bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

松本市内の博物館・歴史的建造物を見学する

4日目は松本城の見学だけではない。その周辺にある博物館や歴史的建造物も訪れた。それは下図のとおりである。

松本駅から松本城へ向かうときに伊勢町通りを利用した。道に沿って人工的な小川があるのを見つけ、巧みに水を流している仕組みに感心した。道の角では水が地中に誘導され、道の反対側で再び地上に現れる。歩道にさわやかな水の流れを造り、周りに緑を呼び込んでいる。最初は雪を除去するためと思ったが、松本は雪国ではないので、豊かな歩道を作り出すための策だと理解した。

中町通り。門前町・長野へと向かう善光寺街道は重要な交通路であった。町人地の中心であった中町通りには、江戸から大正にかけて蔵造りの家が道に沿って並んでいた。今もその景観の維持に努めている。

縄手通り。蔵の並びを楽しんだ後、女鳥羽川を渡って縄手通りに出た。昔は露天のような店が並んでいたが、平成13年(2001)に現在のような長屋風の店舗に生まれ変わった。


女鳥羽川には清流にしか生息しないカジカガエルが生存していたが、現在はその姿を見ることはできない。しかし、その復活と街おこしをかけて、縄手通りを「カエルの街」と呼び、通りの中程に「カエル大明神」を奉っている。

四柱神社天之御中主神高皇産霊神神皇産霊神天照大神を祭神とし、4柱の神を祀っていることに名称は由来する。

Harmonie Bien。昭和12年(1937)に、日本勧業銀行松本支店として建設された歴史的建造物である。

この後、松本市立博物館を見学した。令和5年(2023)年10月7日に移転開館した。1年も経っていない新しい博物館である。それでは館内を見ていこう。

おおきな城下町のジオラマにまず気が付いた。松本城の内堀、外堀に囲まれた様子が良く分かる。なお、分かりにくいが手前が一番外側にある総堀である。天守の奥が本丸、さらにその奥の内堀と外堀に挟まれたところが二の丸である。外堀の右側は三の丸で大名町と呼ばれ、武士地であった。

江戸時代は、善光寺街道が南北に走っていた。この街道に沿って城下町が形成され、南北に長い街並みとなった。総堀の南側は町人地であった(縄手通りのところで女鳥羽川を説明したがその場所、上図では三の丸のさらに右で写真の外、下図では手前)。城下町のジオラマを南側から城を望む。街道沿いに旅籠や店が並んでいる。

北側から見る。こちらは武家地であった。そして、城下町の外れ、下の写真の左隅に寺院が置かれた。

戦国時代も終わり、江戸時代になると甲冑は無用の長物となったが、武士にとっては貴重な装備で大切に保管されていた。たくさんの甲冑が展示されていた。そのすべてを見ていこう。
松崎金左衛門所用の甲冑、

戸田家専属医師・堀内家の甲冑、

軍使・青沼家の甲冑、

弓の名手・木村家の甲冑、

作事奉行から諸士に昇進した宮川家の甲冑、

戦場で使われた石川家の甲冑。

幕末になると藩での教育が盛んとなり、松本藩も例外ではない。藩校「崇教館」で用いられた教科書、

和田峠の戦いで家臣が着ていた生々しい胴着。元治元年(1864)に、水戸藩尊攘激派の天狗党が乱を起こして京都に向かったとき、松本藩は幕府から天狗党の討伐を命じられる。松本藩は中山道和田峠天狗党を迎え討つが負けてしまう。*1

福島安定所用の正装。明治維新のあと、松本藩の家臣とその子供たちはそれぞれの道を歩むことになる。徒士・福島家の長男として生まれた福島安正もその一人である。彼は江戸で英語を学んだ後、英語教員・司法省翻訳課などを経て陸軍省に入り、明治25年(1892)にはシベリア単騎横断を成し遂げ、大正3年(1914)には陸軍大臣となった。

