bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

松本の博物館・美術館を訪ねる

旅行5日目で最終日、市街の東と西にある博物館・美術館を見学の予定である。その間は5km近く離れていて、往復すると10kmになる。この距離だと公共の交通機関をうまく利用したくなる。嬉しいことに、松本市は観光客のために松本周遊バス「タウンスニーカー」を東西南北それぞれに用意している。今回は東と西のコースを利用した。

松本市の東にあがたの森公園がある。そして、そこに旧制松本高校の校舎がある。また、近くに松本市美術館もある。

西には、日本浮世絵博物館と松本市歴史の里がある。

この日、最初に訪れたのは旧制高校の一つである松本高校である。戦後80年も経っているので、旧制高校のことを知っている人は少なくなった。しかし、私が大学に入学した昭和40年(1965)には、旧制高校の名残はまだあった。旧制高校が廃止されたのは昭和25年(1950)である。当時はまだ廃止後15年しかたっていなかったので、旧制高校で教員をされた方が、新制大学の教養課程で講義を担当されていた。そして、何人かの先生から旧制高校の話を伺ったことを覚えている。旧制高校の学生は一言でいうとバンカラである。着古し擦り切れた学生服・マント・学帽・高下駄、腰に提げた手拭い、長髪など外見は粗野・野蛮に見えるが、内面は学究活動に全力を注ぐ若者たちで、喧々諤々の議論をしていた。

旧制高校は、第一高等学校のように最初に設置された8高校は、番号が校名でナンバースクールとも言われた。ナンバースクールの後に地名で呼ばれる高校が設置されるが、松本高校はそれらの中で最初に設立された一校である。それでは、建物を見ていこう。

重要文化財に指定されている本館、

同じく重要文化財に指定されている講堂、

正門から二つの建物を望む。両建物とも洋館で、左が講堂、右が本館である。

中庭、

本館に入る。復元された校長室、

教室の入口に付けられたクラス名、理科乙類は医学部・薬学部・農学部進学コースで、第一外国語がドイツ語であった。

教室の中。

松本高校だけでなく、全国の旧制高校の資料を集めた旧制高等学校記念館もあった。

学生寮の部屋。予想よりも小ぎれいなのでびっくりした。

学ぶための費用が紹介されていた。通学生比較で、当時も現在も卒業までにかかる費用が初任給の10倍ぐらいというのは偶然の一致なのだろうが面白い。

隣のあがたの森公園

次の見学場所に行く途中に松本市美術館があり、松本生まれの草間彌生の展示があった。そして、外には大きな作品が置かれていた。一群の花が「幻の華」、壁面の丸が「松本から未来へ」である。

公共交通を利用して、やっと日本浮世絵美術館についた。松本出身の紙の諸式問屋・酒井家5代が200年に渡って収集した浮世絵を展示している。その数は4万点に及び、初期の浮世絵から現在の創作版画まで網羅している。収集した経緯がホームページに紹介されていたので抜粋する。このコレクションは、酒井家6代目・酒井平助義明(1776~1842)の浮世絵収集に始まる。7代目・義好(1810~69)は寛政の頃、信州松本で有数の豪商となり、紙などを扱う問屋業の傍ら、書画骨董を愛した文化人であった。その姿は歌川広重の「百人一首鐘声抄」に描かれている。8代目・藤兵衛(1844~1911)は、明治3年、東京神田淡路町に、酒井好古堂を創設し、浮世絵の鑑定・復刻事業を行った。9代目・庄吉(1878~1942)は、雑誌「浮世絵」を刊行し、浮世絵の学問的な研究を行い、多くの研究者・鑑定家を育成した。10代目・藤吉(1915~93)は、日本国内ばかりでなく海外でも54回に及ぶ浮世絵展覧会を開催し、国際文化交流に貢献した。そして、昭和57年(1982)に博物館を設立した。

訪れたときは、「絵で読む『源氏物語』ー江戸と明治のひろがりー」が開催されていた。このとき鑑賞したのは緒形月耕(安政6年(1859)~大正9年(1920))の『源氏五十四帖』であった。その中のいくつかを載せておこう。

空蝉*1。空蝉と一夜を遂げたと思った源氏が、そうでないことを知った。目の前にある空蝉の薄衣を恨めしげに眺めている場面だろう。作品中の和歌は「うつせみの 身をかへてける 木のもとに なほ人がらの なつかしきかな」である*2

