bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

幕末の生糸仕切書を読む

幕末から明治初めにかけては、大地が揺れ動くような大きな変化を、この時代の人たちは感じたのではないだろうか。黒船が来航したのが嘉永6年(1853)、日米和親条約が翌嘉永7年に締結された。そして安政5年(1858)には、米国・英国・フランス・ロシア・オランダの5か国と修好通商条約を結んだ。翌安政6年6月2日(1858年7月1日)には横浜・神戸・長崎など5港が開港された。横浜には、ハード商会、ジャーディン・マセソン商会、スミス・ベーカー商会、クニフラー商会、シーベル&ブレンワルト商会など、手練手管の国際的な貿易商人が押し寄せてきた。

これまで長崎の出島で細々とオランダ相手に商取引をしていたとはいえ、横浜で貿易を始めようとした日本の商人たちは、外国との取引とは無縁に近かった人たちであろう。貨幣や重量の単位は各国で異なっているので、海外との取引には、外国為替や度量衡の変換など、これまでには学んでいなかった全く新しい知識を必要とする。外国の商社に飲み込まれるのではと危惧するところだが、その後の経緯を見ると、一からスタートしたにもかかわらず、彼らに伍して素晴らしい実績を上げたことが分かる。

その証拠ともいえるのが、彼らが残してくれた商取引上の文書である。先日、仕切書を紹介してもらう機会を得たので、それをもとに、幕末の商人がどのように取引をしたのかを見ていきたい。参考にするのは、『横浜市歴史博物館 常設展示案内』の103ページに掲載されている生糸仕切書である。この文書は、慶応3年(1887)10月9日付けで、差出人は亀屋善三郎(1927~99)である。横浜に庭園として有名な三渓園があり、それを造設したのは原富太郎(1968~39)で、善三郎はその祖父である。善三郎は生糸の取引で財を成しただけでなく、埼玉県の生誕地渡瀬と群馬県下仁田に近代的製糸工場を建設した。

取引で問題になるのは、重さの変換である。幕末には尺貫法が使われていて、貫・両(100両=1貫)・匁(10匁=1両)さらには斤(1斤=160匁)が使われていた。ここでの仕切書を理解するうえで必要なのは、斤(きん)と匁(もんめ)だけである。食パンを買うときに、斤を使うので馴染みがあると思う。1斤は600gである(今日のパンの1斤はこの重さにはなっていない)。

英米などではヤード・ポンド法が使われている。重量に関係するのはポンド・オンス(16オンス=1ポンド)である。1ポンドは454gである。日本の120匁が450gであることから、取引では、1ポンドと120匁とは同じとされた。そして120gを1英斤という。区別するために尺貫法での斤を和斤とする。この時、ヤード・ポンド法でのx英斤(=xポンド)は、120/160が0.75なので、和斤ではxを0.75倍したもの(=0.75x)となる。

古文書の解読は面倒だが、ここでの文章は数字が殆どで、数字と数字の間に入っているのは重さの単位である斤、分、リ(厘)なので、これらがどのように書かれているかが分かれば、おおよそのことは分かる。

仕切書の内容を図示すると下図のようになる。なお、仕切書には項目名がないので、ここではその内容に適している名称を付けて理解しやすくした。

ここでの取引はおおよそ次のようになっている。生糸売込商・問屋の亀屋善三郎が、仲買の小倉屋伊助から生糸四箇を仕入れ、それを英国商会のJardine Matheson(1番館)と米国商会のWalsh(2番館)に売却した。

その時の詳細は次の通りである。伊助は善三郎に総量257斤の生糸を渡した。梱包材量などを除くとその正味は253.78斤である。この時の計算は概算で、総量の98.75% を正味としている。善三郎は、その内の215.28斤をJardine Mathesonに、38.5斤をWalshに渡した。その時、手数料としてそれぞれから10.22斤、1.83斤を引いた。手数料に対する係数は、0.475である。手数料は、善三郎がもらったのか、あるいは外国商会がとったのかは不明である。その結果、それぞれに対する取引高は、205.6斤と36.67斤となった。