歴史に関するコーナーは終了してここからは民俗である。

初市の宝船と七福神人形。宝船は、初市の神輿行列の際に本町5丁目の練り物として江戸時代後期に造営された。幕末の火災で焼失したが、明治時代中期に再建され、その大きさは全長5m、高さ4m、幅2mである。宝船と七福神人形は、平成5年(1993)に松本市立博物館に寄贈された。

石造道祖神。道端に佇む道祖神は松本を象徴する風景として知られ、市内だけでも700を超える。もともとは農村部の境に祀られ、外から悪いものが入らないようにする神であった。その後、豊作や商売繁盛、縁結びなど多様な願いが込められるようになった。形も多様化したようである。

蒸気ポンプ消防車。大正2年(1913)に1341軒被災の大火災が松本で発生した。その時の反省から蒸気ポンプ消防車が配備された。今までの手押しポンプとは比較にならないほどの放水力で人々を驚かせた。

博物館を後にして、松本城を超え北の方へと進む。総堀があったであろう所を超えると神社に出会った。

松本神社。前進は暘谷(ようこく)大明神で、後に今宮八幡宮、片宮八幡宮、共武大神社、淑慎大神社と合祀され、松本神社となった。松本城主ゆかりの神社でもある。

明治9年に完成した国宝の旧開智学校。地元の大工棟梁立石清重が設計、文明開化の時代を象徴する洋風とも和風ともいえない不思議な建築で、「擬洋風建築」と呼ばれた。訪れた時は、耐震工事のため一部しか見ることができなかった。

当時の授業風景を復元(旧司祭館で展示)、

伝統を受け継ぐ現在の開智小学校、

旧司祭館。ここは明治22年(1889)にフランス人神父・クレマンによって建築された西洋館である。外壁の下見板張りは遠くアメリカ開拓時代の船大工の技法を残し、アーリー・アメリカン様式の特徴を備えた貴重なものである。

部屋には暖炉もあった。

セスラン神父の和仏大辞典。セスラン神父が明治34年(1901)から27年の歳月を費やし、日本で初の本格的な日仏辞典『和仏大辞典』を編さんした。彼は松本教区の主任司祭として明治34年(1901)~大正3年(1914)に松本に滞在し、第一次世界大戦で動員されたあと、再び大正6年(1917)~昭和3年(1928)に松本に滞在した。

高橋家住宅。松本藩が藩士の住まいとして所有していた官舎で、建築年代は17世紀前半から享保11年(1726)までの間と推定されている。昭和44年(1969)に松本市重要文化財に指定され、古文書をもとに幕末から明治時代初めのころの姿に復元修理された。残念なことにこの日は休館で中を見ることができなかった。

この日は月曜日だった。日本中の多くの博物館は月曜日を休館にしている。反対に私の旅行は、ボランティア活動の関係から月曜日を含むことが多い。日程を組む時、月曜日の見学場所は詳しく調べておかないとしっぺ返しを食らう。今回の旅行では、松本市立博物館は月曜日が定休と勝手に思い込んでいて、火曜日の見学を予定していた。

松本城を見学するときに、博物館前で開館中という掲示があった。変だなと思って確認すると、火曜日休館となっている。急遽、予定を変更したが、もし気づかなかったらがっかりした事だろう。特に、城下町のジオラマは見応えがあったので後悔したはずである。幸運も伴い、歴史的建造物に富む美しい松本の街を楽しむことができよい一日であった。

*1:旺文社日本史事典によると天狗党の乱は次のように説明されている。徳川斉昭 (なりあき) の時代から水戸藩内の党争が激化し、尊攘派天狗党と称して保守派の諸生党と対立していた。文久3年(1863)の政変で尊王攘夷運動が挫折すると、翌年、天狗党首領藤田小四郎らは筑波山に挙兵、一時勢力を得たが、幕府の追討軍に敗北した。さらに武田耕雲斎を主将に西上したが加賀藩に降伏、幕命により藤田・武田らが処刑された。