bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

津軽・弘前を旅するー武家屋敷街

弘前城の北には、江戸時代の趣を残した中・下級武士の屋敷街がある。そして、そこには武家屋敷が4軒ほど保存されている。この地域は、「弘前市仲町伝統的建造物群保存地区」と呼ばれ、昭和53年(1978)には、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。広さは10.6haである。ここは、城下街としての地割りが今でもよく残っている。道路沿いにはサワラの生垣が植えられ、黒色の門や板塀によって当時の景観を再現し、城下街の雰囲気を感じさせてくれる。

次の写真で、中央下あたりが弘前城の北門で、一つ上の横に通っている道沿いが保存地区である。

道路沿いは、サワラの生垣となっている。

住宅の門も江戸時代の面影をとどめている。

それでは保存地区を西から東へと、案内板の記述をもとに、中・下級武士の武家屋敷を見ていこう。最初は旧梅田家住宅である。この住宅は19世紀中ごろの嘉永年間に建てられ、在府町にあったものを弘前市が梅田家より譲り受け、昭和60年(1985)に移築復元した。

建物の規模は、幅約8.5m、奥行約11.5mである。間取りは、式台構えの玄関、正方形にかたどられた広間・座敷・常居(じょい)・台所、奥に寝間と土間が配置されている。外観は、冬の季節風対策で北と西は閉鎖的に、南と東は採光と風通しを考慮した開放的な造りとなっている。

この武家屋敷は、津軽地方の一般的な武士の住宅を知ることができ、残された墨書からは調度品を推察でき、建築年及び当時の居住者を推定できるものとして貴重である。当時の武士の質素な生活ぶりがわかる茅葺の合掌造りで、座敷にも天井板を設けていない。幕末でも天井を張らない形式があったことが分かる。後で説明する旧笹森家住宅や旧岩田家住宅と比較すると、積雪対応に合掌屋根に貫*1で補強している束(つか)を併用するなど、江戸時代後期において武家住宅が発達したことが分かる。

梅田家の外観


間取り(公開武家住宅見どころガイドのパンフレットより複写、以下同じ)。

南向きの玄関。

南東の座敷。

西の台所。

北西の土間。

北の物置には今は懐かしい火鉢がぽつんと置かれていた。

天井には板が張ってない。

次の旧伊東家住宅は、当初元長町に建てられ、後に藩医を務めた伊東家の住宅であったものを、弘前市が譲り受け、昭和55年(1980)に仲町伝統的建物群保存地区内に移築復元したものである。構造、部材などから当初の建築年代は19世紀初期と考えられ、建築後に幾度かの改造を経て、伊藤家の住宅になったと推定されている。建物はその頃(19世紀中頃)の改造姿で復元された。青森県重要文化財である。

建物の規模は、幅約12.6m、奥行約11.5mである。間取りは、式台構えの玄関、上がった先の広間、ほぼ正方形に配置されている座敷・次の間・常居・台所となっている。通常の武家屋敷では、式台玄関から広間へ、そして座敷と連なり、生活空間である常居とは動線を別にするが、旧伊東家住宅ではそうはなっていない。座敷は、簡素ながら剛質な造作をした床と違棚を組み合わせ、藩政時代の落ち着いた住宅空間を生み出している。

伊東家外観

間取り。

東向きの玄関。

北東にある座敷。左側から床間・違棚・押入れである。

北西にある次の間。

南西にある台所。奥は次の間である。

同じく台所。奥は土間である。

旧笹森住宅は、宝暦6年(1756)の「御家中家舗建屋図」に、佐々森(笹森)傳三郎の家として、平面図が記載されている。弘前市仲町伝統的建物群保存地区内北東部の小人町にあったものを、平成7年(2012)に所有者の小野氏から市が寄贈を受け、解体した部材を一時保存し、平成24年に現在地に移籍復元した。国の重要文化財である。

