bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

横浜・山手の西洋館を訪ねる

中学校の同期の仲間たちで、歴史散策と称して都内近郊の景勝地を定期的に訪れている。今回は、横浜の山手・山下地区にバラを見に行こうということになったので、その下見に出かけた。

この地域を、いかにも横浜らしいハイカラな街と感じている人も多いだろう。歴史的な建造物があちらこちらに立っていて、西洋館もある。なぜ、このような街並みができたのだろう。

この地域は、かつては居留地と呼ばれていたことを知っている人は少なくなった。子供のころ、お年寄りの人から、居留地と言われてキョトンとしたことを覚えている。そのころは外国の人を多く見かけるので、そのように呼ばれるのだろう程度にしか認識していなかった。

横浜市のデジタルアーカイブに明治23年の地図がある。中央左側の赤色の台形のところが山下居留地で、さらにその左側の同じく赤色で、裾が広がるようになっているところが山手居留地である。

なぜ居留地と呼ばれるようになったかは、横浜の歴史をたどるとわかる。ペリーが来航する以前は、今では想像することすらできないが、何もない寒村だった。江戸時代以前は、今日関外と呼ばれている地域(地図で中央上の部分)は、大岡川が流れ込む内海であった。その海側の現在関内(地図で中央下)と呼ばれているところは、海側は砂州(西側から延びていた)、陸側は内海の一部であった。そして、この砂州の部分が横浜村であった。砂洲(浜)が内海に沿って横たわっているので、横浜と呼ばれたらしいが真偽のほどはわからない。

江戸時代の初め頃、関外の地域は吉田勘兵衛によって吉田新田として開発された。さらに、幕末近くになって、関内側の内海も埋め立てられ、横浜新田(現中華街:道が斜めになっている地域)、太田屋新田(現在の横浜スタジアムを含み右側の地域)となった。その後、ペリーが嘉永6年(1853)に来航したあと、江戸幕府安政5年(1858)に通商条約を締結し、次の年に横浜は開港された。関内への出入りは、関外との間に設けられた吉田橋だけとなり、ここに関所が設けられた。話が前後するが、関所の内側を関内、外側を関外と呼ぶようになった。関内は出入口が一つの出島(もともと、西の方は砂州の付け根で、つながっていたが、出島とするために切断された)となり、出入りする人々は厳しく監視された。関内は東西半分に分けられ、西側は外国人の商人が、東側は日本人の商人が店を開くところとなった。

開港後の横浜は、渡来する商人が年を追うごとに増え、また多数の駐屯軍兵士を抱えるようになり、関内は都市としての機能を持つようになった。発展を続ける中で、慶応2年(1866)年には大火災が発生し、日本人町は1/3を焼失し、外国人居留地にも被害は及んだ。

大火後に、幕府と外国公使団の間で、再建計画を含んだ「横浜居留地改造及び競馬場墓地等約書」が締結され、慶応3年、山手地区は外国人居留地編入された。

山手居留地には、外国人が住宅として利用した洋館や、外国人墓地、教会、ミッションスクールなどが相次いで建設され、ハイカラな街が出現したことは想像に難くない。しかし、その多くは関東大震災による被災や建物の老朽化で取り壊され、現在保存されている建物のほとんどは、大正末期から昭和初期にかけてのものである。

横浜市は、歴史的な景観を保全し、文化的環境を生かしたまちづくりを促進するため、昭和47年(1972)に山手町とその近隣地区を対象に「山手地区景観風致保全要綱」を策定し、令和2年(2020)には山手地区を都市景観協議地区に指定した。

山手地区にはいくつかの特徴がある。海から見ると切り立った崖の上にあることから、外国人はこの地域を"The Bluff"(断崖、絶壁の意)と呼んだ。海抜10~40m程度のこの丘陵からは、周辺の市街地や港を眺望できる。街は丘陵の2本の尾根道を骨格として、これに交差する多くの坂道で構成されている。この構造は明治初期にできあがった。地区内には、日本初の洋式公園である山手公園を始めとして、港の見える丘公園、元町公園、イタリア山公園、アメリカ山公園などの公園が整備されている。

それでは、山手地区の西洋館を見ていこう。今回のコースは、みなとみらい線の終点駅「元町・中華街」で下車し、アメリカ山公園、横浜山手西洋館、イギリス館、港の見える丘公園フランス山と巡る。

