bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

重要文化財・国宝にまつわる知識を深めるために覚園寺と金沢文庫へ

鎌倉のお寺でどこが一番好きかと尋ねると、詳しい人ほど覚園寺をあげる。コロナが始まる前は、寺僧の説明による拝観ツアーを楽しむ訪問者に評判だったお寺である。大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で中心となっている北条義時ゆかりの寺として、今年は賑わうことであろう。

北条義時晩年の頃に、三代将軍実朝が暗殺されるという事件が起きる(建保7年(1219))。実朝とともに源仲章が殺害されるが、これは義時と思い、間違って討ったのだろうと伝えられている(愚管抄)。この殺害を『吾妻鏡』では一つの物語として記述している(神に守られている義時を演出するためのおそらくは粉飾だろう)。

吾妻鏡によれば、義時はこの事件の半年前、来年の参詣には参加しないようにと、十二神将の戌神将(じゅつしんしょう)から、夢の中で告げられた。義時はお告げを信じて、大倉薬師堂を建立し、運慶作の薬師如来像を安置した。翌年の1月27日に、実朝の右大臣昇任を祝って、鶴岡八幡宮拝賀が行われた。八幡宮の楼門に入ったとき、義時は具合が悪くなり、御剣役を仲章に譲って退去した。このとき夢に出た白い犬が将軍のそばにいるのをみている。しかもそのときは大倉薬師堂には戌神がいなかったと伝えられている。戌神が見事に義時を守ったということだろう。そのあと大倉薬師堂は、9代執権貞時(時宗後継)が元寇を退けることを祈って、寺に改められ、心慧上人を関山とし覚園寺となった。

このような逸話をもつ覚園寺は、実朝殺害の場面が放送されるであろうこの秋から冬にかけて訪れる人は格段に増えるだろう。そこであまり知られていない今のうちにと思って、梅雨の戻りと思える先日(7月12日)、思い切って出かけた。また、神奈川県立金沢文庫では「兼好法師徒然草」の展示があると聞いていたので、三浦半島の付け根を横断して北条家ゆかりの二か所を巡ろうと少し欲張ったみた。

出発地は鎌倉駅。東口の改札を抜けると、待っていたかのように鎌倉宮行のバスが目の前に入ってきた。短い列の後ろについてバスに乗り込む。発車までしばらく時間があったので、鎌倉宮から覚園寺までの道を確認する。このお寺を以前に訪れた記憶はない。この近くは何度か訪れているが、覚園寺口からの天園ハイキングコースの方が、特に若いころは、心身とも惹かれた。

バスは若宮大路を通り、鶴岡八幡宮の前で右に折れ、金沢街道に入る。いつもは八幡宮の前は人であふれかえっているのだが、少し早めのこともあり、それほどの人込みではない。幸いに渋滞することもなくバスは快走した。「分かれ道」というところで、金沢街道から離れ、鎌倉宮へとまっすぐに進む。道が細いために、対向車があると、少し広くなった場所で待機し、相手の車をやり過ごす。10分も経過しただろうか、終点の鎌倉宮に到着した。

覚園寺へは、停留所の左側の道をまっすぐに進んでいけばよい。古くから残っている鎌倉の道には側溝がある。ここも例外ではなく、水がいかに貴重であったかを思い出させてくれる。川端康成の邸宅もかつてはこの道沿いにあり、文豪たちが好んでここに集まったことだろう。道は狭くて車一台がやっと通れるぐらいである。運悪く車に出会ったときは、側溝にかかる橋を近くに見つけ、すばやくそこに待避し、やり過ごすことになる。

しばらく行くと山門が見えてきた。谷の奥深くにある山寺に到着したと感じた。

山門の近くにある九重石塔。

受付で拝観料500円を支払う。ここから先は祈りの場なので撮影は禁止。パンフレットに記されている地図を参考に、受付で境内の廻り方を教わる。一番最初に訪れたのは、地蔵堂。ここには「黒地蔵」と通称される木造の地蔵菩薩立像(国重文)が安置されている。8月9日の夜半過ぎから10日の正午まで黒地蔵尊縁日が開催されるそうなので、浴衣姿で夕涼みがてら、多くの人が訪れることだろう。鎌倉の風物詩の一つになっているようだ。

地蔵堂の横には、お地蔵様の分身を千体近くまつっている千体堂がある。さらにその近くに十三仏やぐらがある。洞窟と思えるぐらい大きなやぐらである。

次は内海家。1706年に鎌倉の手広につくられた農家で、1891年に解体されて、ここの境内に移築された。桁行9間半、梁行5間の規模で、代々名主などの村の要職を務めた家柄の民家である。神奈川県立歴史博物館にその模型がある。また同博物館には、手広村の検地帳や年貢皆済目録なども展示されているので、同村の江戸時代の様子を知ることもできる。

最後は薬師堂。お坊さんに頼んで説明をして頂いた。ユーモラスなお坊さんで、最初はなんとクイズ。薬師堂の横にある槙の大木を指して、樹齢何年でしょうという問いであった。鎌倉時代が始まってから数えて800年ぐらいたつので、そのくらいですかと答えると、正解だった。

