bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

安藤優一郎著『幕末下級武士のリストラ戦記』を読む

東京の地名には、江戸時代の名残をとどめるものが少なくない。上野駅の南隣、東京駅寄りの次の駅は御徒町(おかちまち)である。その線路沿いの高架下には、年末のテレビニュースで必ずといってよいほど取り上げられるアメヤ横丁が広がる。第二次世界大戦後の闇市を起源とし、売り子たちの掛け声が響くこの一帯は、現在では昭和の趣を色濃く残す街として知られている。

さらにJR御徒町駅の東側には、ルビーストリートやサファイアストリートなど、宝石名を冠した通りが並ぶ。江戸時代、この周辺は武家地であったが、明治維新後に屋敷が払い下げられると、町屋・商家・工房などが進出した。上野の山下(麓の繁華街)という立地もあり、職人や小商人が多く集まる地域へと変貌していったのである。江戸期の刀装具や仏具などの技術を受け継ぎながら、簪(かんざし)や帯留めといった装飾品への転換が進み、戦前には宝飾品の製造・加工が盛んになった。さらに戦後の高度成長期には、宝飾品産業の中心地として確固たる地位を築くに至った。

御徒町という地名は、江戸時代にも現在と同じく用いられていた。「御徒(おかち)」とは、江戸幕府や諸藩に属する徒歩の武士を指し、将軍や主君の警護、移動時の護衛などを務めた下級武士である。幕府の御徒が多く住まわされていた組屋敷(武家屋敷街)が、まさにこの地に置かれていた。


(図1:江戸時代の御徒町。この時代、上野の不忍池の南東部には、御徒組に拝領された御徒町が存在した。今回の主人公である下級武士・山本政恒はこの地に住んでいた(地図では山本安之進となっている)。現在、この地域はアメ横商店街や宝飾品産業の街として賑わっている。)

幕末期、この地に敷地を与えられていた御徒の一人に山本政恒(まさひろ)がいる。彼は詳細な自分史を残しており、江戸末期から明治初期にかけての生活を、当時の下級武士の日常感覚とともに今に伝えてくれている。これを紹介したのが、安藤優一郎『幕末下級武士のリストラ戦記』である。

御徒の重要な任務の一つが、将軍の身辺警護である。そのため、彼らは時として「影武者」のような役割を担ったという。すなわち、将軍に危険が迫った際には、自らが身代わりとなって将軍を守る役割である。

たとえば、鷹狩などで将軍が城外へ移動する場合を考えてみたい。こうした外出時には、将軍を狙う刺客に警護の隙を突かれる危険が高まる。随行する御徒たちは、ふだん黒縮緬(ちりめん)の無紋羽織を着用して駕籠(かご)を囲んでいた。いざ危急の事態が生じると、将軍はこの黒縮緬の羽織をまとって駕籠を降り、御徒たちの列に紛れ込んで姿を隠す。

一方、御徒には毎年、将軍と同じ絹(羽二重)の黒羽織が支給されていた。将軍に随行する際、御徒はこの黒羽織を携帯することが義務付けられていたのである。危険が迫った瞬間、御徒の一人がこの絹の黒羽織を身にまとって空の駕籠に乗り込み、将軍の身代わりとなって標的となった。

御徒は単なる警備要員にとどまらず、いざという時には将軍の生命を守るため、自ら盾となることまで求められた存在であった。山本政恒の記録は、こうした過酷な任務の実態を、当時の武士の生々しい感覚とともに今に伝えている。

政恒は、幕府から約二百坪の敷地を拝領していた。下級武士の組屋敷(大縄地:幕府が組全体に一括して与えた宅地)としては、比較的広い規模である。本書に掲載された絵図によれば、門を入ると正面に主屋(六畳と八畳がそれぞれ二間)があり、左手には貸家が建てられていた。主屋の裏手には花壇が設けられ、南側には庭園が広がっていた。庭園には池や橋、石灯籠、庭石などが配され、池には魚が泳いでいたことも記されている。