元町・中華街駅より港の見える丘公園を目指す。深い地中のプラットフォームから小高い丘へと、何本ものエスカレータやあるいはエレベータを使って、這いずり出る。有難いことに階段を使わなくてもすむので、これからの散策のためにエネルギーを保持しておくことができる。丘の頂に着くとそこはもうアメリカ公園である。アメリカという名前がついているのは、明治初頭の米国公使館ゆかりの地であり、戦後は米軍の施設用地として利用されていたことによる。

アメリカ山公園のバラはまだ咲き初めだが、これから始まる散策が楽しいものであることを期待させてくれるには十分であった。

港の見える丘公園を目指して歩き始めると、横浜地方気象台が見えてくる。100年前の関東大震災では横浜は大打撃を受けたが、ここも焼失し、地震計による地震観測は中断された。

しばらく行くと右手に横浜外国人墓地が現れる。嘉永7年(1854)、ペリーの2度目の来航のとき、横浜港寄港中のフリゲートミシシッピ」上で、アメリカ海軍水兵ロバート・ウィリアムズがマストから落下して亡くなり、ペリーは埋葬地を幕府に要求した。海の見えるところというペリーの意向を受け入れ、ここに墓が設置された。その後も外国人死者が葬られ、文久元年(1861)に外国人専用の墓地となった。

外国人墓地の入口のところで、横浜山手西洋館へ向かう道と、港の見える丘公園に向かう道とに別れるので、向かって右の方の横浜山手西洋館の方へと進んだ。

山手の丘は、日本のビール発祥の地と言われている。ビールが美味しそうな瀟酒な西洋館が見える。山手十番館である。この建物は、明治百年祭を記念して昭和42年に開館し、現在は1階はカフェ、2階はレストランになっている。向かいの外国人墓地には、日本で初めてビールを醸造したウィリアム・コープランドが眠っている。

山手資料館は、明治42年(1909)に建造され、横浜市内に唯一残る和洋折衷の木造西洋館である。館内には、チャールズ・ワーグマンのポンチ絵や、ジェラールの西洋瓦等、文明開化当時をしのばせる展示品や、関東大震災までの横浜や山手に関する資料が展示されている。

山手聖公教会は、プロテスタント系の教会で、1863年に初代聖堂が建てられたが、関東大震災で焼失した。1931年に現在の礼拝堂が建てられた。設計は J・H・モーガン*1で、外形は大谷石を使ったノルマン様式である。1945年に横浜大空襲で内部が燃えたが、再建、修復されるなどして現在に至っている。

山手234番館は、昭和2年(1927)頃に外国人向けの共同住宅として建てられた。



「えの木てい」は、昭和2年(1927)に建築され、暖炉、木製の上げ下げ窓、150年以上昔のアンティーク家具などでかつての面影を残している。

エリスマン邸はスイス生まれのフリッツ・エリスマンの邸宅で、大正14~15年(1925~26)にかけて建築された。設計は、近代建築の父といわれるチェコ人の建築家アントニン・レーモンド*2である。なお、エリスマンは生糸貿易商社シーベルヘグナー商会の横浜支配人格として活躍した。


横浜雙葉学園は1900年に開校したカトリック系の女子中学・高等学校である。近くには米国改革派教会のフェリス女学院もある。

ベーリック・ホールはイギリス人貿易商 B・R・ベリック氏の邸宅で、J・H・モーガンの設計により1930年に建築された。スパニッシュスタイルを基調とし、外観は玄関の3連アーチや、クワットレフォイルと呼ばれる小窓、瓦屋根をもつ煙突など多彩な装飾をつけている。また内部も白と黒のタイル張りの床、玄関や階段のアイアンワーク、また子息の部屋の壁はフレスコ画の技法を用いて復元されている。現存する戦前の山手外国人住宅の中では最大規模の建物である。









ここまでが横浜山手西洋館である。それでは少し戻って、港の見える丘公園に向かうこととする。

岩崎ミュージアムは、横浜開港期の西洋劇場ゲーテ座の面影を感じさせる博物館である。ゲーテ座は明治18年(1885)に建てられたが、100年前の関東大震災によって崩壊した。1980年に、岩崎学園横浜洋裁学院の創立50周年記念事業の一貫として建設された。服飾関係の資料、収集品を中心に展示している。

