bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

横浜市歴史博物館にプレ連続講座「鎌倉御家人の所領経営」を聴講に行く

横浜市歴史博物館は、この秋から開催する企画展「追憶のサムライ」に先立って、プレ連続講座を行った。先週末(9月17日)はその最後ということで、東大史料編纂所井上聡さんが「鎌倉御家人の所領経営」の話をした。話し上手な方で、またとても興味が湧く内容であった。話に惹かれ、久しぶりに身を乗り出し、一言一句に注意しながら、細かくメモを取った。

たびたびブログでも書いているように、今年は大河ドラマで鎌倉の御家人を扱っていることもあって、あちらこちらで関連のイベントが開かれている。それらのいくつかに参加したこともあって、随分と詳しくなった。しかし「武士」ということもあって、乱を扱ったものが多かった。どの様な事件があったのかについては詳細な知識を得たが、御家人はどのようにして生活が成り立つようにしていたのか、と改めて問われると、地頭として荘園の維持・管理をしたと言えるぐらいであった。まともな説明とは言えないので、もう少し突っ込んで知りたいとかねがね感じていた。今回の講演はまさにぴったりで、期待していた以上の知見を得た。

井上さんは、最初に「武士とは何か?」ということから始められた。我々が、学校教育で教えられた武士は、農村から登場し、荘園制と貴族社会を打ち壊し、新しい封建社会をつくった人々であった。自ら開発した農地を「一所懸命」に守るストイックな存在でもあった。

このブログの別の記事で、野口実さんの『源氏の血流』で紹介したが、近年においては「京武者」という言葉で表現されるように、武士は律令国家の武力組織からの転化と見なされるようにもなった。さらに最近になって、高橋修さんや田中大喜さんたちは、在地領主の領域支配の核に、流通・交通の結節点としての町場があることに注目して、開発領主・在地領主像の再検討をしている。そこには当初の農民から誕生したイメージはない。

これらを受けて、井上さんは次のように定義した。武士とは、開発領主・在地領主のうちで、中央集権や国衙とのつながりを背景に武力を持つことを承認された存在である。彼らは、都市を核とする荘園制の経済的ネットワーク(物流・交通・金融)を活用しながら、自ら都鄙を往復し、地域所領の開発・保存し、維持・経営した。

鎌倉時代の経済的な基盤は荘園制である。律令国家が始まってすぐあとに、墾田永年私財法(天平15年(743))が発布され、荘園発生の基礎ができた。摂関政治全盛時(11世紀)には、開発領主は有力貴族などに荘園を寄進するようになった。さらに院政期(12世紀)になると、上皇家・摂関家・大寺院などは、所有している小規模の私領を核に、広大な領域を囲い込み領域型荘園を誕生させた。

このころの荘園の所有関係を示すと次の図のようになる。本所は、今日の言葉で表すとオーナーで、荘園の実効支配者である。領家は、エージェントで、本所から荘園に関わる権利・利益の一部を付与されている。下司・公文(荘官)は、マネージャーで、現地管理者であり、井上さんの定義によれば、武士となる。

鎌倉時代に入っても荘園制は引き継がれた。鎌倉殿(鎌倉時代の将軍)と主従関係を結んだ武士は、特別に御家人と呼ばれた。鎌倉幕府成立以前には彼らは下司・公文であり、御家人となることで鎌倉殿より地頭職が与えられた。下司・公文は本所・領家から任命され、その身分は不安定であったが、地頭になることで本所・領家からの任命権が及ばなくなった。これにより地位が安定したため、本所・領家に納める年貢の割合を圧縮することが可能になり、実際実行された。

頼朝に地頭の設置が勅許されたのは文治元年(1185)である。地頭を頼朝の裁量で決められるようになったことが、鎌倉幕府にとっては最も重要なことであったと考えられるようになったのだろう。今日の教科書は、この年を以て鎌倉幕府のはじまりとしている(我々の世代はいい国(1192)造ろう鎌倉幕府だった)。このとき御家人には、関東の本領、平家没官領、源義経跡が地頭として与えられた。そのあと鎌倉幕府が対抗勢力を滅亡させるごとに 地頭は拡大した。奥州合戦(文治5年(1189))での勝利により奥州藤原氏跡が加わった。また承久の乱(承久3年(1221))では京方没収地が、新補地頭として与えられた。これにより御家人は、関東の本領のみならず、列島規模で所領を有するようになった。まるでバブルのように拡大した。

