兄弟だった。祖父(祖母は両家ともすでに亡くなっていた)と叔父の家族、さらに未婚の叔父や叔母が同居しており、ここに住むみんなからお年玉をもらえた。一人ひとりからは少額でも、人数が多いため総額は子どもにとって思いもよらないほどになった。
当時住んでいたのは川崎市である。多摩川に沿って細長く伸びる市域のほぼ中程に位置する地域だった。現在の住宅密集地からは想像しにくいが、第二次世界大戦前までは豊かな農村地帯であった。日中戦争が始まった直後、日本電気や富士通などの工場が相次いで開設され、勤労者向けの戸建て住宅が大戦期に建ち始めた。戦後になると集合住宅の建設も進み、復興の波がこの地域にも押し寄せた。父の勤務する工場は戦時中に地方へ疎開していたが、終戦とともに戻り、わが家もこの住宅街に住み着いた。

(左は戦前の1931年〔昭和6年〕、右は戦後すぐの1947年〔昭和22年〕に作成された川崎市域中程の地図である。両者を比較すると、戦後直後の段階で、この地域が農村から勤労者向けの住宅街へと姿を変え始めていたことが分かる。)
戸建て住宅街には、一戸建ての住宅か二戸一棟の住宅が並び、どの家も似たような間取りだった。南側に二〜三室、北側に玄関・台所・トイレ(当時は男子用小便器も設置されていた)がある構造である。住民のほとんどは川崎の工場勤務者で、どの家にも二〜三人の子どもがいた。しかも多くが団塊の世代で、夕方や休日には道路が子どもたちの声であふれ返った。母親たちはほぼ全員が専業主婦で、夕方になると買い物帰りの井戸端会議で住宅街は賑やかだった。長話が続くので、付き添わされた私はいつも早く終わらないかと願っていたものだ。この住宅街は若い家族が中心で、老人を見かけることはほとんどなかった。
子どものころには気づかなかったが、友達の家と比較すると、わが家は叔父・叔母が多いことに驚かされる。叔父・叔母の親、すなわち私の祖父母は明治の生まれである。この時代は、たくさんの子どもを産むが成人まではなかなか育たない「多産多死」の時代とされていた。父方も母方も、幼児期に亡くなった人数は把握できないものの、戦争で亡くなった叔父・叔母はおらず、成人した者はすべて還暦を迎えることができた。
そして、私の叔父・叔母たちには、二〜三人の子ども(私の従兄弟たち)がいた。これは当時の都会の平均値に近い。一方で地方では五〜六人の家庭も多く、全国平均は四人程度だったそうだ。この世代(団塊の世代)の人々は、同窓会などで得た情報によれば、若くして亡くなった人はほとんどいなかったようである。親たちはたくさんの子どもを産み、無事に育て上げたといえる。この世代の親たちは、人口転換の過程における「多産少死」の特徴を備えていた。一方、団塊の世代の人々が大人になって形成した家族の多くは子どもを二人前後に抑えており、「少産少死」の傾向をもつ世代と位置づけられるだろう。私が目撃してきた身近な風景は、近代日本の人口転換──すなわち多産多死から多産少死を経て少産少死へと移行するダイナミックな過程──をまさに体現していたのではないだろうか。
こうした移行期のリアルな家族像を、社会科学者はどのように観察し、どのような家族変容のドラマとして捉えているのか。興味を覚え、落合恵美子著『21世紀家族へ(第4版)』を手に取ってみた。
社会の近代化や経済発展に伴い、人口の増減を左右する出生率と死亡率は「多産多死」から「少産少死」へと段階的に変化していく。多産多死の段階では出生率・死亡率ともに高く、特に医療や衛生環境が未発達なため乳幼児死亡率が高い。結果として人口増加率は低い水準にとどまる。一方、少産少死の段階では、都市化や生活水準の向上、子育てコストの上昇などによって出生率が低下し、死亡率も低い水準で安定する。そのため人口増加率は低下し、やがて少子高齢化や人口減少へと向かう。
この二つの段階の間に位置するのが「多産少死」である。経済発展や医療・衛生技術の向上によって死亡率が急激に低下する一方、高い出生率が維持されるため、人口が爆発的に増加する時期にあたる。