明石*3。源氏が都に戻る場面で、残してきた明石の御方を振り返り、名残を惜しんでいるところだろう。作品中の和歌は「秋の夜の つきげのこまよ わがこふる 雲ゐをかけれ 時のまも見ん」である*4

柏木*5。親友の柏木を失った夕霧が、未亡人となった落ち葉の宮を訪問している場面だろうか。作品中の和歌は「いまはとて もえんけふりも むすほほれ たえぬおもひの なをやのこらん」である*6

最後に隣の松本市歴史の里を訪れる。

朝ドラ「虎に翼」で法曹界の話題が頻繁に紹介されるので、旧松本区裁判所庁舎にも親しみを感じる。この庁舎は明治41年(1908)、松本城二の丸御殿跡に建てられた。明治後期の区裁判所庁舎の典型的な特徴を示し、全国で数多く建てられた和風の裁判所建築のうち、最も完成度が高く、歴史的価値があるものとして、国の重要文化財に指定されている。


庁舎の内部も見学した。法廷の復元、

捕物道具が展示してあった。

旧松本少年刑務所。昭和28年(1953)に建てられ、平成2年(1990)まで使用された独居房棟の一部である。創建当初の板張りの部屋と昭和50年代に改善された畳式の部屋を復元している。

工女宿宝来屋。江戸時代後期、松本と飛騨高山を結ぶ野麦街道沿いの集落・旧奈川村川浦に旅人宿として建てられた。明治から大正にかけては、飛騨地方から諏訪・岡谷の製糸工場へ向かう工女たちが大勢宿泊した。山里の民家としての暮らしもうかがえる。

野麦峠には工女の碑が建てられた。映画『あゝ野麦峠』では、大竹しのぶさんが主役を演じていた。主人公のみねは、過酷な職場環境の中で働かされて結核になり、兄の背中に背負われて故郷へと帰っていく場面を覚えている人は多いだろう。

旧昭和興業製糸場。平成7年(1995)まで操業していた蚕の繭から生糸を取り出す製糸工業である。座繰製糸で使用された設備・機械類も含めて移築された。

糸繰り機。

木下尚江生家。江戸時代後期に建てられた下級武士の住宅である。社会運動家木下尚江は、明治2年(1869)この家に生まれ、新聞記者・弁護士・小説家として活動しながら、普通選挙の実現など社会改革を目指して活躍した。

今回の旅行はこれで完了した。松本から東京への帰りは久しぶりの在来線特急である。かつて「あずさ2号」という歌が流行った。しかし、現在の時刻表を調べると、あずさ2号という列車は存在しない。以前とは異なり、偶数番号の列車は松本発に代わっていてあずさ4号から始まっている。2号はどこへ行ってしまったのだろう。

列車も変わっていた。少し前までは振り子式で、曲線の多い中央東線でも最高速度130km/hで走行できると自慢していた。しかし現在は新しい方式の車体傾斜装置である。古い方式のE351系では5度傾いたが、新しい方式のE353系では1.5度の傾きである。傾く角度が随分と小さくなっている。また、古いほうはカーブに入ってから傾いたが、新しいほうは手前から準備を始めるので、カーブでの動きがスムーズである。このような改良もあって、揺れの少ない列車となった(最高速度は変わっていない)。そのおかげで帰りの列車の中では長い時間読書を楽しむことができた。

来年も同級会をしたいと言っていたので、同じように前後に旅行を組み込もうと思う。時間をかけて最も良い場所を選べればと今から狙っている。

*1:ウィキペディアより光源氏17歳夏の話。空蝉を忘れられない源氏は、彼女のつれないあしらいにも却って思いが募り、再び紀伊守邸へ忍んで行った。そこで継娘(軒端荻)と碁を打ち合う空蝉の姿を覗き見し、決して美女ではないもののたしなみ深い空蝉をやはり魅力的だと改めて心惹かれる。源氏の訪れを察した空蝉は、薄衣一枚を脱ぎ捨てて逃げ去り、心ならずも後に残された軒端荻と契った源氏はその薄衣を代わりに持ち帰った。源氏は女の抜け殻のような衣にことよせて空蝉へ歌を送り、空蝉も源氏の愛を受けられない己の境遇のつたなさを密かに嘆いた。