どの程度拡大したのかを見てみよう。安保(あぼ)氏は北武蔵の賀美郡を本領とする武士で、武蔵七党の丹党に属し、武蔵の典型的な武士団の一つである。安保氏が残した「安保文書」は、中世の武士の様子を知る上で貴重な史料である。安保光泰譲状(歴応3年(1340))から、鎌倉末期の安保氏の所領の分布を知ることができる。表で上の3国は安保光泰譲状によるものであり、他は表中に出展先が記載されている。井上さんは次のように領地を得たと見立てている。武蔵国は本領、出羽国奥州合戦で、播磨国近江国承久の乱で増えたもの。陸奥国は、鎌倉後期に得たものだろう。

安保直実は、歴応3年(1340)に、父光泰より次の領地を譲りうけた。

井上さんは、『太平記』(東国に居住して三百余箇度の合戦)、『東大寺文書』(播磨国大部荘地頭悪党交名→直実)、『祇園執行日記』(京四条に邸宅)、『余目(あまるべ)安保軍記』(余部安保氏の祖は直実)から、「直実は、武蔵と京都に屋敷をもちながら、播磨・但馬・出羽を股にかけ広域に活動した」と解釈した。そして本領と鎌倉・京都を軸に、所領のある地域を移動しながら支配の維持を図る姿が、鎌倉期以来の所領経営スタイルではないかと話された。

この見方を補強する例がさらに提示された。寺尾重員(為重)が、継母妙漣と異母兄弟重通から訴追された。その時の「尼妙漣等訴追状」(弘安元年(1278))から小規模武士の所領経営を伺い知ることができると説明された。なお寺尾氏は渋谷氏の庶家である。

少し寄り道をして、渋谷氏の家系を簡単に説明しておこう。渋谷氏は、桓武平氏の一流である秩父氏を祖とし、南関東に進出した河崎冠者基家が相模国に展開し、孫の重国が渋谷荘司となって渋谷氏を名乗った。源頼朝挙兵(治承4年(1180))のとき、重国は大庭景親らとともに平家方に与した。しかし佐々木定綱兄弟を庇護したこと、さらにはそのあと頼朝の麾下に入って子の次郎高重とともに戦功をあげたことなどが認められ、二人は御家人となった。そして重国は相模大名の地位を維持した。北条氏が和田氏を滅ぼした和田合戦(建保元年(1213))で、重国は和田義盛方につき戦死したが、太郎光重が渋谷荘を保った。北条氏が三浦氏を滅亡させた宝治合戦(宝治元年(1247))では渋谷氏は戦功をあげ、子の定心らは、千葉氏の旧領薩摩国薩摩郡入来院(いりきいん)、薩摩郡祁答院(けどういん)、薩摩郡東郷別府(とうごうべっぷ)、高城(たき)郡などの地頭となった。


さて本題に戻ろう。訴訟を起こされたのは定心の孫の重員、訴えたのは継母の妙漣とその子の重通であった。

訴えに対して重員は陳情で次のように反論した。(1)私為重(重員)が絶縁され、悪行を働いたというのは継母の嘘、(2)渋谷の屋敷もその他の所領も私のものなのに、継母が留守中に奪った、(3)幕府の召還に応じないと言っているが美作滞在中は何も言ってこなかった、(4)薩摩滞在中に、美作の妻に御教書を渡した、(5)私は強盗・山賊などではない、(6)判決が出るのは早すぎる、(7)妙漣・重通への譲り状が父親直筆というのは怪しい。

重員と妙漣・重通の一連のやり取りは、鎌倉時代の女性の権利が決して低くなかったことを説明するために使われることが多い。しかし井上さんは、そこに現れてくる重員の居所に着目した。鎌倉への召還から逃れるために重員は逃亡していると、妙漣は訴える。重員は、本領である相模渋谷荘から、入来年貢の中継地である備前方上津へ、そして所領である美作河会荘へ、さらに所領である薩摩入来院塔原村へ、最後に所領と思われる奥州へと移動している。重員は逃亡ではなく、いつもの行動と反論している。井上さんは、これから、鎌倉御家人による所領経営は安保直実や寺尾重員のようなスタイルが一般的で、「本領と京・鎌倉を軸に、所領のある地域を移動しながら荘園経営をしていた」と見ている。

飛行機も新幹線もない時代に、飛び廻るのは大変だったことだろう。しかしそれだけで全国に散在する所領を経営できるわけではない。それぞれの所領での生産を順調に進ませるための指揮も必要だし、在地での収穫を京(荘園領主への上納)や、東国・鎌倉(物資・富の移送)へ運ぶための流通も必要だし、幕府から要求される資金の提供に応じる必要もあった。このようにかなり複雑な荘園の経営をどのようにこなしたのだろうか。