敷地そのものは幕府からの拝領地(所有権は幕府)であるが、主屋・貸家・庭園などの建物や造作は、政恒やその先祖が自費で整えたものである。また、組屋敷の敷地内に貸家を設けて家賃収入を得ることも、当時としては珍しいことではなかった。政恒が誰に貸していたかは記録から明らかではないものの、この周辺では御坊主衆や学者、医師などが「地借(じかり)」として入居する例が多かったという。

上級武士である旗本は知行地を有していたが、大半の幕臣は俸禄を御蔵米で支給されていた。御徒も御蔵米取りであり、政恒の俸禄は七十俵(二十四石五斗)であった。年貢米などを財源とする御蔵米が俸禄に充てられ、支給の際には御蔵まで受け取りに赴く。しかし実際には、札差と呼ばれる商人に受け取りや換金を代行させるのが一般的であった。多くの幕臣は札差に借金を抱えていたため、受け取る段階でその分が差し引かれ、手元に残る米はさらに少なくなった。

俸禄として支給される蔵米(くらまい)の質は必ずしも良好ではなく、御家人などの下級武士には格の低い米が回された。また、俸禄とは別に、実質的な手当として「扶持米(ふちまい)」も支給された。一人扶持は1日あたり玄米五合であり、政恒の場合は五人扶持で年間九石に相当した。

扶持米は蔵米に比べれば質が良かったため、彼らは質の良い扶持米を売却して換金し、その代金で安価な蔵米を買い、日常の飯米に充てていた。しかし、そうして口にする蔵米は5年以上前の古米で、「ポチポチ米」と呼ばれる赤黄色に変色したものだったという。その味のほどは推して知るべしである。

食事内容は、朝食が味噌汁と香の物、昼食は野菜の醤油煮、夕食になってようやく魚に野菜が添えられる程度であった。それでも一日五合の米を食したとされ、総摂取カロリーは現代の私たちを上回っていた可能性が高い。質素なおかずに大量の米を組み合わせるという食生活からは、当時の下級武士に特有の栄養構造と生活様式の一端がうかがえる。

政恒が誕生したのは天保十二年(1841)である。彼の教育は六歳のとき、武家の公式書体である「御家流(おいえりゅう)」の手習いから始まった。翌年には漢学の素読も学ぶようになる。十一歳になると、上野・寛永寺の真覚院へ奉公に出され、寺院での勤めを通じて実務感覚と厳格な規律を身につけていった。

政恒は十六歳のとき、婿養子として山本家に入ると同時に「御徒御抱え席(一代限りの身分)」となり、二十二歳で世襲が認められる「御徒御普代席」へと進んだ。御徒組内部においても、御抱え席から御普代席への昇進は、勤仕年数や実務能力などが評価された結果だったと考えられる。

青年期を迎えるまで、政恒の人生は順風満帆とまではいかないものの、比較的平穏に推移していた。しかし、泰平を誇った江戸社会は、長年の蓄積によって構造的な歪みが表面化し、自然環境の変動とも絡み合いながら軋みを上げ始めていた。彼が生まれる前には天保の大飢饉があり、誕生後にも安政の大地震、黒船来航、将軍継嗣問題をめぐる幕府内部の権力抗争、井伊直弼が倒れた桜田門外の変、さらには約230年ぶりとなる将軍上洛など、彼の周囲では時代の激変を肌で感じさせる出来事が相次いだ。

二十六歳(1866年)になると、幕府の西洋式軍制改革に伴い、御徒組は「銃隊」へと編成替えされる。そもそも御徒は単独ではなく、「御徒組」という組織に属していた。幕府には20組、約600名の御徒組があり、旗本である「御徒頭」を頂点に、実務を担う「御徒組頭」、その下に「御徒」、さらに「足軽」や「武家奉公人」などが配置される階層構造をなしていた。御徒は、現代でいえば「係長級の現場指揮者」のような位置づけであったと考えれば分かりやすい。

