禅林街の案内板のタイトルは「史跡 津軽氏城跡 弘前城跡長勝寺構」で、弘前城の一部であることを示している。そして、そこには次のように記されていた。「戦国時代に堀越城を拠点として津軽統一を成し遂げた津軽藩祖為信が新城(弘前城)を計画し、2代信枚が慶長15年(1610)に築城に着手した。信枚は、新城建設着手とともに、領内の寺院神社に対して新しい城下町に移るように命じた。そしてこれらの寺院は、城下の要所に配置されたが、西南の押さえとなったのが長勝寺を中心とする寺院街である。元和元年(1615)に入口に空堀と土塁を築いて枡形*1を設けたもので、曹洞宗の寺院33寺が配された。このように江戸時代初頭に同一派によって造られた寺院街は、全国でも類例がなく、昭和27年に国史跡指定を受けている」。
それでは、禅林街を写真を中心に見ていこう。ここは二つの道に沿って作られているので、最初に黒門を入り口とする寺院群を訪れる。
黒門。
栄螺(さざえ)堂(俗称:六角堂)。天保10年(1839)時の豪商中田嘉兵衛が海難で死亡した者及び天明天保の大飢饉で数万の餓死死亡者の無縁の諸霊冥助のために建立した八角の菱形の建物で、内部は栄螺形の廻り階段になっている。
ここからは寺院が続く。残念ながら工事中だったり、奥にあったりで、長徳寺、高徳院、普門院の写真は撮ることができなかった。
泉光院。
京徳寺。
海蔵寺。
寶積院。
鳳松院。
照源寺。
寿昌院。
清安寺。
勝岳院。
嶺松院。
蘭庭院。
寶泉院。
福寿院。
陽光院。
隣松寺。
万蔵寺。
梅林寺。
長勝寺。
続いて、赤門をスタートとする寺院である。ここでも、月峰院、盛雲院、正光寺の写真はない。
藤先寺。
天津院。
常源寺。
恵林寺。
栄泉寺。
正伝寺。
川龍院。
正光寺。
安盛寺。
宗徳寺。
改めて写真を眺めると、よくもこれだけの寺院を一か所に集めたものだと改めて感心させられるとともに、戦国時代にあって、弘前城の軍事的な施設に容易に転換できるようにと、寺院群を集めた津軽為信の知恵にも感心させられた。
*1:城郭の虎口(こぐち)に設けられた施設で方形の空間を石垣で囲み2つの門をつけたもの。虎口の最も発達した形態で、防御、攻撃の両面の機能を有する