建築年代が江戸時代中期で、保存地区内で現存する最古の武家住宅として確認でき、座敷・常居など主要な部分の間取りが建設当初から変わらず、また部材も当初からのものが多く残っている。小規模な住宅だが、縁側から広間を通り、床間・縁側を設けた座敷に至る、接客を重んじる間取りなど、弘前城下における中・下級の武家住宅の建築様式を伝える遺構として極めて重要である。

笹森家の外観。左から土間・常居・広間である。

間取り。

南東の座敷。床間には刀が飾ってあった。

鎧もあった。

座敷より見た庭。

旧岩田家住宅は、今から220年ほど前の、寛政時代末から文化年間に建てられたものと思われる旧武家住宅である。発掘調査や柱など残された痕跡から判断すると立てて間もない時期に一度曳家され、柱などの主要構造部分や屋根葺材料などは、ほぼ建築当初のままで現在に至っている。青森県重要文化財である。

今日武家屋敷の多くが姿を消し、あるいは大幅な改造が加えられている中にあって、江戸時代後期の武士の生活を知る貴重な建築機構の一つである。この土地と建物は、旧武家屋敷街の保存を積極的に進めた所有者岩田夏城氏の遺志により、昭和56年8月に遺族から市に寄付されたものである。その後細部にわたって調査し、その結果に基づいて昭和57年(1982)度に半解体修理工事を行い、広く一般に公開されるようになった。

岩田家の外観

間取り。

南西の座敷に置かれていた道具類。

北西の裏座敷。刀が飾られている。

鎧も。

東の常居。

北東の台所。

北の土間。

天井の様子。天井板がある。

吹き抜けのところもある。

弘前城から保存地区に向かうとき、北門を出たあたりに、今でも商売を営んでいる石場住宅がある。

石場家は、代々清兵衛を名のり、弘前藩内のわら工品や荒物を扱っていた商家である。建築年代は明らかではないが、形式手法から見て、江戸時代中期とされる。この住宅は規模が大きく、釿(チョウナ)で角材に仕上げた大きな梁や指物を使用するなど豪壮な構えとなっている。座敷部分の造作も優秀で、津軽地方の数少ない商家の遺構として貴重なものである。昭和48年(1973)に国の重要文化財の指定を受け、昭和55年(1980)の半解体修理では腐朽した部材の取り換えなどを行った。

石場家の間取りが、弘前市立弘前図書館-おくゆかしき津軽の古典籍:資料編3(近世編2)に掲載されている(部屋の名前は追加した)。

西側の外観。

帳場。

台所。

台所から常居、さらに上座敷が見える。

常居(居間)。奥は中ノ間。

正面からの写真は機会を逃したので、参考までにウィキペディアのもので代用する。

複数の武家屋敷を一堂に観察したことで、興味を覚え、どのような論文が出ているのか調べてみた。その中に面白そうな論文があったので一つだけ紹介して、この記事を閉じることにしよう。大岡敏昭さんと青木正夫さんが、1993年に書かれた論文で、そのタイトルは「武士住宅の配置・平面原理 (都市独立住宅の配置・平面原理に関する計画史的研究(その1))」である。

皆さんは家を建てる時、各部屋の配置はどのようにするだろうか。座敷、居間などの居室は南に、台所、浴室、便所の水まわり空間は北に配置しないだろうか。この配置の仕方はどうも現代人の考え方のようで、江戸時代の武家の住宅は、門と向き合うように客間を配置したようである。論文では、高遠(長野県) 、弘前(青森県) 、盛岡(岩手県) 、館林(群馬県)など10藩を超える武家住宅を調ている。弘前については、旧笹森家のところで現れた「御家中家舗建屋図」を分析して、門が置かれた方向によって、おおよそ次のような構成になると結論づけている。

見てのとおり、客を迎えるための座敷は、門がある側を向いている。その理由は論文にもちろん書かれているが、これは読まないことにしてしばらくその理由を追ってみたいと思っている。

*1:和風建築で柱の列を横に通して、柱を安定させる用材