そして薬師堂について説明してくれた。禅宋様建築で、茅葺、寄棟造、方五間の仏堂。真ん中の一間が広いのが特徴。中央三間は花頭枠付きの引き戸で、中央が一回り大きい。柱の下端はそろばん玉のように見える礎盤で保持され、柱上と柱と柱の間にも組物を置いた詰組となっている。この堂の前身は文和3年(1354)に足利尊氏によって建立され、江戸時代の文禄2年(1689)に古材を再活用して改築されている。

堂の中に入る。入ったところでお詣り。本造薬師三尊坐像の説明を受ける。三尊とも国の重要文化財。寄木造、玉眼、法衣直下の宋風様式。薬師如来は右手を上げ左手を下げる施無畏与願印が一般的だが、ここの薬師はお腹の前で両手を組む法界定印で、手の上に薬壺をのせている。像の高さは約180cm。薬師如来の脇には、日光菩薩月光菩薩。それぞれ脚を崩して安座している。像の高さは約150cm。薬師如来は、頭部は鎌倉時代、体部は南北朝から室町時代の作と推定されている。日光菩薩は、応永29年(1422)仏師朝裕の作であることが判明している。月光菩薩も、同時期・同人の作と考えられている。

堂の両側面には、木造十二神将立像がある。これも国の重要文化財十二神将薬師如来および薬師経を信仰するものを守護する仏尊である。それぞれの神将にはバサラなどのようにサンスクリット語で名前がついている。しかし馴染みにくかったので、同数の12を有する干支を用いて呼ぶようになったとのことであった。例えば、バサラは、戌神将と呼ばれる。覚園寺十二神将の頭には、干支の動物がのっている。仏師朝裕によって1年に一体ずつ、12年かけて作られた。

薬師三尊坐像の右側の隅の方に、川端康成が愛した鞘阿弥陀仏がある。これは明治初期の廃仏毀釈によって廃寺となった近隣の理智光寺の本尊からの客仏で、鎌倉時代から室町時代にかけて作られたとされている。この像の中に、もう一つの阿弥陀が胎内に納められていたので、鞘のようだということで、鞘阿弥陀仏と名付けられた。

反対側の左奥隅には、触れると病が治る木造賓頭盧尊者像(びんずるそんじゃぞう)、寺院の建物を守る木造伽藍神倚像がある。これまでの仏と容貌が異なるので、お坊さんに聞いたところ、儒教の影響を受けているとのことであった。

お坊さんから一通り説明してもらったあと、もう一度丁寧に拝観して、受付の外に出た。ここは撮影が許される。

愛染堂は、元々は大楽寺のお堂で、廃仏毀釈によって、覚園寺に移築された。中には愛染明王が安置されている。

また、隣の三蔵には、北条のミツウロコの暖簾があった。

山門に向かっての風景。

重要文化財の像に満足したので、覚園寺を後にして次の目的地へ向かうために、金沢街道の「分かれ道」に戻る。ここは、鎌倉駅金沢八景駅を結ぶバスが通っている。鎌倉北東端の集落である十二所(じゅうにそ)を抜け、川端康成が眠る鎌倉霊園を通り、朝比奈の急坂を対向車を気にしながらバスはくねくねと曲がりながら下ってゆく。近くには、かつて鎌倉と六浦の間の交通路として重要であった朝夷奈の切通しがある。坂道を下り終わり、横浜横須賀道路の朝比奈インターチェンジを過ぎてしばらく行くと、そこは横浜市金沢区六浦である。鎌倉時代には、金沢北条家が栄華を誇った地である。六浦は、かつては「むつら」と呼ばれ、名所の一つに数えられるほど風光明媚なところであった。しかし、江戸時代からの干拓によって内海の大部分は失われ、現在では住宅が広がっている。下図は横浜市歴史博物館鎌倉時代の六浦のジオラマ

金沢文庫は、鎌倉時代中頃に、金沢北条家が集積した文書を収納するために、邸宅内に建てられた文庫である。吾妻鏡は蒙古襲来の前までの歴史書で、それ以降を記述した貴重な史料は、金沢文庫に納められているたくさんの古文書である。その中から、卜部兼好に関する記録が見つかり、今まで伝えられていた吉田兼好の履歴は捏造されていたことが判明した。神奈川県立金沢文庫では「兼好法師徒然草」の展示を行っていて、兼好法師の本当の履歴が分かる史料を開示している。それを確認するために、鎌倉からバスを乗り継いで、お昼を我慢して、やっとたどり着いた。

兼好法師は、これまでの説明では、鎌倉時代の後期に、京都・吉田神社神職の卜部家に生ま れ、六位蔵人・左兵衛佐となって朝廷に仕え、そのあと出家して「徒然草」 を表したとなっていた。しかし小川剛生さんの『兼好法師』によれば、それは捏造で、若いころの兼好は金沢北条氏に被官して過ごしていたことが、金沢文庫に収納されている国宝「称名寺聖教・金沢文庫文書」から分かるということであった。これまでの謎を紐解いた古文書の殆どが紙背文書で、読みにくいものも沢山ある中で、よくぞ読み解いたと感心させられた。また、かくも長きにわたって、吉田兼好として説明されてきたものは、意味があったのだろうかと強く感じた。論理学の世界では、「偽」の上に造られた話は、「真」ということになっているが、500年にも及んだ騙し、騙された歴史は何だったんだろうと、深く悩まされることとなった。