次の処理はこの取引高から売上金を計算することである。売上金は洋銀で計算されているが、この仕切書から判断すると、尺貫法での斤に対して、銀が何枚になるかが決められていたようである。このため、取引高に対して、尺貫法での斤での重さが求められている。ここでは、これまで示されていた斤での重さに対して0.75倍されているので、ここまでの斤は、ヤード・ポンド法での英斤、即ちポンドであることが分かる(一部に尺貫法での斤と見做しての説明があるが、間違っている)。取引高を尺貫法での和斤に計算し直すと、それぞれ153.8と27.5となる。

和斤に対する洋銀の枚数は商社ごとに異なっていたようで、100和斤に対してJardine Mathesonは875枚、Walshは830枚になっていた。このため、売上金はそれぞれ1345.75枚と228.25枚となる。合計すると1574枚となる。

伊助への支払額は、ここから諸経費30.14枚を引いた額となり、その額は1543.86枚である。なお諸経費は次のように計算されている。歩合・口銭(手数料)が25.18枚、荷造り・看貫(斤量を定めること)が4.53枚、蔵番が15匁、車力が6匁である。蔵番と車力への支払いは日本の通貨なので、これは洋銀へと変換される。10洋銀が485匁と決められているようで、これより0.43枚となり、全てを合わせると先ほどの30.14枚となる。

群馬文書館からは、吉村屋の仕切書が公開されている。吉村屋は、大間々町で金融業を営む吉田屋の出店で、慶応年間に大間々町の本店から独立し、明治初年には横浜で最も大量の生糸を輸出する売込商となった。1873年から1874年にかけては吉田幸兵衛、原善三郎、小野善三郎、三越得右衛門、茂木惣兵衛で横浜の生糸取扱い量の74%を占めていた。

この取引は次のようになっている。売込商・問屋の吉村屋・吉田幸兵衛(代清二郎)が、仲買の中島久左衛門から大間々堤糸二箇を仕入れ、それをオランダ商会のガイセン・ハイメル(8番館)に売却した。

仕入れた総量は126.25斤で、駕籠・風袋4.5斤、紙元結6.39斤が含まれていたので、正味は115.36斤であった。吉村屋とオランダ商会の間での手数料は設定されていないようで、正味がそのまま取引高になり、これを和斤に計算し直すと86.52であった。100和斤に対し洋銀は725枚に設定されていたので、627.27枚となる。諸経費に12.69枚要しているので、支払額は614.58枚であった。なお支払いは、前の例とは異なり、日本の通貨の金(450.22両)と銀(4.02匁)で払われた。

この当時の両替は大変だったと思われる。これを解消するために、明治13年(1880)には外国為替を専門とする横浜正金銀行(後に東京銀行に、そして三菱UFJ銀行へと変遷)が設立された。幕末頃の1両の価値がどの程度であったかは判然としないが、山梨県立図書館のホームページには、そば代金との比較では12~13万円、米価では3~4千円ぐらいと記載されている。これを用いると、吉村屋の取引は、そば代金比較では6000万円、米価では200万円ぐらいとなる。亀屋善三郎の取引は、この2.5倍程度だったので、それぞれ1.5億円と500万円である。換算の仕方によって大きく異なるものの、多額の取引だったことが分かる。

ここからは感想である。仕切書は生糸貿易の実務を詳細に示してくれた。また幕末期の商人たちが、度量衡や通貨での変換など複雑な商取引を、そつなくこなしていることがよく分かった。激動の時代に新しい知識が求められる中、よく泳ぎ切ったと感心させられる。仕切書は、取引の実態を透明性高く説明してくれたが、江戸時代の学びが新しい時代に対応するのに十分な知識と応用力を与えてくれていたことを改めて認識させられた。高度にAI化した時代を迎えている現代は、次の世代にどのような教育を与えてあげたらよいのかと改めて考える次第である。