bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

横浜開港とともにやってきたハード家の子孫とゆかりの地を訪ねる

カリフォルニアの友人から、知人が日本を訪れるので、案内して欲しいと依頼があった。先日、その彼女からメールがきて、日本の歴史に特別に興味を持っているという。横浜開港直後に、最初に日本を訪れた商人とゆかりがあるとも書かれていた。少し調べてみると、商人の名前はオーガスティン・ハードで、中国で商売をしていたと分かった。1859年に彼の代理人が来日し、ハード商会を開設した。子供のいない彼は、甥の4人を子供のように思い、商売を手伝わさせた。今回訪問される彼女の夫は、甥の子孫とのことである。

早速インターネットでさらに詳しく調べてみると、横浜開港資料館にハード商会のコレクションがあることが分かった。資料館のホームページには、「ハード商会は、19世紀半ばに広東で設立されたアメリカの有力商社で、中国から欧米向けに茶と絹を主力製品として交易し成長を遂げた。日本が開国されると直ちに日本へ進出し、長崎・横浜・神戸に支店・代理店を構えた」となっている。

また平成9年の横浜開港資料館館報58号には、「開港後、横浜に最初に進出した外国商社は、「英一番館」という名前から受ける印象や、当時東アジアで最大の商社であったところから、ジャーディン・マセソン商会だという俗説が存在するが、事実はそうではない。最初に商船を派遣したのはハード商会というアメリカの商社で、船の名をウォンダラー号という。その代理人をドアといい、アメリカの神奈川駐在の初代領事だった。ウォンダラー号は、総領事から公使に昇格したハリスが乗ってきた軍艦ミシシッピー号と一緒に、開港前日の安政6年6月1日(これは旧暦の日付、新暦では1859年6月30日)に入港した。入港手続きは条約発効期日の翌2日に行なっている。ハード商会とは、アメリカのマサチューセッツ州出身の商人、オーガスティン・ハードが1840年に広東に設立した貿易商社で、1856年に香港に本店を移した。当時東アジアで最大のアメリカ系商社をラッセル商会といい、オーガスティン・ハードはその出身である。また「アメ一」として知られる横浜のウォルシュ・ホール商会の設立者トーマス・ウォルシュもそうである。ハード商会は、一時ラッセル商会と並び称せられるほどの有力商社になるが、1870年以降衰退し、明治9年(1876)には横浜から撤退した」と説明されている。

二代目の代理人であるフィールドが着任後、1860年に海岸通り6番(1064坪)と水町通り27番(554坪)に新社屋を建設し、乗り出したことも分かっている。

さらに調べていて分かったことだが、1860年オーガスティン・ハードの甥の家に、女の子エミーが誕生する。この年は、リンカーン大統領が大統領になる前の年、また、南北戦争が始まる前の年である。今回来日された方はエミーの孫と結婚された。そのお嬢さん、すなわちエミーの曽孫になる方が、祖先に興味を持たれ、今回の散策に加わられた。お嬢さんは日本のある付属中高校で英語の先生をしている。また曾祖母と同じ名前でもある。曽祖母の若いころの写真をホームページから得ていたので、これを見せると、お嬢さんにそっくりなのでみんなでビックリした。さらに彼女には食物アレルギーがあるが、これもハード家の血を引くものの宿命だそうだ。

この日のコースは下図の通りである。横浜中華街で食事をとり、ハード家がオフィスを設けたとされる場所を訪ね、横浜開港資料館の資料室でコレクションを閲覧し、時間があれば神奈川県立歴史博物館を訪れる予定であった。

運の悪いことに天気に恵まれず、小雨の中、時々土砂降りに会いながらの散策となった。中華街は、雨にもかかわらず、若い人たちでごった返していた。食事は、アレルギーの対応をしてくれるという王府井酒家でした。写真を撮らなかったので、お店のホームページから。

この店は小籠包がお勧めらしいのだが、小麦粉が含まれているので断念した。醤油も小麦粉を含んでいるということなので、全て塩味に変えてもらい、単品料理を4種類オーダーし、皆でシェアした。味のよい店だったので、次回は小籠包に挑戦しようと思っている。

ハード商会がオフィスを開設した場所は、ホテルニューグランド神奈川県立県民ホールの間の場所である。ニューヨーク公共図書館には、1861年に橋本貞秀が描いた『再改横浜風景』が所蔵されている。これからは開港当時の横浜の建物は、一棟を除いて、全て日本家屋であることが分かる。ハード商会の建物も日本家屋であったと推測される。

慶応2年(1866)には、港崎遊郭の西にあった豚肉料理屋五郎宅から出火、遊郭が燃え上がり、遊女400人以上が焼死、外国人居留地日本人町も焼き尽くされた。その後、遊郭高島町に移り、遊郭跡地は1876年には避難所も兼ねた洋式公園(現在の横浜公園)となり、横浜居留地の日本家屋は西洋風へと改められたいった。

ちなみにホテルニューグランドは1927年に開業した。設計は渡辺仁。下の写真はウィキペディアから。ハード商会が建てられた場所は、この右側になる。

この日は、ワールドトライアスロンシリーズが行われており、雨の中を選手たちは一生懸命に走っていた。

寄り道をしたわけではないのだが、道々にあったいろいろなものを見たためか、横浜市開港資料館に着いたのは3時近く。あらかじめ資料館の方に連絡をしておいたので、参考になりそうな文献やコレクションのリストを用意してくれていた。ハード家ゆかりの二人は、資料を閲覧したりそのコピーをとったりして、短い時間の中で、たくさんの情報を得たようであった。こちらはこの春に撮影した横浜市開港資料館である。

今回の散策はここで切上げた。あいにくの雨で手がふさがってしまい、写真を撮れる状況になかった。ハード家ゆかりの二人の写真が残らず、残念なことをしたが、ルーツ探しをした二人には満足な一日となったようである。我々も思いがけない出会いによって、日本と米国の懸け橋となった家族と親しく話をすることができ、素晴らしい一日であった。

下の写真は、英語版のウィキペディアからで、1860年当時のオーガスティン・ハードの香港の邸宅。日本での写真も残されていると良かったのだが、活動している期間が短すぎたようだ。

追伸:横浜開港の頃の状況を簡単にまとめておこう。英国は三角貿易でインドから中国へは阿片、中国から欧米へは絹・茶、英国からインドへは綿製品を輸出していた。米国の商社も同じような状況にあったのだろう。アヘン戦争(1840-42)で中国との貿易が縮小しそうになる中で、次の新天地の日本を目指し、日米友好通商条約(署名1858年、発効1859年)を締結した後に、欧米の商社が横浜などに事務所を開設し、絹・茶、陶器などを扱った。ハード家もその一翼を担った。ちなみに曽祖母のエミーはパリで誕生し、波乱万丈の人生を送られたようで、お孫さんが800ページにも及ぶ本で紹介している。