bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

畠山重忠の館跡にある嵐山史跡の博物館を訪ねる

東京のはずれというよりも、神奈川県の中央部と喩えた方が適切な場所から、3時間近くかけて、埼玉県中部の嵐山町を訪れた。

ここは鎌倉時代初め頃に活躍した畠山重忠(しげただ)の館があったところである。また木曽義仲が誕生したところでもある。義仲の父源義賢(よしかた)はこの町の大蔵に館を構えていたが、兄の悪源太義平に攻め込まれて敗北を喫した(久寿2年(1155)の大蔵合戦)。このとき義仲は2歳で、義平の家来であった畠山重能(しげよし)、斎藤別当実盛(さねもり)のはからいで、母とともに信濃国木曽に落ち延びた。

畠山氏は秩父平氏の一族で、重能は重忠の父である。源頼朝が挙兵したとき、重能が京で大番役をしていたため、重忠は17歳で一族を率いて平家方として頼朝の討伐に向かった。頼朝は大庭景親(かげちか)に大敗して潰走した(治承4年(1180)の石橋山の戦い)。このとき三浦義明・義澄はこの戦いに間に合わず、引き返した。その途中で、由比ガ浜で重忠に遭遇して合戦となった。ここでは双方は死者を出して兵を引いた。重忠は、河越重頼江戸重長(いずれも秩父平氏)とともに、三浦氏の本拠の衣笠城を攻め、義明を打ち取った。

頼朝は安房国に落ち延びたが、千葉常胤、上総広常らを加えて大軍を組織し武蔵国に入ろうとした。このとき重忠は頼朝に帰服し、御家人となった。そして治承・寿永の乱(源平合戦)、奥州合戦などで活躍した。

武蔵国では比企氏と畠山氏が大勢力を張っていた。2代将軍頼家のとき、比企能員(よしかず)の変(建仁3年(1203))で比企一族は滅びた。3代将軍実朝の時代になったとき、北条時政が権力を握った。畠山一族を滅亡させて武蔵国を我がものとするために、時政は策略を巡らして重忠に鎌倉に参上するように命じた。重忠は鎌倉に向かう途中の武蔵国二俣川で、北条義時が大軍を率いて重忠討伐に向かっていることを知った。重忠はこの地に踏み留まり、少人数にもかかわらず奮戦したが、愛甲季隆に射られて討ち死にした。

嵐山町は以上のような歴史を持ち、これを伝えるために嵐山史跡の博物館が設置されている。「鎌倉殿の13人」で盛り上がっているこの時期、企画展「武蔵武士と源氏」が開催され、近くで講演会もあったので、チャンスととらえての見学であった。

とても可愛らしい嵐山駅

博物館全景

入り口近くで、畠山重忠のロボットが案内

平家に従っていた重忠が、白旗をあげて頼朝に参陣

奥州平泉出土の渥美焼袈裟襷文壺(左上)、常滑焼四耳壺(右上)、柱上高台(右下)、かわらけ(右下)

鎌倉出土の青白磁梅瓶

埼玉県吉見郡金蔵院出土の白磁四耳壺

黒漆太刀 銘 宝寿

畠山重忠奉納鐙

畠山重忠墓(模造)

二十八間二方白星兜鉢

馬場都々古別神社赤糸威鎧残闕

重忠が武蔵御嶽神社に奉納したとされる赤糸威大鎧(模造)

安達藤九郎盛長坐像

木造伝源頼朝像(北条時頼とも)

館外は、重忠の館があったとされる菅谷館跡。但し中世の館跡は発見されておらず、戦国時代のもの。


重忠像

このあと講演会に参加するために、国立女性教育会館へと向かった。国立の施設とあって、さすがに広く立派。

研修所

日本庭園

講演が行われた講堂

講演会のタイトルは「武蔵武士の中世ー鎌倉から室町へ」で、4人の講師の方からそれぞれ1時間ずつ話しを伺った。前々から知りたいと思っていた中世の武士団についての詳しい説明が含まれていて楽しんだ。埼玉県はかつての武蔵国の中心で、秩父平氏や武蔵七党が跋扈していた場所だ。武士団が活躍した地で講師の話を聞くと、臨場感があり、なるほどと納得することが多かった。しかし遠足とも思えるほどの遠さだったため、現地をゆっくり見る時間がなく、この点は残念だった。次に機会があれば、嵐山の街をじっくりと楽しみたいと思っている。