bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

神奈川県立歴史博物館で「近代輸出漆器のダイナミズム」を鑑賞する

神奈川県立歴史博物館で「近代輸出漆器のダイナミズム」が開催されている。3月には横浜市歴史博物館で「ヨコハマの輸出工芸展」が開催された。神奈川県での主要な二つの博物館がほぼ同時に輸出工芸品を取り上げたのには何かわけがあるのだろう。

横浜が開港されてから164年がたつ。ウィーン万国博覧会で日本の美術品や工芸品を紹介してから151年である。いつの間にか明治という時代は遠くなり、歴史の中でしか語られない時代になりつつある。いや逆に、取り上げやすくなってきたともいえる。

幕末から明治への激動期において、国の仕組みを変革することに成功した理由を明解に示したのはジャレド・ダイアモンドさんの『危機と人類』である。そこでは選択的変化が優れた策であったと言っている。

この激動の時代に最も大きな荒波にもまれた地域の一つは横浜だろう。武蔵国南東の外れの一寒村に過ぎなかった横浜村が、「一夜にして」と言っても言い過ぎでないほどの短い時間で、世界を相手に貿易する国際港となった。

横浜港からは、生糸や茶などの特産品が輸出され、富を求めて国内外の商人たちが集まってきた。江戸から明治へと不透明な時代を迎える中で、司馬遼太郎の『坂の上の雲』に代表されるように、人々は夢と希望を抱いて、新しい一歩を切り開いた。これまでのたまったマグマを吐き出すかのように、新しい時代を作っていった。

この激動の時代は、編年で追う歴史ではなく、地勢・社会・経済・文化など総合的な視点で見るのが良いだろう。そう、アムール派のように。オーストラリアの歴史家のアンソニー・リードさんの『世界史の中の東南アジア』は、大いに参考になると思う。

今回の特別展で取り上げているのは漆器だが、展示の半分近くは、木目が鮮やかな寄木細工である。なぜ、この展示の担当者はこの点を強調せず、漆器としたのだろう。横浜港が開港された前後の状況を考察すると理解することができる。開国された後、江戸幕府万国博覧会へ浮世絵や工芸品を出品したが、この頃から、ヨーロッパの芸術家たちは大きな影響を受け、日本に関心を持ち始め、いわゆるジャポニズム(仏:Japonisme)が誕生する。

それでは、ジャポニズムの語源となっているJapanは、何を意味するのだろう。固有名詞のJapanはもちろん日本だが、普通名詞のjapanは漆を表す(ちなみにchinaは磁器である)。Japanese furnitureは日本家具だが、japan furnitureは漆器家具である。この当時、日本の商品を取り扱っていた外国の人々が、漆器を利用して製作された家具とそうでないものとを厳密に区別していたとは考えられない。彼らは日本から輸入される工芸品や家具を一緒くたにし、ジャポニズムに象徴される東洋的神秘性にあふれたものとして、japan craft, japan furnitureと呼んだのではないだろうか(Oxford English Dictionaryによれば、japanという単語が現れるのは1577年で、日本由来の硬質ワニスを意味していた。後にそのようなものへと意味が拡張されたとなっている)。今回の展示の担当者の意図も、輸出された工芸品の性格を強調するために、輸出漆器にしたのだろう。

最初に、工芸品が欧米に紹介された経緯を説明する。輸出工芸品の歴史については、國學院大學の創立140周年記念企画「近代工芸の精華」の中で、述べられている。簡単にまとめると、次のようである。

日本の工芸品を初めて欧米に紹介したのはシーボルトで、日本で集めたコレクションをオランダで展示した。シーボルトは、オランダ商館の医師として来日(1823年)し、長崎の鳴滝塾で、高野長明などの医者・学者に、西洋医学(蘭学)を教授した。5年間滞在した後、帰国時にシーボルト事件を起こす。帰国する際に、幕府禁制の日本地図を海外に持ち出し、それが発覚して国外追放となる。その時一緒に持ち出した美術品や工芸品などのコレクションを、オランダ・ライデンのシーボルトハウスで公開した。時を経て国王のものに、そしてライデン国立民族学博物館(現在はオランダ国立世界文化博物館)の所有となった。

日本が日米和親条約で下田・箱館の開港で開国し(1854年)し、日本とオランダの間で修好通商条約(1858年)が結ばれると、シーボルトの国外追放は解除され、開国5年後に再来日した。3年ほど滞在の後に、収集品とともに帰国した。彼のコレクションは、オランダのアムステルダム、ドイツのヴュルツブルクミュンヘンで展示され、両国での日本の美術品・工芸品の紹介に貢献した。これらは、現在はミュンヘン五大陸博物館に所蔵されている。

