bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

東京・世田谷の九品仏浄真寺を訪ねる

今年は夏のはじまりも早かったが、秋のはじまりも早いようだ。いつも散歩をしている田圃の畔道に、お彼岸のシンボルともなっている曼殊沙華が早々と咲いていたので、目を疑ってしまった。

ボランティアをしているある会から近くの文化財を紹介して欲しいと依頼されたので、材料を仕入れるために九品仏(くほんぶつ)にある浄真寺を訪ねた(8月30日)。ここは、ちょっとおしゃれな自由が丘に近く、すこし足を延ばすと高級住宅街の田園調布もある。高校生の頃は等々力渓谷のコートでテニスに興じるために頻繁に近くまで来ていたのだが、当時は寺には興味がなく立ち寄ったことはなかった。近くの会社に勤めるようになってからも拝観に訪れた記憶はない。退職後に、懐かしい場所を訪ね歩いているとき、そういえば九品仏に行ったことがないと気がつき、ついでに寄ったことがある。恐らくこれが唯一の結節点だろう。

変わった名前のお寺という以外の知識しかなかったので、ホームページで調べ、由来などの情報を得て出かけた。最寄り駅は大井町線九品仏駅。この駅は二つの道路に挟まれているため、ホームは短く、自由が丘寄りの車両しか扉は開かない。駅舎もこじんまりしていて、都内とは思えない。

戦国時代には世田谷吉良氏系の奥沢城があり、浄真寺の境内には方形の郭跡が残っている。今昔マップで調べると、左側の明治42年の地図には、九品仏駅のあたりに、城前や千駄丸という城にちなんだ名前が見受けられる。現在の浄真寺の周りは住宅街となっているが、明治の終わり頃はまだ一面田圃であった。

新編武蔵風土記稿によれば、豊臣秀吉小田原征伐後に廃城となり、寛文5年(1675)に名主の七兵衛門が寺地として貰い受け、延宝6年(1678)に珂碩(かせき)上人が浄真寺を開山したとなっている。

またデジタル版日本人名大辞典によれば、珂碩上人は次のような人物である。江戸時代初期の元和元年(1618)に江戸に生まれ、大巌寺(下総国)の珂山上人の弟子となった。寛永13年(1636)に江戸霊厳寺に師とともに移り、阿弥陀仏造像の発願をして、30年間毎日3文ずつ貯え、さらには弟子珂憶(かおく)上人の協力を得て、寛文7年(1667)に9躯の阿弥陀仏像と1躯の釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)像を造立した。延宝6年に九品仏浄真寺を開山したのにあわせて、仏像も移設された。阿弥陀仏像9躯は、上品堂(じょうぼんどう)、中品堂(ちゅうぼんどう)、下品堂(げぼんどう)のそれぞれに3躯ずつ、釈迦牟尼仏像は本堂に安置された(珂碩上人が亡くなった後、珂憶上人がこれらの堂を元禄11年(1698)に造営した)。なお、珂碩上人は元禄7年(1694)に77歳で歿した。

それでは、浄真寺を訪問してみよう。改札を左側に出ると、参道の入口につながる。思ったいたよりも人が多いのにびっくり。

しばらくすると総門。

総門をくぐってすぐのところに、建て替えたと思われる焔魔堂(えんまどう)。

中にはそら恐ろしい閻魔大王

右側に懸衣翁、

左側には奪衣婆、

またご丁寧に三途の川も用意されていた。

しばらく行くと開山堂。珂碩上人が42歳のときに自彫した木造珂碩上人坐像があり、毎月7日の開山忌に開扉される。

そして寛政5年(1793)に建立された立派な山門としての仁王門(紫雲楼)、

一対の仁王像


建物の組物と獅子の彫刻、

欄間の彫刻、


風神・雷神も目立たないが仁王像の裏側に安置されていた。


宝永5年(1708)に建立された鐘楼堂。

そして境内に入る。もみじの並木だ。晩秋には紅葉し、素晴らしい景色を醸し出してくれることだろう。

元禄11年(1698)上棟の本堂(龍護殿)は改修中、

正面、

釈迦牟尼仏像、

本堂は法事中だったため、中に入ることができなかった。堂内には珂碩上人倚像がある。奈良時代に盛んであった乾漆造りで、江戸時代にはあまり例がない貴重な像である。

いよいよ、阿弥陀仏像である。3堂とも前述したように元禄11年(1698)の築である。先ずは上品堂、

弥陀定印の印相を結んでいる。

そして中品堂、

印相が説法印に変わった。

最後は下品堂、

来迎印の阿弥陀仏像。真ん中が抜けていて何か変だが、この像は現在改修中で戻ってくるのは2年後。

本堂の周囲には庭園があるが、現在改修中のため、極楽浄土を模した華麗な庭を見ることは叶わなかった。また、木造阿弥陀如来坐像(9躯)、木造釈迦如来坐像、木造珂碩上人坐像は東京都指定の文化財である。

最後に世田谷区の中世・近世の歴史をたどってみよう。室町時代の14世紀後半には、世田谷の領主は吉良氏で、矢倉沢往還(大山街道)の拠点である世田谷城址公園・豪徳寺一帯に館を構えていた。戦国時代の16世紀には、吉良氏が小田原北条家の支配下に入り、矢倉沢往還沿いに世田谷新宿が設けられ、楽市が開かれた。これは現在のぼろ市の起源となっている。世田谷新宿を管理するため、吉良家家臣の大場家が、世田谷新宿に移り住み、代官屋敷となった。江戸時代の17世紀になると、世田谷の村の半数は彦根藩井伊家の領地となった。世田谷領代官となった大場家は、230年間にわたって領内をまとめた。藩主の井伊家は世田谷村の豪徳寺菩提寺とし、大老井伊直弼も葬られている。豪徳寺近くの松陰神社には、吉田松陰墓所が置かれている。また若林村には萩藩毛利家の抱え屋敷があった。

世田谷の地はあまり馴染みがないが、これを機会に豪徳寺松陰神社を訪ねて、世田谷の歴史をたどってみたいと考えている。