横浜市イギリス館は、昭和12年(1937)に、上海の大英工部総署の設計によって英国総領事公邸として建築された。鉄筋コンクリート2階建て、主屋の1階の南側には、西からサンポーチ、客間、食堂が並び、広々としたテラスは芝生の庭につながっている。2階には寝室や化粧室が配置され、広い窓からは庭や港の眺望を楽しめる。地下にはワインセラーもあり、東側の付属屋は使用人の住居として使用されていた。







横浜市イギリス館の前にある「イングリッシュローズの庭」は、約150種、約800株*3のバラを中心に、四季の草花を楽しめる庭園である。バラは咲き始めたころで、一緒に植えられていた春の草花が目を楽しませてくれた。あと半月も経つと、攻守を交代してバラが鮮やかに咲き誇ることだろう。5月中旬の散策が楽しみである。



山手111番館は、J・H・モーガンの設計により、1926年にアメリカ人の J・E・ラフィン氏の住宅として建築された。スパニッシュスタイルの赤瓦と白い壁を特徴にしている。


港の見える丘公園からは、横浜港を一望することができる。


フランス山には、明治29年(1896)年にフランス領事館と領事官邸が建設され、井戸水を汲み上げるための風車が設置された。 領事館は煉瓦造2階建て、建坪およそ36m×18mの規模だった。関東大震災で官邸とともに倒壊した。跡地からはジェラール瓦、煉瓦などのほか、同時に建設された用水用水車の基礎が掘り出された。

これで今回の散策は終了だが、訪れていない西洋館として、イタリア山の外交官の家*4とブラフ18番館*5がある。また、山手公園にある旧山手68番館*6も訪れていない。

山手地区はきれいなところだと聞いていたが、景色を楽しむために訪れたことはなかった。今までにおそらくは1回しか訪れていない。それもかなり前のことである。米国に留学することになって、健康診断書を米国に持参するようにと言われた。しかも、米国の医師免許を持つ医師が発行したものとされていた。記憶は定かではないが、おそらく、山手西洋館の近くのBluff Clinicを訪ねたことと思う。米国式の健康診断に心底ドッキリし、さらに、米国での提出のために胸部のレントゲン写真を撮影してもらった(この写真は、入国審査で見せる必要があり、1対1の大きさでかなり嵩張り、持ち歩きに往生した)。

今回の散策は、ほとんど初めての山手地区の西洋館巡りで、どの建物も輝いて見え、さらに、咲き始めのバラと満開の春の草花が彩を添えてくれた。お昼は中華街で安くておいしい料理を頂き、1日を楽しむことができた。中旬には仲間たちともう一度訪れるので、その時は大いにバラを楽しもうと思っている。

*1:J・H・モーガン(1873~1937)は、アメリカ出身の建築家。大正9年(1920)に来日し、丸ノ内ビルディングや郵船ビルディングなど、日本の建設業近代化の礎となる大規模ビルディングの建設に設計技師長として参画した。米国の先進的な施工技術を日本へ伝えた。

*2:アントニン・レーモンド(1888~1976)は、チェコ出身の建築家である。フランク・ロイド・ライトのもとで学び、帝国ホテル建設の際に来日した。その後日本に留まり、モダニズム建築の作品を多く残し、日本人建築家に大きな影響を与えた。

*3:紛らわしいのだが、相鉄線の平沼橋の近くには有料の横浜イングリッシュガーデンがある。ここには、2,200種類のバラが栽培されている。

*4:ニューヨーク総領事やトルコ特命全権大使などを務めた明治政府の外交官内田定槌氏の邸宅として、明治43年(1910)に東京渋谷の南平台に建てられた。 横浜市は、平成9年(1997)に内田定槌氏の孫にあたる宮入氏からこの館の寄贈を受け、山手イタリア山庭園に移築復原した。

*5:ブラフ18番館は関東大震災後に山手町45番地に建てられたオーストラリアの貿易商バウデン氏の住宅であった。戦後は天主公教横浜地区の所有となり、カトリック山手教会の司祭館として平成3年(1991)まで使用されていた。

*6:外国人向け賃貸住宅として山手68番地の奧まった場所に昭和9年(1934)に建てられ、現在は山手公園管理事務所として利用されている。