bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

武相寅歳薬師如来霊場(6):寶袋寺・観護寺・舊城寺・弘聖寺を訪ねる

今日は昨日の続きで、横浜線十日市場駅から中山駅の間にある四つの寺を訪れた。久しぶりに晴れ、気温も20℃を越え、汗ばむ中での霊場巡りとなった。

寶袋寺のホームページによれば、この寺は慶長年間(1596-1615)に顕堂長察により開山された。建立地から、古い巾着(きんちゃく)が掘り出されたのでこの寺号がついたようだ。本尊の聖観世音菩薩は運慶作と伝えられている。門から入って右手に、寺の碑、掃除小僧の石像、そしてその背後に十六羅漢が安置されている。

本堂、

薬師如来と、脇像の日光と月光の菩薩が祀られている薬師堂、そして右側には鐘楼も、

次の観護寺へと向かう。横浜の郊外で、田園風景が広がっている。

オオデマリも見ごろ、

そして恩田川。この先で谷本川と合流し、鶴見川となる。

のどかな風景の中に、赤いのぼり旗をなびかせた観護寺があらわれた。

観護寺は、後述する印融法印(1435-1519)により開山された。本堂には、小さな厨子の扉が開けられ、薬師如来が祀られていた。左右には日光・月光の菩薩が安置されていた。

鐘楼、

印融法院(1435-1519)の墓。彼は中世の学僧で、現在の横浜市緑区三保の生まれである。高野山で研鑽を積み、無量光院の院主となった。晩年になって関東の真言宗の衰退を嘆き、長享2年(1488)頃に関東に戻った。そして三会寺や金沢光徳寺などに住して、真言宗の復興に勤めた。

邸内には愛嬌のある犬の像もあった。

次の寺へと向かう。このようなのどかな地帯を、随分と長い8両編成の横浜線が走っていく。

イチリンソウがきれいに咲いていた。

景色を楽しんでいるうちに舊(旧)城寺に就いた。山門、

ホームページで舊城寺の歴史が紹介されているが、内容がすばらしいので、概略を紹介しよう。舊城寺という名前から推察できるように、ここはかつての城跡である。伝承によると、室町時代に関東上杉氏の一人の憲清が「榎下城」という小さな山城を築いた。関東上杉氏が衰退したあと、「久保城」などと名前を変えながら、小田原北条氏のときも、小机城の出城として役割を果たした。豊臣秀吉の小田原攻めのときまで、何度も廃城を繰り返しながら使われていたそうである。江戸時代になって、久保村の長の佐藤氏の住居となる。しかし佐藤小左衛門のときに男子が生まれず、財産を全て娘に譲って、死後ここに寺を建てるように遺言したそうである。慶長年間(1596-1614)に城跡に寺院が開かれ、「舊城寺」と名付けられた。
本堂、

薬師堂。ここの薬師如来は他のそれとは異なり、黒ずんでいた。年代物と感じたので、住職に聞いたところ、室町時代の作と答えられた。

境内には大木が多い。銀杏、

そしてカヤ、

最後は、弘聖寺。昨日断念したところだ。携帯の地図を頼りに、家並に囲まれた細い道を歩いていく。途中から急な坂となり、山のてっぺんに寺があるのだろうと勝手に解釈して登っていく。頂についても寺らしきものは見えない。若い女性がやはり寺を探しているようで、頂のあたりを行ったり来たりしている。携帯が指示しているところには柵がある。柵の先をよく見ると道らしきものがあるが、通行禁止と書いてある。近道なのだろうが、行けそうもない。携帯が示している先の山の麓に寺があるだろうとあたりをつけ、ぐるりと下の道を回ることにした。山感に頼っての行程だ。しかしあてにしている霊場巡りの赤いのぼり旗が一向に見えてこない。不安になりかけたが、ここしかないという道に入ってみると寺らしきものが見えた。しかし赤いのぼり旗はない。とてもいやな気持がしたが、決心してその寺を目指した。なんとこの寺は赤いのぼり旗を立てていなかった。霊場であることを示す一本の柱だけが建っていた。
弘聖寺は、新編武蔵風土記稿によれば、寛永2年(1631)に没した笠原彌次兵衛の開基とされている。とても立派な本堂、

小ぶりだがしっかりした薬師如来が祀られていた薬師堂。

帰りに安らぎを与えてくれた藤の花。

今日の最後の寺院探しは大変だった。携帯のマップは、交通手段を「徒歩」にすると、生活道路(歩行者用の抜け道)となっている近道を教えてくれる。大きな通りでないため、どこら辺を歩いているかの方向感覚が失われ、不安を感じながらの行程となる。今回は人が入れないような山道へと誘われ、往生した。くねくねとした生活道路ではなく、大きな道に誘ってくれないかと、携帯に不満をたらたらといいながら歩き回り、本当に疲れた。