bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

津軽・弘前を旅するー最勝院五重塔

弘前城の桜を思う存分に楽しんだ後、南に1.5kmほど離れている最勝院五重塔*1を見学に行った。この五重塔重要文化財に指定されている。

弘前市のホームページによれば、次のように説明されている。「この塔は、寺伝によれば初代藩主為信の津軽統一の過程で戦死した敵味方の供養のために建立したといわれている。従来、明暦2年(1656)に着工し、工事の中断と再開を経て寛文7年(1667)完成と伝えられていた。しかし、平成3年9月に襲来した台風で大きな被害を受け、建立から約330年にして初めての全面解体修理が実施され、その過程で初重の内法貫(うちのりぬき)から寛文4年(1664)8月の刻名が発見された。塔の組立はこのころから開始されたものと推定される。明治期の指定説明で「東北地方第一ノ美塔ナリ」とされ、総高は31.2メートル。屋根は宝形造、軒は二軒繁(ふたのきしげ)垂木で、組物は各重とも和様三手先である。柱間は、各面中央間を扉とするほかは板壁で、初重は正面のみ連子窓で三面に円窓、二・三重に格狭間(こうざま)、四・五重に矩形の盲連子をつくり変化をみせている。また心柱は杉一本の角柱で、二重目で止まっている」。また、弘前文化遺産を紹介しているHirosaki Heritageには、五重塔の構造が詳しく説明されているので、参考にするとよい。

ウィキペディアは、最勝院の歴史について、次のように説明している。「『津軽一統志』によると、天文元年(1532年)、常陸国出身の弘信が、堀越城下(現・弘前市堀越)に堂宇を建立したことに始まる。江戸時代初期に弘前藩2代藩主津軽信枚が弘前城を築城したことに伴い、慶長16年(1611)、城の鬼門(東北)に当った現在地より北に3キロメートルほど離れた田町に寺院を移転し、弘前八幡宮別当寺とされた。12寺の塔頭寺院を従え藩の永世祈願所となった。近世には僧録所として、津軽藩領内の寺社を統轄する立場にあった。明治時代の神仏分離令により最勝院以外の11寺は廃寺となり、最勝院は廃寺となった寺院の檀家衆を引き受けて現在地(旧大圓寺跡)に寺籍を移転した。なお、神岡山大圓寺弘前市に隣接する南津軽郡大鰐町に移転している。ただし、市民からは今でも「大円寺」の俗称で呼ばれている」。

弘前城を歩き回った後での最勝院の訪問であった。帰りの距離も考えると、体力をほぼ使い切っていたので、境内を散策するのをやめて、五重塔だけを楽しむことにした(500円の拝観券をセーブしたのももう一つの理由)。このため、境内の写真を持ち合わせないので、グーグルマップから借用しておこう。中央上にあるのが五重塔で、中央下が本堂である。その右上には六角堂がある。

新仁王門と五重塔

寺院の壁を通しての枝垂桜と五重塔

遠方からのソメイヨシノ五重塔。見た目にはとてもきれいに感じられたが、写真にとると前の建物が強調されすぎてしまい、ちょっと残念である。

近くの八坂神社。

最勝院の記事を書きながら、もう一度訪れることはないだろうから、やはり境内を拝観し、五重塔をまじかに見学しておけばよかったかと悔やんだが、体力の維持を考えれば仕方のない選択だったように思う。テレビで紹介されることもあるだろうから、それに期待することにしよう。

*1:江戸時代の建立で現存する五重塔は全国に22塔ある。この中で、最勝院五重塔は最北の五重塔である。