bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

津軽・弘前を旅するー弘前城と歴史

今回弘前を訪れた主な目的は、満開のソメイヨシノを心ゆくまで堪能することであったが、その他にもいくつかの目的があった。その一つは、小説や紀行文で興味深く描かれている弘前の地を踏み、そこの歴史に触れてみたいという願いであった。青森県は、江戸時代には西側の弘前藩(津軽藩とも言い藩庁は弘前)と東側の盛岡藩(南部藩とも言い藩庁は盛岡)に分かれていた。下図は、Wikipediaからのもので、津軽地方は、津軽平野を中心とした青森県の西半分である。

司馬遼太郎さん(1923~96)は、紀行文『街道をゆく』の「北のまほろば」で、けかち(飢餓)に悩まされてきたこの地には、縄文の豊かな生活の跡が埋まっていると述べている。

その部分を引用すると、「私は、まほろばとはまろやかな盆地で、まわりが山波にかこまれ、物成りがよく気持のいい野、として理解したい。むろん、そこに沢山に人が住み、穀物がゆたかに稔っていなければならないが。[中略]。ところで、青森県津軽と南部、下北)を歩きながら、今を去る一万年前から二千年前、こんにち縄文の世といわれている先史時代、このあたりはあるいは〝北のまほろば〟というべき地だったのではないかという思いが深くなった。[中略]。津軽も、あるいは南部をふくめた青森県ぜんたいが、こんにち考古学者によって縄文時代には、信じがたいほどにゆたかだったと想像されている。むろん、津軽だけでなく、東日本ぜんたいが、世界でもっとも住みやすそうな地だったらしい。山や野に木ノ実がゆたかで、三方の海の渚では魚介がとれる。走獣も多く、また季節になると、川を食べもののほうから、身をよじるようにして──サケ・マスのことだが──やってくる。そんな土地は、地球上にざらにはない」、と描かれている。

司馬遼太郎さんが指摘するように、縄文時代には、遮光器土偶で有名な亀ヶ岡石器時代遺跡(つるが市)や、大規模集落跡が発見された三内丸山遺跡が存在し、定住型の狩猟採集生活が営まれていた。土偶や土器の優れた装飾や大規模な集落などから、縄文の人々がこの地で豊潤な生活をしていたことが容易に想像できる。

弥生時代になると、2400~2300年前に砂沢遺跡(弘前市三和)で、そして2100~2000年前に垂柳遺跡(田舎舘村)で稲作が始まったが、紀元前1世紀には稲作は放棄されてしまう(再開されるのは6世紀ごろ)。縄文の文化が狩猟と交易であるのに対して、弥生の文化は蓄積である。稲作がすぐに棄却されたのは、弥生の文化に移行しないでも、作物が豊潤で交易が盛んな縄文の文化の中で、より満たされた生活ができるとこの土地の人々は判断したのだろうか。知りたいところである。

歴史を振り返ると、奈良時代から鎌倉時代にかけての東北地方は、縄文と弥生の文化がせめぎあっている。そして、その戦線は次第に北上していく。鎌倉時代の中ごろから南北朝時代にかけて、押しつぶさそうな縄文の文化が、あの「北のまほろば」が、最後の光彩を放つ。安部龍太郎さんが小説『十三の海鳴り』で、蝦夷地から若狭にかけての日本海交易及び中国大陸や沿海州方面との北方交易で繫栄した十三湊を中心とするまほろばの津軽を、躍動的に描いた。

少し時代を遡って津軽の歴史を観察すると、鎌倉時代が始まるころ、源頼朝は栄華を極めた奥州藤原氏を滅ぼし、鎌倉幕府の有力御家人陸奥留守職とする。しかし、鎌倉幕府の2代執権・北条義時は奥州安倍氏奥州藤原氏の流れをくむ安藤氏を、蝦夷管領に任じ、陸奥の支配を任せた。

鎌倉時代末期には、安藤氏は蝦夷沙汰代官職を務め、津軽地方を本拠地に出羽国秋田郡から下北半島まで一族の所領を広げた。13~15世紀前半の十三湊は、出土した多数の土器や、少数だが奢侈品の中国陶器・白磁四耳壺などが含まれていることや、大規模な都市が形成されていたことを示す遺構などから、国際港湾都市として繁栄していたことが明らかになってきている。十三湊だけでなく安藤氏支配下の各湊では、上方からの織物・古着・酒類穀物・雑貨品などが陸揚げされ、北の産物である昆布・鮭・マス・ニシンの油などが積出され、繁栄していた。

しかし、この繁栄も長くは続かなかった。南北朝時代(1336~1392)には、陸奥西部・津軽地方に勢力を有していた安藤氏は南朝方に、東部・南部地方の(三戸)南部氏は北朝方となる(ただし、八戸に拠点を置いた根城南部氏は南朝側についたが、東北の地で両者が争うことはなかった。南朝の滅亡とともに三戸南部氏の麾下に入る)。そして両者の抗争は応永年間(1394~28)に始まる。南部氏は、足利幕府によって陸奥国司に任命され、安藤氏は巧みに生き延びようとするものの享徳2年(1453)に滅ぼされ、津軽は南部氏に支配されてしまう(南北朝時代に安藤氏は秋田と津軽に分立し、前者を上国家、後者を下国家となる。上国家は秋田氏を名乗り、江戸時代を通じて大名として存続する。また、下国家の方は分家筋が系統を保ったようである)。