人口ピラミッドは、国や地域の人口構成を年齢・性別ごとに示した図である。「多産多死」の段階では、出生率も死亡率も高いため、人口ピラミッドはすそ野の広い「富士山型」となる。死亡率が低下し出生率が高いままの「多産少死」の段階では、若年人口が急増するため、より典型的な「ピラミッド型」となる。さらに出生率も低下する「少産少死」の段階では、「つり鐘型」や「壺型」に近づいていく。落合は伊藤達也の研究(1990年代末)を引用し、1925年から1950年頃に生まれた人々、すなわち大正末期から昭和25年頃までに生まれた人々を「多産少死」の段階=「第2世代」と位置づけている。これに対し、それ以前の「多産多死」を第1世代、その後の「少産少死」を第3世代とする。
落合はさらに、それぞれの家族類型を示している。第2世代の代表例として挙げるのが『サザエさん』と『ちびまる子ちゃん』の一家である。いずれも三世代家族として描かれているが、サザエさんの家にはサザエの弟妹が同居し、夫のマスオさんは妻方の家に入りながら、姓は磯野ではなくフグ田のままである。落合はこうした過渡期的な三世代家族を「直系家族の変形(拡大家族)」として捉える。
従来の日本の家族システムは「家」を基盤として構成されてきた。家の維持が最重要とされ、長男が家を継ぐことが原則であり、継承が難しい場合には娘に婿養子を迎えるなどの方法がとられた。第1世代では子どもは多く生まれるものの幼児死亡率が高く、成人に達する子どもの数は親世代と大きく変わらない。そのため、長男が家を継ぎ、次男・三男は養子に出るか他家へ出るという構造が繰り返された。
しかし第2世代になると、成人に達する子どもの数が親世代を大幅に上回る。長男は家を継承できても、その他の子どもたちは生家を離れ、自ら新しい家を構える必要が生じる。そこで、親から独立した夫婦と子どもだけの二世代家族、すなわち「核家族」が大量に形成されることになる。こうして第2世代では、直系家族と核家族が同時に並存することになる。特に農村部では、農業経営の継承から長男夫婦が三世代家族を構えて村に残り、次男・三男は都会へ出てサラリーマンとなり、核家族を形成するという構造的な変化が生じた。
第2世代のもう一つの大きな特徴は、専業主婦の爆発的な増加である。結婚するまでは働く女性も多かったが、結婚や出産を機に退職する人がほとんどで、いわゆる「寿退社」「寿退職」が一般化した。落合は、この専業主婦という存在が歴史的に見れば決して古くから存在したわけではないと指摘する。かつての農家や商家では、妻は夫とともに家業に従事する「労働手」であり、専業主婦という形態は成立しなかった。明治・大正期に存在した専業主婦は上層サラリーマン家庭に限られており、しかもそうした家庭には女中や子守がいたため、妻が単独で家事を担っていたわけではない。妻が主として家事や育児を担う「近代型専業主婦」が一般化したのは、戦後の高度経済成長期にサラリーマン家庭(新中間層)が急増したからである。
また落合は、「家事」という概念自体も昔から自明にあったわけではないと述べる。かつての仕事は生活と一体化しており、家事と生産活動の境界は曖昧だった。市場経済が発達し、あらゆる労働が賃金労働(商品化)されていく過程で、市場から排除され対価が支払われない無償労働(アンペイド・ワーク)の領域が「家事」として立ち現れてきたのである。
さらに、第2世代の重要な特徴として落合が挙げるのが「再生産平等主義」である。やや専門的な表現だが、ここでの「再生産」とは主に出産・育児を指す。ほぼすべての女性が結婚し、ほぼすべての夫婦が二人程度の子どもを持つという、結婚・出産行動の画一化が進んだ現象である。政府が中国の計画生育のような「ひとりっ子政策」を強制したわけではないにもかかわらず、社会的な規範として「子どもは二人」という家庭像が定着していった。
これまで述べてきたように、第2世代は人口学・社会学の双方において決定的な「移行期」に位置する。これらの特徴(核家族化、専業主婦化、再生産平等主義)を総合し、落合は第2世代の家族像を「家族の戦後体制」と呼び、現代日本の家族構造を形作った決定的な時期として位置づけている。
