bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

増田晶文著『稀代の本屋 蔦屋重三郎』を読む

来年の大河ドラマは蔦重三郎である。蔦重と愛称される彼は、歌麿写楽など、この時代のエンターテイナーともいえる戯作者・絵師を生み出した。クリエイターにしてプロデューサーであり、また新しい時代を作り出した町人でもある。ドラマの主演は横浜流星さん、脚本は森下佳子さん。森下さんは「女城主直虎」や「大奥」など多くのテレビドラマの脚本を手掛けているのでご存じの方も多いだろう。他方、流星さんは2月末に配信される映画「パレード」で長澤まさみさんと共演される若手の有望株である。このように書くと、本を読むきっかけになったのは、大河ドラマだと思われてしまいそうだがそうではない。江戸から明治への激動の時代を、なぜ日本が近代化への道を進むことができたのかを調べている中で、木版印刷が普及したことが大きな要因だったのではないかと考えたことによる。

人口学者で歴史学者であるエマニュエル・トッドさんが彼の研究の集大成ともいえる著書『我々はどこから来て、今どこにいるのか?』の中で、15世紀中ごろにグーテンベルグ活版印刷術を開発し、16世紀初めごろにルターがプロテスタンティズム宗教改革の幕を切って落としたことが、識字化を誘引したと記している。これらがドイツで起きたことから、長子相続・プロテスタンティズム・識字化には相互関係があると説明している。彼はこの関係を利用して「文字表記/長子相続」の連続展開の中に一つのロジックが展開できるといっている。彼のこの考え方に魅力を感じて、出版物が急激に増えていく時代の流れに身を委ねたというより、大河を作り出したといえる蔦重三郎はどのような人だったのかを知りたくなり、関連の出版物を漁った。アマゾンのサンプル本で引っかかったのがこの本である。これは歴史の解説書ではなく小説なので、時代のとらえ方は増田さんの感性によっている。著者の優れた才能によって、この時代を生きた人の考え方や生き方が、解説書では得られない生々しさで、時には滑稽に描かれていてなかなか面白い。

本の最初のほうで蔦屋重三郎について要領よくまとめられている。主なところから紹介すると次のようである。蔦屋重三郎が、本屋稼業を始めたのは、安永3年(1774)である。吉原で頭角を現し、9年後に日本橋に進出した。吉原の遊女から廓までを街ごとに網羅した細見、浄瑠璃の稽古本、そして狂歌本・黄表紙・洒落本と手を広げ、錦絵、艶本(えほん)の分野でも好調であった。これらは町人の機微を穿っていて、これらの書籍や絵は江戸の町において紙価を高めた。重三郎は蔦重と親しみを込めて呼ばれ、この名前に江戸の人々は「粋」や「通」へのあこがれを重ねた。

蔦重は吉原生まれで本名は柯理(からまる)、父は尾張の人で丸山重助、母は江戸の人で広瀬津与である。蔦重が7歳の時に両親は離婚し、尾張屋という引手茶屋を営む叔父(姓は喜多川)に引き取られた。遊郭へ向かう粋な客は、直接はそこに向かわず、まずは茶屋に上がり一服する。吉原細見を見て遊女の品定めをしたり、茶屋から紹介してもらうなどして、遊女を茶屋に呼び出す。遊女の遊郭から茶屋への道行きは花魁道中となる。引手茶屋では酒や料理だけでなく芸者・芸人・幇間(ほうかん)も手配し、どんちゃん騒ぎをする。そのあと一夜の妻を伴って遊郭へとしけこむ。

蔦重が青年期を迎えたときは、田沼意次江戸幕府の実権を握っていて、市場経済の発展を促す重商政策を押し出していた。全業種において株仲間が組織され、本屋もそうであった。限られた商人だけが市場をわがものにでき、豪商は見返りとして運上金や冥加金を収めた。このころの江戸は、品物が動き銭が回り、多くの人がかかわり、流通が活性化され、商人の時代となっていた。

蔦重が出版への手掛かりを得たのは、地本(じほん)問屋の鱗形屋(うろこがたや)から吉原細見の改所(あらためどころ:編集者)を請け負ったことである。彼が改所をした細見は評判となり、おろし小売りへと権利を拡大していく。そして初めての本づくりとなったのが『一目千本(ひとめせんぼん)』である。花器にいけられた花がたくさん描かれていて、それぞれの花にお上臈(じょうろう:格の高い遊女)の名前が添えられている(図は国書データベースより)。本屋で売られたのではなく、ここに名前が載っているお上臈たちの手元に置かれ、その上客が大枚を払って手に入れた。お上臈たちがあらかじめ何冊必要とするかを申告しその分だけしか刷らなかったので、まったく損をすることはなかった。本の内容でも販売方法でも蔦重はクリエイティビティーをいかんなく発揮した。

鱗形屋が不祥事を起こした隙をついて、蔦重は細見版元となり、細見『籬(まがき)の花』と『青楼美人合姿鏡(せいろうびじんあわせすがたかがみ)』(画工は北尾重政と勝川華章、図はWikimediaより)の開版を手掛けた。

