bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

豪徳寺・松陰神社を見学する

世田谷のボロ市を楽しんだ後は、お昼ご飯も食べずに周囲の歴史散策へと向かい、中世の吉良氏の世田谷城、彦根藩井伊氏菩提寺豪徳寺吉田松陰を祀った松陰神社を巡った。

最初は世田谷城で、ウィキペディアには次のように説明されている。貞治5年(1366)に吉良治家に世田谷郷が与えられ、応永年間(1394~26)に居館として整備された。吉良成高の頃に城郭として修築、天正18年(1590)に吉良氏朝の代に小田原征伐をした豊臣氏に接収・廃城された。

吉良氏といえば、忠臣蔵で悪者とされる吉良上野介を思い出す。こちらの方は本家筋で、世田谷の吉良氏は分家筋に当たる。室町時代の将軍は足利氏であり、吉良氏はその一族である(鎌倉時代足利義氏の庶長子の長氏が地頭職を務めた三河国吉良荘を名字にした)。室町時代三河吉良氏と奥州(武蔵)吉良氏とに分かれた。江戸時代には、三河吉良氏は家格の高さから高家とされた。高家は一人だけという事で、奥州(武蔵)吉良氏は蒔田氏に改姓した。赤穂事件で改易となった吉良家は、浅野家とともにその後再興された。蒔田氏と三河吉良氏分家の東条家が吉良に復姓し、この両家が明治維新まで続いた。吉良氏一族の墓は、豪徳寺に隣接する勝光院にある。

下図は明治晩年の頃のもので、その中央部は世田谷城があったところである。崖のマークがあるところが空堀で、豪徳寺のあたりも世田谷城に含まれていた。

空堀の現在の様子。

次は隣の豪徳寺で、その歴史もウィキペディアによれば次のようである。豪徳寺付近は先に説明したように、中世の武蔵吉良氏が居館とし、天正18年(1590)の小田原征伐で廃城となった世田谷城の主要部だったとされる。文明12年(1480)に世田谷城主・吉良政忠が伯母で頼高の娘である弘徳院のために「弘徳院」と称する庵を結んだ。当初は臨済宗に属していたが天正12年(1584年)に曹洞宗に転じた。寛永10年(1633)に彦根藩2代藩主・井伊直孝が井伊家の菩提寺として伽藍を創建し整備した。寺号は直孝の戒名である「久昌院殿豪徳天英居士」によった。平成18年(2006)に猫の彫り物が施された三重塔が新たに建立された。なお豪徳寺は江戸表の墓所で、国許彦根墓所清凉寺(滋賀県彦根市古沢町)である。

山門。山門の扁額には「碧雲関」と書かれており、「外の世界と境内を隔てるために建てられた門」を意味すると言われている。

内側からの山門。

地蔵堂

三重塔。高さは22.5メートルで、釈迦如来像、迦葉尊者像、阿難尊者像、招福猫児観音像が安置されている。

仏殿。延宝5年(1677)に建立。正面に篆額「弎世佛」があり、現在・過去・未来の三世を意味する阿弥陀如来坐像、釈迦如来坐像、弥勒菩薩坐像が安置されている。


招福猫塔。ある日、この地を通りかかった鷹狩り帰りの殿様が、寺の門前にいた猫に手招きされて立ち寄り、寺で過ごしていると、突然雷が鳴り雨が降りはじめた。雷雨を避けられ和尚の話も楽しめた殿様は、その幸運にいたく感動したそうだ。その殿様が彦根藩主の井伊直孝だったと伝えられている。

