bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

小石川後楽園で花菖蒲を愛でる

梅雨の中休み(11日)を利用して、小石川後楽園で花菖蒲を鑑賞した。浮世絵では、小雨の中、番傘を指して、花菖蒲を愛でるのが定番だ。もともとの予定日は前日だったのだが、朝から小雨が降り、天気予報では本降りになる可能性もあるということで、雨の中の鬱陶しさを避けたいという感情がまさり、浮世絵の主役になることを断念して、ときどき晴れ間の覗くこの日に訪れた。

小石川後楽園のホームページには、6月9日まで「花菖蒲を楽しむ」というイベントを開催しますという掲示があったので、時機を逸したかもしれないという不安を抱いての訪問であったが、なんと最盛期で、見事に咲いた花菖蒲を愛でることができた。例年訪れていた伊豆の虹の郷の7000株に対して、ここはその10分の1の660株と少ないが、それでも一株一株が精一杯頑張ってくれ、大都会の真ん中で、清涼なオアシスを感じさせてくれた。



小石川後楽園は東京ドームの西隣にあるのだが、しばしばこの付近を訪れていたにもかかわらず、数週間前に小島毅さんの『朱子学陽明学』を読むまでは、その存在を知らなかった。

小石川後楽園水戸藩上屋敷(最初は中屋敷だった)の中にある庭園で、江戸時代の初めごろ、二代目の藩主徳川光圀によって築造された。

後楽園という名前は、中国北宋時代(藤原道長が活躍していたころ)の范仲淹(はんちゅうえん)が記した『岳陽楼記』のなかの「天下を以て己が任をなし、天下の憂いに先んじて憂え、天下の楽しみに後れて楽しむ」(先憂後楽)に因んでつけられた。

命名者は中国明王朝の遺臣である朱舜水(しゅしゅんすい)だ。彼は光圀に招聘され、後の水戸学に思想的影響を与えた儒学者だ。

水戸藩上屋敷は、現在の小石川後楽園、東京ドーム、中央大学後楽園キャンパスを含む広い敷地を有していた。

江戸時代と現在の地図を載せておこう。これらを比較することで、大きな道がそれほど変わらずに現在に残されていることが分かる。また水戸藩上屋敷に隣接して、小笠原佐渡守や松平丹後守(それぞれ1万石の大名)の上屋敷があるが、水戸藩がいかに大きな敷地を有していたかが分かる。


園内には、朱舜水の意見をいれて中国の風物が一部取り入れられているが、それらは円月橋と西湖の堤がある。円月橋は、石橋で、水面に映る影と合わせると満月のように見える。

西湖(せいこ)の堤は、中国杭州の西湖の堤に見立てたものだ。


その他にも中国に因んだものがいくつかある。小廬山は中国の名勝地「廬山」に因んで、林羅山によって名付けられた。

徳仁堂は、光圀が18歳の時に史記「伯夷列伝」を読んで感銘を受け、伯夷・叔斉(古代中国殷代末期の孤竹国の賢人兄弟)の木造を安置した堂だ。

中國の風物だけでなく、京都の風物を模したものもある。
京都東山東福寺の「通天橋」に習い、朱塗りの橋がかけられている。名前はもちろん通天橋だ。

橋の下を流れる川は、京都嵐山を流れる「大堰川」に因んだ大堰川だ。

同じく嵐山の「渡月橋」に因んだ橋。

そのそばには屏風のように林立する屏風岩

全体を上から見るとこのように箱庭のようだ。

水戸藩書院のあったところは内庭になっていて、水連がきれいに咲いていた。

庭園の中央は大泉水と呼ばれ、「琵琶湖」を見立てた池で、池の中央部には蓬莱島が造られている。

小石川後楽園は、四季折々の花に恵まれており、特に梅や桜と紅葉の季節は良さそうだ。折々に訪れて、それぞれの趣を味わうのが楽しそうだと思って、ここを後にした。