ここまで義兄の営む茶屋の店先を借りて商売をしていたが、安永6年(1777)に書肆として独立し、吉原で耕書堂を始めて、浄瑠璃の稽古本や往来物を手掛ける。そうこうしているうちに鱗形屋がまた不祥事を起こし、さらには日本橋通油町で地本問屋を営む丸谷小兵衛が株や店舗を身売りする機会をつかんで日本橋に進出し、吉原という限られた土地ではなく江戸を相手とする商売へと拡大を図った。

蔦重は、15歳年上の朋誠堂喜三二(出羽国久保田藩定府藩士・江戸留守居)、6歳年上の恋川春町(駿河小島藩滝脇松平家の年寄本役・石高120石)と親交を結び、黄表紙で大評判となった。かちかち山と仮名手本忠臣蔵のパロディである『親敵討腹鼓(おやのかたきうてやはらつづみ)』*1で、朋誠堂喜三二が文を、恋川春町が画を担当した(図は国書データベースより)。

蔦重はまた多くの作者と画家を育てた。鳥山石燕の弟子である喜多川歌麿(生年・出生地・出身地など不明)、志水燕十(幕臣だが小禄)を活躍させた。北尾重政に浮世絵を学んだ山東京伝(質屋・岩瀬伝左衛門の長男)は黄表紙の画工として出発させ、黄表紙『御存知商売物(ごぞんじのしょうばいもの)』は彼の出世作となった(図は国書データベースより)。

同年代の大田南畝(御徒の大田正智・母利世の嫡男)は協力者とも言える。黄表紙『嘘言八百万八伝(うそはっぴゃくまんぱちでん)』*2を出版し(図は国書データベースより)、また山東京伝の才能を見出したとされている。

ところが田辺意次が失脚し、松平定信寛政の改革(1787~93)を始めると出版に対する規制も強まる。蔦重は身上半減、京伝は手鎖50日という処罰を受けた。喜三二は藩主佐竹義和より叱責を受けて筆を断ち、春町は当局の召喚を受けたが応ぜず、ほどなく没した(おそらく自害)。喜三二の黄表紙『文武二道万石通(ぶんぶにどうまんごくとおし)』(図は国書データベースより)、類似書である春町の『鸚鵡返文武二道(おうむがえしぶんぶのふたみち)』が、松平定信の文武奨励策を風刺しているというのが理由であった。

松平定信が失脚すると蔦重は新しい分野を開拓する。期待したのは喜多川歌麿であった。蔦重はかねてより黄表紙・洒落本・狂歌本を出版する中で、歌麿の画の才能を高めるために心を砕いてきた。狂歌絵本『画本虫撰(えほんむしえらみ)』で虫を本物であるかのように描かせた(国書データベースアーカイブがある)。さらには狂歌絵本『潮干(しおひ)のつと』で貝を描かせた(図は国書データベースより)。準備の整ったところで艶本『歌まくり』を世に送り出した。

松平定信が失脚して規制緩和が期待されるなかで、蔦重は江戸の人々に楽しんでもらおうと歌麿美人画艶本を企画したが、歌麿から蔦重の支配は受けないと断られてしまう。そこで蔦重は、美人画の向こうを張って役者絵に挑む。しかも名が売れている絵師ではなく、コンテストで選ぶことにした。それぞれの絵師に、特異な役者絵を持ち寄らさせ、その中から未開化の才能を見出すという方法をとった。この網に引っかかったのが東洲斎写楽である。蔦重に嫌というほどの注文を付けられながら何回も何回も絵を描かせられ、名人の域に達したというところで、28枚の黒雲母摺大首絵の役者絵を完成させた(図はウィキペディアより)。

写楽の絵は役者の良い面も悪い面も強調した絵で、現代流にいうとデフォルメされ、これまでにない創造性に優れたものであった。しかし彼の活動は長くは続かず、しばらくして姿を消した。同じように蔦重の体の衰えも激しく、享年49歳で新しい文化を切り開いた稀代の本屋も命を閉じた。

読後感である。蔦重と戯作者・絵師(喜三二・春町・歌麿写楽など)との日常でのやり取りは、作者の創作の部分が多いことと思われるが、見事に描かれていて、読者をひきつけてくれる。江戸の人々が大衆文化の時代を切り開いていく様子がその時代に一緒にいるかのように感じさせるほどに、身近に書かれている。小説家の存在が大切だと改めて認識させてくれた。

ところで次の時代に向けてこの時代の若者たちは、儒学特に朱子学の勉強に励んだ。寺子屋・藩校・私塾などを利用しながら考える力を身につけていった。これには世の中全体での識字化率を高めることが必要であったが、漢字・仮名を書記言語とする日本においては、アルファベットをそれとするヨーロッパ諸国と比較するとそのハードルは高い。これを緩めるためのバッファとして、いわゆる大衆本の黄表紙狂歌本、洒落本などが大きく働いたと考えることができる。その意味において、蔦屋重三郎の業績は高く評価されてよいと思う。

*1:この本の中での言及なし

*2:この本の中での言及なし