bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

横浜・長津田に旗本の菩提寺を訪ねる

退職してすぐのころに、知人に誘われて大分県を訪れた。その時に紹介された方々が、私の実家はXX藩の家老だった、私のところはYY藩の家老の末裔、私もまた同じなどと紹介され、大分県にはこんなにもたくさんの家老の子孫の方々がいるのかと驚かされたことがある。この県には、中津・杵築・日出・府内・臼杵・佐伯・岡・森と8藩も存在していたことを後で知った。それに対して、私が普段行き来している東京や神奈川は、小田原藩と二つの小藩を除けば、江戸幕府の直轄地か旗本の知行地だったので、家老の子孫に出くわしたことはない。

スーパーに買い物に行くとき、長津田の近くで大きな寺の横を通り過ぎる。由緒ありそうな寺だと思ってはいたが、訪れることはなかった。先日、たまたまこの近くに用事があったので、そういえばということで寄ってみた。門の前には少し古くなって読みにくい説明文があった。そこには長津田十景というタイトルが、さらに大林晩鐘(だいりんばんしょう)とサブタイトルがあり、次のような説明書きがあった。

大林寺は江戸時代に旗本岡野家の菩提寺として建立され、平成20年に再建された。晩鐘は夕やみに包まれた鐘の音を表現している。ここで見過ごしていけないものは、山門、正面の本堂、右側の客殿、左側には五百羅漢堂、座禅堂である。そして、裏の墓地には、領主岡野家の墓、関根範十郎、疋田天功、兎来(俳句の号)などの墓がある。領主岡野家の墓は横浜市の地域史跡に登録されているとなっていた。

旗本岡野家の菩提寺であることがわかったので、江戸末期の領主が誰であったかを確認するために、旧高旧領取調帳データベースを用いて、武蔵国長津田村で調べると次のようになっていた。岡野銖三郎知行1077石、大林寺領15石、若王子領4.5石、耕雲庵・竜盛寺・不動院の除地(年貢を免除された土地)がそれぞれわずかであった。

ウィキペディアによれば、岡野氏は戦国時代から江戸時代にかけての武家であった。そして、戦国時代末期に後北条氏に仕え、江戸期には徳川氏に仕えて旗本となった。家系は桓武平氏維将流北条氏支流で、鎌倉幕府得宗家の末裔とのことである。

さらに家伝によると、中先代の乱を起こした北条時行には3人子がいた。次男が伊豆国田方郡田中郷を領し、田中氏を称したという。田中泰行のとき小田原の北条氏康に仕えた。泰行の子・融成(とおなり:江雪斎)は北条氏政に仕えたが、氏政の命により北条氏重臣・板部岡康雄の遺領を継ぎ、名字を板部岡に改めた。小田原征伐後には、融成は豊臣秀吉の御伽衆となり、その命によって岡野氏を称した。秀吉死後は嫡男・房恒の仕えていた徳川家康方となった。関ヶ原の戦いにおいては、融成は小早川秀秋を内応させるための交渉役として活躍した。その後岡野家は旗本として存続した。融成の嫡男・房恒の子孫は武蔵国都筑郡長津田村を代々領し、菩提寺は大林寺であった。

新編武蔵風土記稿・大林寺の縁起では次のように説明されている。境内四千六十坪、小名(小字のこと)御前田にあり、禅宗曹洞派、相州愛甲郡三田村清源院の末にて、慈雲山と号す、開山は清源院五世の僧麟哲なり、当寺の開闢(かいびゃく)せし年代はたしかに傳へずといへども、この僧は慶長十三年(1608)七月二十二日示寂すと云ときは推てしるべし、開立の来由を尋ぬるに、此村の地頭岡野平兵衛房恒、天正十八年(1590)北条家に属し、岩槻の城に籠りしが、没落の後隣村恩田村に蟄居せしを召出されて、御家人に列しけり、その時采邑(領地)として当所を賜はり、この地へ陣屋をかまへたり、その後老父・坂部岡越中入道江雪が、菩提の為に当寺を起立せしと云、按(あんずる)に系図に江雪入道は、慶長中伏見にて没せしと云ときは、天正文禄の頃にや、江雪が此寺を開基せしも知べからず、本堂十間に八間半、本尊釈迦を安置す、当寺の寺領十五石余は慶安二年八月二十四日、大猷院殿(家光の法号)より御朱印を賜ひし所にして、今も寺領かはらず。

新編武蔵風土記稿では、創建された時期は1608年を下ることはないが不明とし、創建者は房恒となっている。しかし寺伝では、創建は1570年(元亀元年)長津田の初代領主である岡野平兵衛房恒の父、板部岡江雪となっている。どちらが正しいのかはわからない。

それでは大林寺の境内を参詣する。まずは山門、

山門の外側では仁王像が睨んでいる。右側は口を開けて物事の始まりを表現している阿形像、

左側は口を閉じて物事の終わりを表現している吽形像。

内側では四方を守護する四天王が安置されている。東の持国天、南の増長天、西の広目天、北の多聞天である。
左側から金剛杵(こんごうしょ)を持つ増長天と戟(げき)を持つ広目天

左側から宝塔を持つ多聞天と宝剣を持つ持国天である。

本堂。


客殿。


五百羅漢堂、座禅堂。

鐘楼と梵鐘。

瑩山(けいざん)禅師と道元禅師。瑩山禅師は曹洞宗大本山總持寺の開祖で、道元禅師は曹洞宗の開祖である。

幼児の延命・利益を祈願する仏として信仰される延命地蔵

旗本岡野家歴代の墓所

岡野家の由来には、初代融成、2代房恒、11代成政、12代由成について記されてた。

最後に、大林寺付近の明治39年の地図を載せておく。横浜線の下方にある道路は大山街道で、長津田が宿場街であることが分かる。

江戸時代の旗本のイメージをつかむのに苦労していたが、岡野家(岡野銖三郎は長津田村に1100石弱、下総に400石強を有する)を知ったことで、1500石程度の旗本は長津田村一村を知行する身分であることが分かった。現在の長津田町から想像することは難しいが、明治時代の写真や地図を頼りに、さらに詳しいイメージをつかめればよいと思っている。