時代が進み、第3世代が社会の主役となると、親への支援や介護をめぐって、それまでとは異なる複雑な構造的問題が生じる(第3世代が抽象的に思える場合には、団塊ジュニアをイメージするとよい)。第3世代では核家族化の傾向がさらに強まる。落合は直接には言及していないが、私には、こうした変化の背景には、女子の高等教育進学率の上昇や都市への人口集中もあったように思われる。大学や職場で知り合った「友達感覚の夫婦」が増え、「家」制度的な結婚観は一層希薄化していった。
第3世代では兄弟数が平均して二人程度となるため、仮に全員が結婚したとすると、親世代の家族数と子ども世代の家族数は同数になる。一見すると第1世代と同じ構造である。しかし第1世代では「家」の継承を前提としていたため、長男夫婦が親と同居し家族が統合された。これに対し、核家族規範が定着した第3世代では同居は一般的ではない。すべての夫婦が別居して核家族を形成すれば、親世代と同数の核家族が新たに独立して存在することになる。
ここで問題となるのが親への支援・介護である。親世代の中に「娘二人」という家族が生じる比率は、単純化すれば約4分の1である(男女の出生比をほぼ1:1と仮定した場合)。もし第3世代が「夫側の親を優先して支援する」という従来の父系的原則を踏襲すると、これら4分の1の親たちは子どもからの支援を受けられないことになる。そこで第3世代で立ち現れたのが、夫は自分の親を、妻は自分の親をそれぞれ支援・介護するという「双系的な支援(継承)関係」である。従来の単系(父系)的な家継承ではなく、夫婦双方がそれぞれの実親を対等に支えるという意識と行動が一般化していったのである。
こうした双系的支援の広がりは、抽象的な人口学的構造だけでなく、実際の生活場面にも確かに表れていた。身近な例になるが、第三世代に属する義妹が結婚する際、「それぞれが、それぞれの親を別々に見る」という約束を夫婦間で交わしたと聞いたとき、第二世代の私たちは大いに驚いた。しかし今振り返れば、これは時代の変化を的確に捉えた、きわめて合理的な考え方であったと感心している。
この傾向は都市部で先行して進行し、実は第2世代の段階でもすでに双系的な芽生えが見られた。親が高齢化した際、娘夫婦と同居・近居するケースが少なからず生じ、玄関に「姓の異なる表札が二つ並ぶ」という新たな住宅街の風景が現れたことは、その象徴といえよう。
ここまでは「全員が結婚する(皆婚)」という前提で議論を進めてきた。しかし第3世代になると、未婚率の上昇、離婚によるシングルマザー(単親世帯)、単身世帯(おひとり様)の増加が顕著になる。第2世代が高齢期を迎えた際には、子ども世代(第3世代)による双系的な家族内支援によって支えることが、負担は大きいものの、一つの解決策である。しかし、多様化した第3世代自身が高齢期に達したとき、もはや従来の家族機能だけに高齢者を支えさせることは限界を迎える。家族の形態は決定的に多様化・流動化しており、「家」や「家族」の絆だけにケアを依存することは不可能である。こうした家族の多様化・単身化が先行した都市部では、やがて「孤独死」も社会問題として顕在化していった。
落合はこうした限界を踏まえ、ケアや保障の単位を「家(家族)」から切り離し、「個」を基盤として社会全体で支え合うシステムへと転換することが不可欠であると主張する。
現在の日本の福祉政策を考えるうえで重要な転換点となったのが、1980年代半ばの中曽根内閣期である。エズラ・ヴォーゲルが『ジャパン・アズ・ナンバーワン』で日本の経済的成功を称賛し、日本社会が自信を取り戻すとともに「日本的価値観」への誇りが高まっていた時代である。そのため、政策決定においても「日本型福祉社会」という標榜のもと、家族(とりわけ専業主婦による介護や育児)を基盤とするケア機能を前提とした制度設計が強固になされた。
ちょうどこの頃、欧米では、サッチャーやレーガンに代表される新自由主義的な政策が影響力を強め、手厚いヨーロッパ型福祉国家からの転換(小さな政府化)が図られていた。日本もこうした世界的な流れと同調する政策を採用したが、落合は、欧米諸国が長期不況の中で福祉の見直しを迫られていたのに対し、当時の日本はバブル景気へと向かう好景気の只中にあったことを指摘する。背景の異なる日本が欧米と同じベクトルで「家族への福祉依存(公的福祉の抑制)」を進めたことが、果たして妥当であったのかと疑問を呈している。
