bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

江戸五色不動のうちの目白・目黒・目青不動を訪ねる

一日空けて、江戸五色不動の残りの三つを訪れた。目白・目黒・目青不動の3寺である。これらの寺は下図に示すように江戸の東側にあり、それぞれ金乘院、瀧泉寺最勝寺教学院(赤マークの所)と呼ばれている。金乘院は真言宗で、瀧泉寺最勝寺教学院は天台宗である。

出発点は副都心線雑司が谷駅。最初に目指すのは目白不動尊が祀られている金乗院である。戦前は文京区関口にあった新長谷寺に祀られていたが、吸収合併により現在地に遷った。地下鉄を降りた後、目白通り目白駅とは反対方向に向かい、左側に宿坂通りが現れるので、その坂道をどんどん降りていく。中世の頃は、この辺に宿坂という関所があったと伝えられている。

坂を下りきるとそこは目白不動の山門である。左側には不動明王の石像がある。右側には観世音と書かれた石碑が立っている。金乗院(こんじょういん)は、開山永順が本尊の観世音菩薩を勧請して、観音堂を開いたのが草創とされていて、天正年間(1573~92)の創建と考えられている。昭和20年の戦災で焼失、昭和46年に再建された。一方、目白不動尊(新長谷寺)は元和4年(1618)に小池坊秀算により中興され関口駒井町にあったが、昭和20年の焼失により金乗院に合併され、本尊の目白不動明王像も遷された。

本堂。

不動堂。堂内には不動明王像が祀られていた。それほど大きくはなく、高さは25cmである。

槍術の達人の丸橋忠弥の墓。彼は由井正雪と共に慶安の変(江戸時代初期に起きた幕府転覆事件)に加担し処刑された。

青柳文藏の墓。彼は天保2年(1831)、仙台に日本で最初の公共図書館とされる青柳文庫を創設した。

寛政12年(1800)造立の鐔塚(つばづか)。

寛文6年(1666)造立の倶利伽羅不動庚申塔不動明王の化身である。

三猿が陽刻されている庚申塔。左は元禄5年(1692)、右は延宝5年(1677)に造立された。

次は目黒不動南北線で中目黒まで出て、そこからバスを利用することにした。バスに乗るために駅前の横断歩道を渡っているとき、バスの停留所が気になっていたため、横を見ながら歩いていたのだろう。突然ドカンとぶつかり衝撃を受ける。女性の方に大丈夫ですかと声をかけられる。彼女も前方を見て歩いていなかったのだろう。もろにぶつかり、頭に衝撃を受けた。女性の方は運動神経の良い人だったようで、私の二の腕をつかみ倒れるのを防いでくれていた。立場が変わったようで面映ゆかったので、思わず「ごめんなさい」と言って離れた。しばらくは強く打った顎が痛かったが、大事には至らなかった。人込みでは、よそ見をしながら歩いてはいけないと改めて言い聞かせて、バスを待った。子供の頃によく遊びに来ていた環六沿いの景色を懐かしんでいるうちに、最寄りのバス停の不動尊参道に着いた。

目黒不動瀧泉寺の寺伝によると、創建は平安時代初期の大同3年(808)、開山は慈覚大師(円仁)となっている。本尊の不動明王像は、慈覚大師の作と伝えられている。関東最古の不動霊場で、木原不動尊(熊本県)、成田不動尊(千葉県)と並ぶ日本三大不動のひとつである。

目黒不動の境内はこれまで拝観してきた不動と比較するととても広い。Google Earthで見るとよく分かる。バス停からは不動の裏側に出てくる道が近かったので、そちらを利用したが、説明は正面の方からしよう。

寺の正面の仁王門。

山門から入って右側にある阿弥陀堂

右斜め前方にある観音堂

さらに左横にある地蔵堂

大本堂へ向かう途中の階段にある役(えん)の行者倚像(いぞう)。役の行者は、奈良時代の山岳修行者で、修験道の祖とされている人で、この像は寛政8年(1796)の作である。

先の戦災で焼失、昭和25(1950)年に再建された大本堂。内部には不動尊が祀られている。目白不動尊と同じ程度の大きさだった。

大日如来坐像(不動明王は化身)。製作は天和3年(1683)とされる。蓮華座に結跏趺坐するこの像は、宝髪・頭部・体躯・両腕・膝など十数か所に分けて鋳造された。

境内には様々な種類の石像が祀られている。
不動明王に使える八大童子

晦日には一般へ開放され、除夜の鐘が撞かれる鐘楼堂。

中央は延命地蔵、右は掌善童子、左は掌悪童子

護衛不動尊。赤っぽい石碑には目黒不動明王垂迹縁起が記されてる。

良縁成就を願って訪れる人が多い愛染明王

知恵や知識、記憶の面でご利益があるといわれる虚空蔵菩薩

青木昆陽の墓。昆陽(1698~69)は江戸中期の儒者で、幕臣大岡忠相の知遇を得て書物方となる。8代将軍吉宗の命により蘭学を学び、また救荒作物として甘藷の栽培を推奨したために、甘藷先生と呼ばれた。

さて最後は目青不動最勝寺教学院である。JR線を利用して目黒から渋谷に出て、そこで田園都市線に乗り換えて三軒茶屋に向かう。寺は駅からすぐのところにある。大きな境内を有する目黒不動を見たあとなので、とても狭く感じられる。この寺は、慶長9年(1604)に、玄応和尚の開基により江戸城内紅葉山に建立されたと言われている。明治41年(1908)に青山からこの地に遷された。本尊は阿弥陀如来で恵心僧都の作と伝えられている。

不動堂。扉が少しだけ開けられていたので、不動明王を拝むことができた。やはり大きさはこれまでとそれほど変わりなかった。

本堂。

写真を撮り終わって歩を進めたとき、出っ張っている石に躓いた。前傾になりながら、やっとの思いで速足で前に数歩繰り出し、幸いにも転ばずに済んだ。転倒していたら大けがになったかもしれないと思うと、中目黒でのアクシデントともども、天からまだ見放されていないと安堵した。無事に目○不動巡りができてよかった。きっとご利益があるはずだと思い来年を迎えようと考えている。