延徳3年(1491年)、十三安藤氏残党の反抗に対処させるために、南部(大浦)光信が津軽西浜種里に移封されたと伝えられている。光信は津軽大浦家の祖とされ、その5代目は大浦為信である。為信は、なかなかの策略家で、天正17年(1589年)に、石田三成を介して豊臣秀吉に名馬と鷹を献上する。うまく立ち回った為信は、秀吉から津軽三郡(平賀郡、鼻和郡、田舎郡)ならびに合浦一円の所領を安堵され、南部氏から独立する。この時の独立に対して、南部氏側に遺恨が残り、江戸時代を通じて津軽藩南部藩は対立関係にあったことは有名である。

太宰治さんは、この地(北津軽郡金木村(現在五所川原市))の出身で、津軽を描いている。司馬遼太郎さんが、津軽まほろばの国と高揚感をもってたたえているが、太宰治さんは、津軽を悲しき国と嘆いていると『街道を行く』の中で司馬遼太郎さんは指摘している。二人の津軽に対する見方が正反対なのは、子供のころから住んでいた深い経験と、旅人としての表面的な浅い経験との違いから生じたのだろうか。あるいは二人の性格の違いによるものなのだろうか、知りたいところである。

さて、太宰治さんは小説『津軽』の中で、弘前城と為信を含む歴代の藩主について述べている。すなわち、「弘前城。ここは津軽藩の歴史の中心である。津軽藩祖大浦為信は、関ヶ原の合戦に於いて徳川方に加勢し、慶長八年、徳川家康将軍宣下と共に、徳川幕下の四万七千石の一侯伯となり、ただちに弘前高岡に城池の区劃をはじめて、二代藩主津軽信枚(信牧とも:のぶひら)の時に到り、やうやく完成を見たのが、この弘前城であるといふ。それより代々の藩主この弘前城に拠り、四代信政の時、一族の信英を黒石に分家させて、弘前、黒石の二藩にわかれて津軽を支配し、元禄七名君の中の巨擘とまでうたはれた信政の善政は大いに津軽の面目をあらたにしたけれども、七代信寧(のぶやす)の宝暦ならびに天明の大飢饉津軽一円を凄惨な地獄と化せしめ、藩の財政もまた窮乏の極度に達し、前途暗澹たるうちにも、八代信明、九代寧親(やすちか)は必死に藩勢の回復をはかり、十一代順承(ゆきつぐ)の時代に到つてからくも危機を脱し、つづいて十二代承昭(つぐあきら)の時代に、めでたく藩籍を奉還し、ここに現在の青森県が誕生したといふ経緯は、弘前城の歴史であると共にまた、津軽の歴史の大略でもある。津軽の歴史に就いては、また後のペエジに於いて詳述するつもりであるが、いまは、弘前に就いての私の昔の思ひ出を少し書いて、この津軽の序編を結ぶ事にする。[中略]。弘前の人には、そのやうな、ほんものの馬鹿意地があつて、負けても負けても強者にお辞儀をする事を知らず、自矜の孤高を固守して世のもの笑ひになるといふ傾向があるやうだ」、と記している。

ところで、冒頭で取り上げた稲作はその後どのような経緯を辿ったのだろうか。東北農政局にその説明があった。これによれば、「本地域(津軽)では、田舎館村の垂柳遺跡(たれやなぎいせき)における水田跡の発見により、2000年以上も前から稲作農耕が行われていたことが分かっている。その後、気候の寒冷化により稲作は一旦すたれるが、戦国時代に津軽為信がこの地を統一して以降、歴代津軽藩主によって積極的に新田開発が進められ、稲作中心の水田社会が広がった。しかし、江戸時代の元和、元禄、宝暦、天明天保年間には5大飢餓と呼ばれる飢饉が発生し、多数の餓死者が出たほか、用水不足により近代まで流血の惨事に発展するほどの水争いが絶えなかった。また、飢饉とともにこの地を襲った天災が洪水である。津軽地方は、上流部では河床勾配が急で水が一気に平野部へ流れ落ちるが、逆に平野の下流部では、河床勾配が緩く水がなかなか流れないため、1615年から1940年の325年間で計108回の洪水を数え、およそ3年に1度の割合で、洪水被害に見舞われた」、と説明されている(文章はである調に変えてある)。

上記の説明によれば、水田稲作が本格化するのは戦国時代の16世紀ということになる。司馬遼太郎が「北のまほろば」としたのは、光彩を放った時期だけでなく、長いこと縄文的な文化の色彩を残し、狩猟と交易を生業としていたためであろう。しかし水田稲作が推進されると、その当初は著しい成長を遂げる。同じ東北農政局の資料によると、津軽藩の石高(実質)の変化は著しく、1593年は4.5万石、1645年には10.2万石、1664年には 15.7万石、1694年には 29.6万石と増加した。