工芸品や美術品は、当時始まった万国博覧会を通しても、紹介されるようになる。

幕府は文久遣欧使節(1862年)を送った。その中には福沢諭吉も含まれており、その時の様子を描いたのが『西洋事情』である。この時、第2回ロンドン万国博覧会が開催されており、そこにはイギリス初代大使オールコックが自身で収集した日本コレクションが展示されていた。

パリ万国博覧会(1867年)で、幕府は美術品と工芸品などの紹介を行った。これはエピソードだが、HNKの大河ドラマ「青天を衝け」で、渋沢栄一が将軍徳川慶喜の弟・昭武に随行して、パリ万国博覧会に参加した場面があった。この時、油絵や浮世絵と一緒に民芸品も紹介され、銀象牙細工の小道具、青銅器・磁器、水晶細工などが出品された。この博覧会では、シーボルトの子であるアレクサンダーが日本の一行を助けているが、一行とフランスとの仲を悪くしようとするイギリス側のスパイでもあった。

明治維新の後、政府は殖産興業を促進するために、輸出品の模索を行い、工芸品を重要視した。そして、明治政府として初めて、ウィーン万国博覧会(1973年)に参加し、約1,300坪の敷地に神社と日本庭園を造り、白木の鳥居、神社、神楽堂、反り橋を配置したほか、産業館にも浮世絵や工芸品を展示した。展示品は、ヨーロッパで売買・譲渡され、長きにわたって、彼の地の人々の目に触れることとなった。

次に工芸品の輸出港となった横浜港について説明する。先に述べたように横浜は、開国されるまでは寒村であった。現在横浜港があるあたりは当時は砂州であり、横浜村と呼ばれていた。砂州の内側は内海であり、江戸時代以前は小舟が入って漁をしていたことだろう。江戸時代になると、内海の奥の方は吉田新田として開発された。さらに、幕末も近づいたころ、砂州と吉田新田に挟まれた内海も、横浜新田(西側・現在は中華街)と太田屋新田(東側)として開発された。

幕末に、米国を始めとして五か国と修好通商条約が締結(1858年)され、横浜は開港された。当初は、開港地として東海道沿いの神奈川宿(現在の東神奈川)が要求されたようであったが、江戸に近いという理由で、砂州と横浜新田、太田屋新田を急いで整備し、この地域を長崎の出島のように三方を川で囲み、吉田橋という一か所だけで行き来できるようにして関所を設けた。現在、この地域は関内と呼ばれるが、関所の内側ということでこのように呼ばれるようになった。そして、関内の西側を西洋人が、東側を日本人が店舗を設ける場所と区分された。

開港とともに、イギリス波止場(通称象の鼻)とフランス波止場が作られた。港は急いで作られたために、大型船は入ることができず沖に停泊した。そして、はしけや汽艇が船と波止場を往復して荷や人を運んだ。明治の中ごろになって浚渫工事(1889年)が行われ、近代的な港に生まれ変わり、日本を代表する国際貿易港となった。

横浜開港資料館の資料によれば、明治と元号が替わった年の輸出に関する記事がある。それによれば、輸出額においては生糸が約50%、蚕種が約20%、茶が15%を占めていた。これに加えて、海産物・原綿・漆器などが輸出されていたとなっている。漆器の占める割合は、明治時代は1%前後であったようで額としてはそれほど多くなかった。

最後に漆器について説明する。江戸時代の支配体制は石高制である。大名・旗本・家臣などの身分や格式は石高で序列化され,知行石高によって軍役が課された(農民に対しては、検地により石高が測られ、領主へ貢納する年貢・課役の基準となった)。石高によって大名たちの格式が定まるため、石高の変更は大名間での格差の異動に直結する。実際、津軽への石高加増は、隣の南部藩との間で深刻な抗争を引き起こした。このように、石高の変更は争いの元となるため、幕府は江戸時代を通じて、実際の石高が増えたとしても、表向きの石高(地行石高)を変えることは少なかった。そして、表向きの石高を超えての収穫や、コメ以外からの収入は、領主の利益となったため、それぞれの藩では独自の殖産興業が実施された。

漆器は日本での伝統的な工芸品であったために、多くの藩で推奨されたようである。江戸時代の北前船で活況を呈した能登半島の輪島塗もこの例の一つである。残念なことに、元旦の能登半島地震により、輪島塗の産地は甚大な被害を受けて伝統産業の維持が危ぶまれている。多くの人々が心配し、早い復興を皆が願っている。輪島塗と並んで、紀州漆器(和歌山県)、会津漆器(福島県)、越前漆器(福井県)、山中漆器(石川県) なども有名な漆器である。