安保氏のような小規模御家人がどのように荘園を経営していたかについての史料はこれまで見つかっていないので、井上さんは、延応元年(1239)の鎌倉幕府追加法「山僧・借上などを地頭代とすることを禁じる」に解決の糸口を見出した。山僧は比叡山延暦寺などの僧で経済的活動に長けており、借上は金融業者である。禁止の法律ができたということは、このようなことが横行していたことを示すもので、小規模御家人は、山僧・借上・商人などを地頭代にして経営を委託したと、井上さんは見ている。委託したことで、経営のプロである山僧・借上・商人に侵食されて、御家人たちの所領状況は悪化したと説明してくれた。

また、大規模御家人では、有能な経営のスタッフを抱えていたのではと見ている。千葉氏を取り上げて説明された。その内容に入る前に、ここでも寄り道をして千葉氏について簡単に説明しておこう。

千葉氏は桓武平氏で、平忠常の乱(長元元年(1028))をおこした忠常の子孫。千葉常胤は源頼朝の挙兵に応じ、下総の守護となる。同族の上総介広常が頼朝に討たれたこともあって大きく発展し、下総、上総、陸奥、美濃、伊賀、九州などの所領を得た。獲得した所領は、そのあと常胤の子の6人、胤正(千葉介)・師常・胤盛・胤信・胤通・胤頼がそれぞれ分割して受け継ぎ、それぞれの中心となる所領の地名を名乗った。胤正の孫の秀胤(上総権介)は、妻が三浦泰村の妹であったことなどから、宝治合戦では一族の多くが北条氏方につく中で、三浦氏に与した。秀胤の九州の所領は、先に見たように渋谷氏に渡った。なお胤綱と時胤は、家系図では親子としたが、吾妻鏡では兄弟となっている。

それでは元に戻ろう。有力御家人である千葉氏の場合には、中山法華経寺所蔵『日蓮聖教紙背文書』から所領経営の様子を知ることができる。千葉頼胤が千葉介を担っている頃と思われる文書の中に、家人の一人である西心(さいしん)が、やはり家人の富木常忍に宛てて、「介殿(千葉氏)が上洛のための銭200巻を介馬允(すけのむまのせう)という借上から替銭(支払い約束手形)で調達し、返済に小城郡の年貢を充てたので、借上が現地へ下向して銭の確保に奔走する様子」が書かれている。これに関連して、小城郡の人物とみられる弥藤二入道が返済に応じていること、しかし銭の調達が難しく、京都大宮の千葉氏の屋敷を質に入れ、利銭(借金)を調達することで馬允に返済しようとする様子が書かれている。

富木常忍の経歴を調べると、父の代に因幡国法美郡富城郷から上総に移住、常忍は識字率が高かったとされている。井上さんは、常忍は官人で、経営能力を有していたのではと見ている。そして経営能力を持ったスタッフ(吏僚)を集めて家産組織を編成し、金融業者による資金調達を媒介として、本領・鎌倉・京都を拠点に散在所領を経営していたとしている。しかしそれにもかかわらず、千葉氏の吏僚は、資金繰りの悪化に何度も直面した。やはり所領経営はなかなか難しかったようである。

13世紀後半以降、所領経営が特に難しい中小の御家人は、御家人の身分を維持しながら、北条氏の被官(得宗被官)として編成された。北条氏は、幕府内で最も多くの所領を列島各地に所有する存在で、(1)経営機関としての得宗公文所、(2)安藤蓮聖に代表されるような流通・物流に精通した被官の存在、(3)通用な交通路・津・港などの掌握によって、列島に物流・交通・金融のネットワークを構築した。人材・資金で劣る中小御家人は、北条家のネットワークを利用して所領経営を行ったと話してくれた。

14世紀中盤以降は、荘園制の最大庇護者であった鎌倉幕府・北条家の滅亡によってネットワークは崩壊、御家人らの所領も拠点所領の周辺に集約され遠隔所領は消滅、安保氏は本領である武蔵とその周辺地域に限定され、各地の安保氏は自立化(列島規模の移動は直実が最後)、また寺尾氏は薩摩入来院とその周辺にのみ集約され譲り状には遠隔所領も記載されるものの形式的なものとなったと、話を結ばれた。

武士を律令制度の武力組織の転化とする見方に対しては、在地領主・開発領主が武士から抜けているようで不満であったが、今回の井上さんの定義は分かりやすかった。また御家人たちが所領経営の上で、物流・交通・金融のネットワークを列島という広域にわたって構築・活用したことのすごさを知った。さらに列島を飛び回りながらネットワークを動かしていく御家人の躍動的な姿を浮かび上がらせてくれた。御家人たちの所領経営に関する理論的な組み立てを伺うことができ、久しぶりにすばらしい話を味わえて、有意義な一日であった。