*2:現代語訳:蝉が脱皮した後に残された殻に、憎くはあるがやはりあなたを懐かしく思う

*3:ウィキペディアより:連日のように続く、豪風雨。源氏一行は眠れぬ日々を過ごしていた。ある晩、二条院から紫の上の使いが訪れ、紫の上からの文を読んだ源氏は都でもこの豪風雨が発生している事を知る。この悪天候のため、厄除けの仁王会が開催されることになり、都での政事は中止されていることが使いの口から明らかにされた。源氏らは都に残してきた家族を案ずる。嵐が鎮まるよう、源氏と供人らは住吉の神に祈ったが、ついには落雷で邸が火事に見舞われた。嵐が収まった明け方、源氏の夢に故桐壺帝が現れ、住吉の神の導きに従い須磨を離れるように告げる。その予言どおり、翌朝明石入道が迎えの舟に乗って現れ、源氏一行は明石へと移った。入道は源氏を邸に迎えて手厚くもてなし、かねて都の貴人と娶わせようと考えていた一人娘(明石の御方)を、この機会に源氏に差し出そうとする。当の娘は身分違いすぎると気が進まなかったが、源氏は娘と文のやり取りを交わすうちにその教養の深さや人柄に惹かれ、ついに八月自ら娘のもとを訪れて契りを交わした。この事を源氏は都で留守を預かる紫の上に文で伝え、紫の上は源氏の浮気をなじる内容の文を送る。紫の上の怒りが堪えた源氏はその後、明石の御方への通いが間遠になり明石入道一家は、やきもきする。一方、都では先年太政大臣(元右大臣)が亡くなり、弘徽殿大后も病に臥せっていた。自らも夢で桐壺帝に叱責され重い眼病を患い、東宮(冷泉帝)への譲位を考えた朱雀帝は、母后の反対を押し切り源氏の召還を決意した。晴れて許された源氏は都へ戻ることになったが、その頃既に明石の御方は源氏の子を身ごもっており、別れを嘆く明石の御方に源氏はいつか必ず都へ迎えることを約束するのだった。帰京した源氏は権大納言に昇進。供人らも元の官位に復帰する。源氏は朱雀帝や藤壺の宮の元に参内し、親しく語り合うのであった。

*4:現代語訳:秋の夜に、月毛の馬よ、私が恋い慕っている空を駆けてくれ、ほんのつかの間でも恋しい人の姿を見たいと思う。

*5:ウィキペディアより光源氏(六条院)の48歳一月から四月までの話。病床に伏した柏木はこれまでと覚悟し、女三宮に文を送る。小侍従にせかされて女三宮もしかたなく返事を書き、柏木は涙にむせんだ。その後女三宮は無事男子(薫)を出産したもののすっかり弱り切り、心配して密かに訪れた朱雀院に出家を願った。傍らで見守っていた源氏(六条院)も今さらながら慌てて引き留めようとしたが、女三宮の決意は固く、当の女三宮からは源氏(六条院)の仕打ちを恨んでいた事を態度で示され、その宵のうちに朱雀院の手で髪を下ろしてしまった。朱雀院は「いずれ山奥の寺へと移す事になると思うが、そうなっても宮の事は見捨てないように」と源氏(六条院)に釘を刺し、自身が住む寺へと帰って行った。女三宮の出家を知った柏木は絶望、両親や兄弟たちに後のことを託し、離れ離れの妻落葉の宮も涙に暮れる。柏木の病状を哀れんだ今上帝は柏木を元気付けるために権大納言の位を贈った。彼の昇進を祝い、致仕の大臣邸には多数の人が詰め掛けていた。夕霧が心配して見舞いにやってくると、柏木はそれとなく源氏(六条院)の不興を買ったことを告げて、夕霧からとりなしてほしいと頼んだ。兄弟たちも皆悲しむ中で柏木はとうとう死去、とりわけ両親の嘆きは激しく、伝え聞いた女三宮も憐れに思って泣いた。三月に薫の五十日の祝いが催され、薫を抱き上げた源氏(六条院)はその容姿の美しさに柏木の面影を見て、さすがに怒りも失せ涙した。一方夕霧は事の真相を気にしながら、柏木の遺言を守って未亡人となった落葉の宮の元へ訪問を重ね、そのゆかしい暮らしぶりに次第に心惹かれていった。

*6:現代語訳:今となれば燃える荼毘の煙も解けなくなるほどにからみついて、絶えることのないあなたへの思いがなおもこの世に残るでしょう。