その後、1990年代に入ると、少子化の加速や高齢者介護の問題が深刻化し、家族だけにケアを負わせることの限界が明らかになった。政府も家族の機能を社会的に支援する方向へ政策転換を試みたが、直後に起きたアジア通貨危機や国内の金融危機といった経済的混乱に見舞われ、制度改革は中途半端なまま挫折してしまった。
現在の日本社会の構造について、落合はこれを「縮んだ戦後体制」と呼ぶ。第2世代の時期に確立した「家族の戦後体制(夫=標準勤労者、妻=専業主婦、子ども二人)」の制度的枠組みが依然として温存される一方で、第3世代以降にもたらされた多様で流動的な家族形態が混在している状態を指す。前者の層は安定した雇用と安定した家族に守られ、社会保険や年金制度の手厚い保護を享受できているのに対し、後者の層は不安定な雇用と不安定な家族構造を抱え、制度のセーフティネットの外側に置き去りにされている。たとえば第3号被保険者制度に象徴されるように、専業主婦を含む「標準世帯」を前提とした制度が維持されてきた一方で、シングルマザーや非正規雇用の単身者に対する公的支援はきわめて脆弱なままである。
こうした格差が生じた原因として、落合は「日本的家族観」という文化的なノスタルジーに基づいて政策を決定してしまった誤りを指摘する。人口動態や家族形態の変化は人口学的に十分予測可能であったのだから、感情的な家族観ではなく、構造的変化に対応した現実的な政策を打つべきだったというのである。
「家」や「標準世帯」という前提が崩壊した現代において、福祉や社会保障の対象とすべきはもはや「家族」ではなく「個人」である。単位を「個」へと完全にシフトさせる制度改革を行ってこそ、専業主婦も、シングルマザーも、非正規雇用者も、あらゆる人々を排除することなく等しく保護・支援する包摂的な社会を構築できるはずだと、落合は強く訴えている。
落合の分析は明瞭であり、十分に首肯できる。しかし一歩踏み込んで、「個」をどのように守り、支えていくのかという具体的な処方箋に対しては、いまだ決定的な解が得られていないのも事実である。それどころか、これは日本一国にとどまらず、近代化を経た世界共通の重い課題となっている。国家(行政)だけでは支えきれない領域を、新たなコミュニティや地域ネットワークが補完しようとする動きが試みられつつあるが、その実効性のあるあり方はまだ模索の途上にある。多様な家族形態が不可逆的に広がる現代社会において、どのように「個」を保障し、同時に人々のつながりを再構築していくのか──この難題に対しては、さまざまな角度から実践的な試みを重ね、社会の仕組みを更新し続けていくほかないのではないだろうか。
思えば、冒頭に書いた私の子どものころの正月は、まさに「家族の戦後体制」へ移行する途中にあった社会の一風景だったのかもしれない。大勢の叔父や叔母、従兄弟たちが一つの家に集まり、子どもたちはそこにいる大人たちからお年玉をもらった。家族や親族のつながりが、生活を支える大きな基盤になっていたのである。
しかし、その後の社会では、家族は小さくなり、「家」という枠組みも弱まった。いま私たちに求められているのは、「家族に戻ること」でも「個人だけで生きること」でもないのだろう。個人を保障しながら、同時に、人と人との新しいつながりをどうつくるか。その答えを探し続けることこそが、これからの社会に課された大きな課題なのではないだろうか。
付録:データで見る世代間ギャップと家族の変容
第2世代と第3世代の大きな違いの一つは、結婚や出産と「仕事」との関係にある。本文でも述べたように、第2世代では、結婚や出産を機に退職し、専業主婦になる女性が多かった。「寿退社」という言葉が定着したのもこの時代である。一方、第3世代になると、出産に伴って一時的に離職することはあっても、その後、職場に復帰して就業を継続する女性が増えていった。
こうした変化は、統計データからも明確に確認できる。図1は、総務省統計局「労働力調査」に基づき、1975年以降、10年ごとの年齢階級別女性の労働力率の推移を示したものである。