将軍の身辺警護を担う職務から、御徒たちは強い誇りと特権意識を持っていたと考えられる。しかし銃隊への再編により、西洋式の軍装へ改められ、さらには農民までもが銃隊に編入されて同じ制服を身にまとうようになると、御徒としての特権的な自負は大きく揺らいだことであろう。

そうした激動のただ中、政恒は翌二十七歳で「銃隊取締役」に抜擢され、上洛して二条城に詰めた。伝統的な徒士(徒歩武士)から近代的な銃隊への転換が急速に進むなか、若くして取締役に任ぜられたことは、彼が組内で高く評価され、信頼を寄せられていたことを示している。

しかし、時代の流れはあまりにも急速であった。まもなく大政奉還、そして王政復古の大号令が相次ぐ。政恒は将軍・慶喜を追って江戸へ帰着するも、やがて上野戦争の悲惨な戦場の光景を間近で目撃することになる。

幕府瓦解後、徳川家は旧幕臣に対して「朝臣(新政府に仕える)」「御暇(帰農・商売)」「無禄移住(徳川家に従う)」という選択を迫った。徳川家達が駿遠70万石に減封されて静岡(駿府)へ移ると、政恒は慶喜警護のため「遊撃隊」の一員として静岡へ下る。この警護隊はのちに「大番組」と改称され、政恒も家族を呼び寄せて600坪の屋敷に居を構え、市中取締の任に当たった。

三十一歳のとき、廃藩置県によって徳川の世は完全に終焉を告げ、政恒は浜松県の役人(巡査等)に転身する。三十三歳で牢上番(牢屋敷の警備)となり、さらに「二等捕亡吏(犯人逮捕を担う役職)」へと昇進した。しかし三十四歳のとき、囚人護送中に逃亡者を出す失態を犯し、責任を問われて免職となってしまう。

しかし、これで終わりではなかった。三十五歳、幕府時代の同僚の縁を頼って熊谷県(現在の群馬県・埼玉県の一部)で再び奉職。暢発(ちょうはつ)学校の俗務掛(事務方)に任命される。その後、府県統合により群馬県の役人となり、非職となる五十歳まで粘り強く勤め上げた。

武士の世が去り、官吏の職も退いた後、政恒にはさらに『第二の人生』が始まった。五十一歳で東京・下谷に家屋を購入し、店舗に改装して娘たちに小間物屋と紙張物屋を開業させた。五十三歳からは帝国博物館(のちの帝室博物館)に入り、館内業務に従事して六十歳まで勤める。その後は日本美術院の書記として採用され、翌年まで勤務。さらに六十五歳からは料理茶屋「梅川楼」の帳場(会計・事務)に勤め、六十八歳で退職。そして最後は東京帝室博物館の筆耕(文字の清書・代筆業務)に従事し、なんと七十五歳まで現役で勤め上げたのである。大正五年、七十六歳でその波乱に満ちた生涯を閉じた。

政恒の生き残りの知恵として見逃せないのが、見事なマネーリテラシーである。彼は住居を移転する際などに、所有する不動産(主に家屋)を売却して利益を上げ、明治初期の厳しい経済的難局を切り抜けていった。

もちろん、幕兵時代に培った役人としての実務能力や手先の器用さも大きな武器となった。明治の世になっても主に官吏として実務をこなしながら、六男五女(うち一人は誕生後すぐに死亡)という子だくさんの家庭を支え、長寿を全うしたのである。

当時、職を失った旧幕臣たちが慣れない商売に手を出して次々と破産し、「武士の商法」と揶揄されるなか、政恒が五十歳を過ぎてから手掛けた商売は、それなりに繁盛した。ちなみに、このとき開業した紙張物屋は、かつて静岡藩で職を失い東京へ戻った際、内職として張り子作りをしていた経験が見事に活かされたものだろう。過去の挫折や苦しい時期の経験さえも、のちの人生の糧へと変えていったのである。

プライドに固執せず、時代の変化に合わせて自らのスキルを更新し続けた山本政恒。彼はまさに、激動の時代をたくましく、そしてしなやかに切り抜けた「リストラサバイバー」の先駆者と言えるだろう。