bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

東海道五十三次の神奈川宿を訪れる(3)

この日(4月25日)は、前の日に写真を撮りそこなった史跡を巡った。前日とは打って変わって真っ青な空、気温もそれほど高くはなく、散歩を兼ねながら歴史的建造物を見るのにはとても恵まれていた。

出発地点には東横線反町駅を選んだ。この線は桜木町駅を終点としていたが、2004年にみなとみらい線元町・中華街に替わった。これに伴い東白楽からは地下を走るようになり、従来の線路のあとは整備されて東横フラワー緑道となった。反町駅からもこの緑道を利用することができ、神奈川宿の歴史道につながっている。

東横フラワー緑道は、その名の通り、緑豊かな歩道である。

高島山トンネルの中、

トンネルを抜けると、川端康成の雪国では季節だったが、ここでは時代をタイムスリップさせてくれる。令和から江戸へと変わる旧東海道に出会うことができる。横浜市歴史博物館には、神奈川宿を復元した模型がある。今回巡るところは模型の左半分、ちょうど写真に納まった領域である。写真中央部が最初に訪れる金比羅神社付近である。この左側は台町。かつては急坂な道として広重によって描かれたところである。

まずは大綱金刀比羅神社。社伝によると平安末期の創立と伝えられている。眼下の神奈川湊に出入りする船乗りたちの守り神であった。
鳥居付近、

金比羅宮と天狗。「我こそは武州・高尾山の天狗なり。いつもは上総鹿野山に住む仲間の天狗の所へいくのだが、ここでいつも休んで居る。この松はわしの腰掛松。決して伐ってはならぬぞ」という天狗伝説が残っている。

滝と池、

台町の坂を上っていくと田中屋に出会う。文久3年(1863)の創業で、前身の「さくらや」は安藤広重の「東海道五十三次」にも描かれている。坂本龍馬の妻であった「おりょう」は、勝海舟の紹介で、明治7年に田中屋で働き始めた。英語が話せ、月琴を弾けた彼女は、外国人の接待に重宝であった。

横浜市歴史博物館には、さくらやの復元模型がある。ここには高杉晋作やハリスなども訪れた。

旧東海道を登り切ったあたりに神奈川台関門跡を示す碑がある。開港後に外国人が何人も殺傷されたので、各国の領事たちが幕府を激しく非難した。幕府は安政6年(1859)に関所や番所を設けて警備を強化した。神奈川宿の東西にも関所が設けられ、ここは西側の関所である。明治4年(1871)に廃止された。

ここで、旧東海道を離れ、一つ上の道を目指す。しばらく行くと「かえもん公園」が出てくる。前述した新橋・横浜間の鉄道を開通させるための堰堤を建造した高島嘉右衛門についての説明が、この公園の中に設けられていた。それによれば、彼は天保3年(1832)に江戸の材木商の子として生まれた。鉄道の開通に寄与しただけでなく、ガス会社設立、学校の設立、易学の普及などで、開国後の横浜の発展に尽くした。

さらに歩を進めると高島山公園。ここからは眺めがよく、新宿の高層ビルを見ることができた。

高島嘉右衛門を顕彰する望欣台の碑もある。

三宝寺。嘉永4年(1851)に住職になった弁玉は、江戸末期から明治初期にかけて活躍した歌人でもあった。

この寺は昭和50年に開宗800年を記念して高架柱上に本堂を新築した。ここも12年ごとの武南寅歳開帳薬師如来霊場に参加していた。

次は開国後にアメリカ領事館となった本覚寺
山門、

アメリカが領事館としたとき、山門は白いペンキで塗装された。山門にはその跡が未だに残っている。

山門を入ったところに全国塗装業者合同慰霊碑がある。アメリカ領事官が境内に建設されたときの塗装こそが「我が国洋式塗装の先駆け」ということで、業界の先達たちを合祀するために慰霊碑を建立した。

本堂、

鐘楼、

横浜開港の首唱者として、「岩瀬肥後守忠震(ただなり)顕彰之碑」が建てられていた。

東海道線京急本線を跨いでいる青木橋を渡って次の史跡へ向かう。この橋は日本最初の跨線橋である。前述したが新橋・横浜間に鉄道を通すとき、この辺りの丘を切通しにしたため、丘の中腹を通っていた東海道が鉄道で分断された。このため、これを跨ぐ橋が建造された。橋から見た京急本線の神奈川駅。駅舎は、現在は青木橋の東京側にあるが、かつては反対の横浜側にあった。

橋を渡り切り宮前商店街に入ると、開港のときにフランス公使館に充てられた甚行寺が現れる。この寺は、明暦2年(1656)に意圓が堯秀を招いて草創したと伝えられている。
山門、

本堂。

この隣は普門寺。薩摩藩士がイギリス人を殺傷した生麦事件(文久2年(1862))をきっかけにイギリス軍とフランス軍が駐留するようになった。そしてイギリス軍士官の宿舎となったのがこの寺である。ここは前述の洲崎大神の別当寺であった。普門という名前は、洲崎大神の本地仏である観世音菩薩を安置したとき、この菩薩が多くの人々に救いの門を開いているということで名付けられたそうである。

この日の旅はここで終わり、旧東海道の宮前商店街を引き返し、家へ戻るために神奈川駅へと向かった。

二日間にわたり神奈川宿を見学した。江戸時代を通して神奈川宿は、神奈川湊を擁していたため、それなりに活気のある宿場だっただろう。しかし開港後にいくつかの寺が外国領事館に充てられたことで、宿場の様子は一変した。これまで外国人を見たことがなかった宿場の人々が普段の生活の中で出会うことになったのだから、驚愕するような変化であっただろう。恐れも抱いたことだろうが、興味津々でもあっただろう。ヘボン塾などで学び、西洋の学問と英語でのコミュニケーション能力を身に着けた人たちが、このあとの近代化の中でも活躍する。近代化の震源地ともいえる神奈川の宿について、これまでほとんど知らなかったので、この二日間はとても勉強になった。関連する書籍があれば読んでみようと思いながら家路についた。