招福殿。昭和16年(1941)に建立、令和4年(2022)に改修された。

招福猫。何匹もの招き猫が所狭しと並べられていて、その多さに仰天させられる。お店で招福猫を販売していたが、大きいものはすべて売り切れだったのにもびっくりした。

法堂(本堂)。昭和42年(1967)に造営され、聖観世音菩薩立像、文殊菩薩坐像、普賢菩薩座像、地蔵菩薩立像が安置され、井伊直弼肖像画が飾られている。

納骨堂。昭和12(1937)年に建立、令和3年(2021)に改修された。

豪徳寺での最後の見学場所は井伊家の墓所である。NHK大河ドラマでは井伊家が持て囃されているようで、昨年の「どうする家康」では伊那谷からやってきた美少年ということで井伊直政(板垣季光人)が、また5年ほど前の「おんな城主直虎」では井伊直虎(柴咲コウ)が、そして大河ドラマ最初の作品とされる「花の生涯」では井伊直弼(尾上松緑)が取り上げられた。直政(1561~02)は彦根藩井伊家初代藩主、直弼(1815~60)は16代藩主、そして直虎は真実ははっきりしないが直政の養母と伝えられている。直政は徳川四天王と言われる人物で、家康の天下取りに貢献した功臣である。直弼は、ウィキペディアには次のように紹介されている。幕末期の江戸幕府にて大老を務め、開国派として日米修好通商条約(1854)に調印し、日本の開国・近代化を断行した。また強権をもって国内の反対勢力を粛清したが(安政の大獄:1858)、それらの反動を受けて暗殺された(桜田門外の変:1860)。

豪徳寺を井伊家の菩提寺とした井伊直孝の墓(久昌院殿正四位上前羽林中郎將豪徳天英大居士)。

幕末に開国をした井伊直弼の墓(宗観院殿正四位上前羽林中郎将柳暁覚翁大居士)。

豪徳寺から松陰神社へ向かう途中に山門が見事な朱色の勝國寺があった。この寺は世田谷城主吉良家の祈願寺および世田谷城の鬼門除けとして天分23年(1554)に創建、 太平洋戦争時に焼失、昭和29年(1954)に旧本堂が再建され、平成12年(2000)に現本堂が建立された。

山門。吉良家並びに徳川家15代にわたりご朱印寺として年12石が寄進され、格式の高い朱塗りの山門となっている。

本堂

最後は松陰神社である。この神社は名前が示すように吉田松陰を祀っている。吉田松陰(1830~59)は、幕末の尊王論者で長州藩士であった。ペリーが浦賀に再来した時、海外密航を企て失敗し、萩の野山獄に入れられた。出獄後に玉木文之進が創設した松下村塾を継ぎ、尊王攘夷運動の指導者を育成した。日米修好通商条約が締結されると、尊王論者であった松陰は反幕府的言動を強め、老中間部詮勝(まなべあきかつ)暗殺の血盟を結ぶ。藩も捨てておけず、野山獄に再収容した。幕府も疑惑をもち、江戸へ呼んで伝馬町の獄に投じ、安政の大獄で刑死した。

ウィキペディアによれば、松陰神社の場所にはかつて長州藩主の別邸があり、松陰が安政の大獄で刑死した4年後の文久3年(1863)、高杉晋作など松陰の門人によって小塚原の回向院にあった松陰の墓が当地に改葬され、明治15年(1882)に門下の人々によって墓の側に松陰を祀る神社が創建された。現在の社殿は1927年から1928年にかけて造営されたとされている。

松陰神社(鳥居の写真は、観光客が大きく入り込んだ写真しかなく、残念ながら掲載できない)。

松下村塾。ここの建物は、山口県萩の松陰神社境内に保存されている松下村塾を模したものである。

縁側の上がり口の所に、棕櫚縄を十文字に掛けた石があるが、これは止め石(とめいし)という。日本庭園や神社仏閣の境内において、立ち入り禁止を表示するために用いられる。

松陰の墓所には、彼の他にも維新の時に亡くなった烈士達が弔われている。

世田谷ボロ市の後の歴史散策巡りはこれで終わり、世田谷線三軒茶屋駅まで戻って遅いお昼をとった。食事中にも出た話だが、幕末の頃は世田谷は当時の政争からは離れた長閑な農村であったと思われるが、激動の時代を代表するような不倶戴天の二人の墓が、この地でしかも隣接して設けられていることになんとも不思議な気がした。二人の業績に対する評価は、彼らがなくなった後の時代でも、高く評価されたり低く評価されたりと、彼らが生きていた時代と同じように激しい変化の中にある。この後の時代でも同じことが繰り返されることが想像され、直弼も松陰もいまだに平穏ではいられないだろうと心配になった。しかし我々は満腹になったので、無地行事を終えたことの解放感もあり、幸せの絶頂にあった。