(図1:年齢階級別女性の労働力率の推移。1975年には、結婚・出産期に労働力率が大きく低下する「M字カーブ」が見られる。2025年にはその落ち込みがほとんど消え、台形に近い形へと変化している。)
青線で示した1975年の労働力率を見ると、20代前半では比較的高いものの、20代後半から大きく低下し、いわゆる「M字カーブ」を描いている。これは、結婚や出産を機に労働市場から離れる女性が多かったことを示している。30代後半になると労働力率は再び上昇するものの、20代前半の水準には戻っておらず、家事・育児に専念する女性が多かったことがうかがえる。
これに対して、緑線で示した2025年の労働力率では、35歳前後にわずかな落ち込みが見られるものの、M字カーブの「底」は極めて浅くなり、全体として台形に近い形へと変化している。これは、結婚や出産を経ても労働市場から離れず、就業を継続する女性が増えたことを示している。
また、1975年から2025年にかけて、労働力率が最も低下する年齢が徐々に高年齢側へ移っている点にも注目したい。ここからは、初婚年齢や第1子出産年齢の上昇、すなわち晩婚化・晩産化の進行も読み取ることができる。
さらに、コーホート(同時期に生まれた世代)の変化を見るため、1950年生まれと1980年生まれの女性について、各年齢時点の労働力率をそれぞれ赤丸と黒丸で示した。1950年生まれは第2世代、1980年生まれは第3世代に相当する。
1950年生まれの女性では、結婚・出産期に労働力率が低下し、子育てが一段落した30代後半以降に再び上昇するという、「M字カーブ」に対応した軌跡が見られる。再就職後の仕事はパートタイムなどが多かった。一方、1980年生まれでは、出産期に多少の停滞が見られるものの、その後も比較的高い労働力率を維持している。ここにも、第2世代から第3世代への家族と仕事の関係の変化が表れている。
図2は、女性の労働力率と合計特殊出生率(一人の女性が生涯に産む子どもの数を示す指標)の推移を、1950年から5年刻みで示したものである。ここでは、第2世代(1925~1950年頃生まれ)と、その後の第3世代の時代を中心に見ていきたい。
なお、第2世代は「多産少死」の時期に出生した世代であり、その人口は急速に増加した。とりわけ第2世代の後半には、戦後の出生数が集中し、のちに「団塊の世代」と呼ばれる巨大な人口集団が形成された。
- ピンク色の領域(1950~1975年頃):第2世代の先頭集団が青年期から成人期に入り、戦後の人口急増が収束していく時期である。若年人口の増加によって経済成長を支える労働力が豊富に存在する、いわゆる「人口ボーナス」の時期とも重なる。一方、出生率は急速に低下し、多産少死から少産少死へと人口動態が転換していく。この時期には、従来の家族のあり方にも大きな変化が始まっていた。
- 緑色の領域(1975~2000年頃):第2世代が社会の中核を担い、その家族モデルが社会的に定着していった時期である。落合が「家族の戦後体制」と呼ぶ家族モデル、すなわち夫が標準勤労者(サラリーマン)として働き、妻が専業主婦として家事・育児を担い、夫婦が二人程度の子どもを持つという家族像が、社会の標準モデルとして強い影響力を持っていた。
- 青色の領域(2000年頃~):第2世代が現役世代から徐々に退き、第3世代以降が社会の中心となっていく時期である。未婚化や少子化、単身世帯の増加などによって家族形態はさらに多様化し、「家」を前提とした従来の家族規範が弱まっていく。一方で、人口減少も現実の問題として明確になっていった。

(図2:女性の労働力率と合計特殊出生率の推移。1950年以降の変化を通して、人口動態の転換と女性の就業行動、さらに家族形態の変化との関係を読み取ることができる。)
なお落合は、こうした人口転換と家族変動は先進国に広く見られる現象であるものの、日本では近代化・経済発展と人口転換が比較的短期間に進行したため、その変化への社会的対応も短期間に迫られたと指摘する。とりわけ、第2世代の時期に形成された「家族の戦後体制」が、その後の人口動態や家族形態の変化にもかかわらず制度として長く維持されたことが、現在の家族政策や社会保障制度との間に大きなずれを生み出したのである。