伝統的な漆器に対しては、経産省伝統的工芸品の指定をしている。それらは、津軽塗(青森県)、秀衡塗、浄法寺地塗(岩手県)、鳴子塗(宮城県)、川連漆器(秋田県)、会津塗(福島県)、鎌倉彫、小田原漆器(神奈川県)、村上木彫堆朱(新潟県)、新潟漆器(新潟県)、高岡漆器(富山県)、輪島塗、山中漆器、金沢漆器(石川県)、越前漆器、若狭塗(福井県)、木曽漆器(長野県)、飛騨春慶(岐阜県)、京漆器(京都)、紀州漆器(和歌山県)、大内塗(山口県)、香川漆器(香川県)、琉球漆器(沖縄県)である。ここに指定されていない地域でも、漆器を伝統としているところもあるので、japanと表現される漆器は日本を代表する伝統工芸品と言っていいと思う。

漆器とともに、寄木細工の家具・工芸品も、輸出された。その歴史については、先に説明した「近代工芸の精華」の中で、金子皓彦(てるひこ)さんが次のように説明している。

寄木細工の歴史は古く、西アジアで3000~4000年前ごろに始まったそうである。シリア・ダマスカスでは現在も生産され販売されている。1300年前に建てられた奈良の正倉院には、西アジア製の寄木細工製品がおよそ50点収められている。シルクロードを経て唐からもたらされたものである。当時の日本には、漆・螺鈿の技術があり、寄木細工は人気が出るところまではいかなかった。

寄木細工が盛んになったのは江戸時代になってからで、それも静岡であった。幕末には静岡製の寄木細工が外国に輸出され、飾棚がウィーン万国博覧会(1873年)で展示された。静岡の寄木細工は乱寄木で貝をちりばめた文様に特徴がある。150年ぐらい前になると、静岡から箱根へと主たる生産地が移動する。箱根が観光客でにぎわったのに対し、鉄道の開通によって静岡に立ち寄る人が少なくなったのが原因とされている。さらに、静岡の昭和15年の大火と20年の戦災によって絶えてしまった。一方、箱根では、受注を受けて海外に輸出されるようになった。輸出品であったために、同種のものは国内に残っておらず、金子さんが海外で買い戻しコレクションとして遺されている。なお、両地区の寄木とも漆が塗られている*1。このようにすることで、形や艶を長いこと保つことができる。寄木細工の小寄木文様は、異なる薄版の積層材を30度・45度・60
度の角度で切って、三角柱や四角柱を素材として、それらを寄せ、張り合わせることで作られる。主な文様に、三枡、市松、毘沙門、青海波、麻の葉、亀甲、六角目玉、矢羽根などがある。


先に述べたように漆器はいろいろな場所で作られていたが、それらがすべて輸出されたわけではない。寄木細工のところで、受注を受けて輸出用のものを作ったと説明したが、漆器も似たような状況にあった。

輸出された家具として知られていたのは、芝山漆器である。江戸時代の中ごろに、上総芝山村で、大野木専蔵が芝山象嵌を始めた。そのあと、彼は江戸に出て名前も芝山専蔵と改め、芝山象嵌を広めた。幕末に、幕府直参であった村田鋼平が、横浜港からの輸出品とした。芝山象嵌が外国商人から高い評価を得たのを機会に、横浜に職人たちが移住し分業体制による輸出向けの生産が本格化した。

明治時代中頃に行われたシカゴ万国博覧会(1893年)で、芝山象嵌の工芸品が入賞したのを契機にして、これまでの芝山象嵌とは異なる芝山漆器を作り始めるようになり、横浜には芝山師と呼ばれる職人がおよそ100人いて、海外貿易を中心に盛んに生産が行われた。しかし、関東大震災第二次世界大戦で打撃を受け、職人は減り続け、現在では宮崎輝生さんと横浜芝山漆器研究会によってわずかに命脈を保っている。なお、芝山漆器には、①材料を彫って磨いて作った芝山細工を木地に埋め込む平模様、②木でレリーフ状に鳥の体の形を作り、そこに羽の形に切取細工した貝を重ねて張り合わせる寄貝、③花びらなどを1枚1枚別に作り土台に張り付ける浮き上げの工法がある。

明治時代に輸出された工芸品は、輸出を目的にしていたために国内には存在していなかった。金子皓彦さんが欧米から買い戻すことで、明治時代に輸出された家具・工芸品を目の当たりに観察することができる。当時の工芸品を作成する技術力・芸術力の高さには、脱帽させられる。それと同時に、海外の趣味に合わせて輸出品を生み出した思考の柔軟性も素晴らしい。ジャレド・ダイアモンドさんが、明治時代の成功は「選択的変化」と言ったが、ここにもそれを見ることができる。伝統技術を生かしながら、欧米の嗜好や生活スタイルに合うように変化させて輸出した。今日でも学ぶところが多いと思う。

*1:本間寄木美術館のホームページでは、寄木に何を塗っているかの質問に対して次のように答えている。江戸・明治・大正までは漆を塗っていた。しかし、漆は透明でないため、薄い茶色の色合いになってしまう。そこで、木そのものの色を表現しようとして、昭和初期から50年頃まで蝋、ニス、ラッカーを塗っていたが、現在は透明なポリウレタン塗料を使っている。