旅行5日目は宮島訪問である。案内してくれたのは、かつての職場の同僚で、私が退職した後に広島で新たな職場を獲得し、この地に移られた方。現在は日本国籍を得られているが、元は中国の人。文化大革命後の厳しい大学入学試験に勝ち抜き、英国に留学して博士の学位を取得し、日本で職を得たとても優秀な学者である。その彼に宮島を紹介してもらうのも少し変だったが、しばらくしてその役割が逆転し、日本の中世という時代を話してあげることとなった。それでは宮島を紹介していこう。
安芸・宮島は厳島とも呼ばれ、平清盛により海上に大きな社殿が造営されたことで有名である。陸奥・松島、丹後・天橋立ともに日本三景の一つで、ユネスコの世界遺産にも登録されている。
厳島が文献に現れるのは、『日本後記』の弘仁2年(811)7月7日条で、「安芸国佐伯郡伊都伎嶋神社」と記されている。また『延喜式』(927年成立)に佐伯郡速谷(はやたに)神社、安芸郡多家(たけ)神社とともに、名神大社(日本の律令制下において、名神祭の対象となる神々を祀る神社)に列せられている。天慶3年(940)の藤原純友の乱(同じ時期に平将門の乱が発生、律令制度が衰退し、武士の起こりを象徴する乱)では追捕祈祷が行われた。
平安時代末期の久安2年(1146)から保元元年(1156)まで、平清盛は安芸守となり、神主・佐伯景弘との結びつきを強めた。最初の参詣は永暦元年(1160)で、治承4年(1180)までに記録に残っているだけでも10回参詣した。長寛2年(1164)に法華経を書写して奉納、山県郡志道原荘を寄進した。仁安3年(1168)に佐伯景弘は本宮・外宮を造営、現在みられるような回廊で結ばれた海上社殿が完成した。後白河法皇・建春門院の参詣(1174)、平氏一族の千僧供養・舞楽(1177)など、一気に都の文化が開花した。弘法大師が開基したと伝承される弥山(みせん)には、平宗盛によって「弥山水精寺」銘のある梵鐘が寄進され、神仏習合も進んだ。
寿永3年(1185)の壇ノ浦の合戦後、佐伯景弘は源頼朝から長門国での宝剣探索の命を受け、厳島社では奥州藤原泰衡追討が祈祷されるなど、平氏滅亡後もその隆盛は変わることはなかった。承久3年(1221)の承久の乱の後、鎌倉幕府は各地に地頭を配置した。草創以来の神主佐伯氏に代わって、関東御家人周防前司藤原親実(ちかざね)を厳島神主とした。後に彼は安芸国守護となった。
元寇に際しては、異国降伏の祈祷が行われた(1293年)。一遍や二条尼の参詣、各地からの華厳経などの写経の奉納、足利尊氏や大内義弘の造営料寄進、博多商人からは釣灯篭、堺商人からは絵馬「三十六歌仙之図」が奉納された。
平安末期には、島内には巫女のみが居住、祭祀に使える社家や供僧は対岸の外宮に居住していた。参詣人や商人たちが多数集まるようになると島内に住むようになり、山麓には神社が立ち並び、その周辺に民家が並ぶ町が形成されるようになった。参詣者でにぎわいを見せる交易・商業都市、瀬戸内海海上交通の要所としての港湾都市の性格が加わり、俗化が進んだ。戦国時代には、大内義興、毛利元就、さらには豊臣秀吉から庇護を受けた。江戸時代になると厳島詣が広まり、参詣者でにぎわった。
それでは厳島神社を見学しよう。
まずは境内図、左上に海上の大鳥居、中央部に厳島神社の本社、左下に大巌寺、中央右上に五重塔と豊国神社がある。
神社に近づくと、有名な海上に浮かぶ厳島神社大鳥居が目に入る。本社から108間はなれている。創建は明らかではない。記録に残る最古のものは仁安3年(1168)で、平清盛の造営。現在の形式になったのは、天文16年(1547)大内義孝らによる再建のときとされている。現在の鳥居は、明治8年(1875)建立。国の重要文化財。
境内に入ると荘厳な厳島神社本社が見える。仁治2年(1241)再建の社殿が基本で、平清盛の厚い庇護を受けて整えられた平安末期の構成を踏襲している。国宝。
右楽房。写真の左側で観察されるように、観光客の多くが、この先の突端で、写真を撮っていた。左楽房とともに、平清盛によって寄進。国宝
能舞台。慶長10年(1605)に福島正則により造営、1680年に浅野綱長により現在の姿に再建、1991年の台風で倒壊、1994年に再建された。国重要文化財。
天神社。弘治2年(1556)に毛利隆元が寄進造営。重要文化財
和様と唐様とが融合した優美な厳島神社五重塔。室町時代の応永14年(1407)の創建と言われている。重要文化財。
厳島神社末社豊国神社本殿。豊臣秀吉が毎月一度千部経の転読供養をするために天正15年(1587)発願,安国寺恵瓊を造営奉行として同17年(1589)ほぼ完成した。
大巌寺は真言宗、開基は不明で、鎌倉時代の建仁年間(1201~1203)に了海により再興されたと伝えられている。山門。
護摩堂。
本堂。
宮島ロープウェイ獅子岩展望台より瀬戸内海の眺望
同じく弥山を望む
宮島で「あなごめし」を頂いた後、広島市郊外の彼の家へと向かった。連れて行かれた場所は、いわゆる家々が離れて建てられている散村で、その中に赤い色のフィンランド製のログハウスが異彩を放っていた。そしてそれが彼の家であった。午後は家の中でおしゃべりしたり、村を散策したりと、楽しい時間を過ごした後、近くのイタリア・レストランで夕飯を食べた。地元の人とも仲良く付き合われているとのことで、彼の生きていく力の強さを改めて感じた。そして旧交を温められ、とてもよい一日を過ごした。