津軽藩の表向きの石高は、当初は4.7万石(陸奥国津軽領4.5万石+ 上野国新田郡大舘領0.2万石)であった。実質の石高が表向きのそれを大きく上回ることにより、その分の米は商品作物となる*1北前船により、大坂と江戸に廻送された。大阪へは鯵ヶ沢より西回りで、江戸へは青森より東回りで運ばれた。

9代藩主・寧親(やすちか)時世の文化5年(1808)に10万石に加増された。しかし、加増による家格向上は蝦夷地警護役を引き受けることに対してなされたもので、実際の加増を伴わなかったので藩の負担増を招いた。なお新田開発が終わった5代藩主・信寿(のぶひさ)以降は、太宰治が説明しているように、災害や凶作により、領民の生活は窮乏し、藩の財政は悪化した。


それでは弘前城を見ていこう。下図は、前回の記事で用いた弘前公園案内図である。

太宰治が説明しているように、鷹岡城(のちの弘前城)の築城は、初代藩主・ 為信時代の慶長8年(1603)に始まり、為信が慶長9年に京都で客死したため中断される。2代藩主・信枚が慶長14年に再開し、慶長16年に鷹岡城がほぼ完成する。寛永5年(1628)、信枚は鷹岡を弘前に改称し、城名も弘前城となる。

天守。これを見たときの第一印象は、かなり小ぶりだと感じた。そして、これは櫓の一つで、天守はよそにあるのではと辺りを見回したが、それらしきものは発見できなかった。それもそのはず、最初に建築された天守は、寛永4年(1627)に落雷で、本丸御殿・諸櫓とともに焼失した。当初は5層6階であった。

江戸時代には、5層以上の天守閣を建築することは厳しく制限されていたため、この後200年近くも長いこと、天守のない時代が続いた。9代藩主・寧親は、石高の加増に伴って家格が高くなったので、それに釣り合うようにということで、三層櫓の新築を幕府に願い出て、3層3階の三階櫓(天守)を建てた。これが今日見る天守である。重要文化財に指定されている。なお石垣の工事に伴って本丸は移動している。本来の位置は本丸の隅である。


現存する三つの櫓は三層建てである。いずれも、城郭にとりつく敵を攻撃したり、物見のために造られ、防弾・防火のために土蔵造りで、銅板葺きになっている。軒下や格子の木部は素木のままで飾り気がなく、独特の美しさを見せている。三つの櫓は同じような形であるが、窓の形など細部の造作には違いがみられる。いずれも重要文化財である。

二の丸辰巳(たつへび)櫓。天守から見て南東にあたる。歴代藩主はここから三の丸を通る弘前八幡宮の山車行列を観覧したようである。

二の丸未申(ひつじさる)櫓。天守から見て南西にあたる。

二の丸丑寅(うしとら)櫓。天守から見て北東にあたる。

城門は、築城当時は10棟であったが、現存するのは5棟である。これらは周辺を土塁で築き、内側に桝形を設けた2層の櫓門である。門の前面に特別の門(高麗門)などを設けていないことや、1層目の屋根を特に高く配し、全体を簡素な素木造としていることから、全国の城門の中でも古形式の櫓門として注目されている。いずれも重要文化財である。

三の丸追手門。弘前公園の正面玄関とも言えるのがこの追手門である。藩政時代にも、初期を除いてほとんどの期間、この門が正門であった。

北の郭北門(亀甲門)。この門は他に比して大きく、銃眼がないなど外観もやや異なり、また、柱間に京間(六尺五寸)が用いられている。築城当初大手門として建築された。今でも風格のある佇まいをしているのはこのためである。

三の丸東門。

二の丸東門。

二の丸南門。

現存している橋は八つである。その中から写真を撮った三つの橋を紹介する。

下乗橋。内濠を隔て、本丸と二の丸に架かる橋である。藩政時代、二の丸側には下馬札が置かれ、藩士は馬から降りるよう定められていた。築城当初、橋の両端は土留板だったが、文政11年(1811)年に石垣に直された。藩政時代は、戦になると敵の侵入を防ぐため壊される架け橋で、このような立派な姿ではなく、簡素なものだった。

鷹丘橋。内濠を隔て、本丸と北の郭に架かる橋である。弘前城は、先に説明したように、築城されたころは鷹丘城(高岡城)と呼ばれていた。鷹丘橋という名は、由緒ある城の旧名にちなんだものと思われる。この橋は寛文10年(1670年)に4代藩主・信政が母の屋敷のある北の郭へ行き来するために架けたとされている。藩政時代は敵の侵入を防ぐため、戦時には壊される架け橋であった。

杉の大橋。中濠を隔て、二の丸と三の丸に架かる橋である。築城当時、スギ材でつくられた橋であったため、杉の大橋という名が付けられた。この橋は、戦になると敵の侵入を防ぐため壊される架け橋であった。そのため、壊すにしても焼き払うにしても、柔らかく燃えやすい性質を持ったスギが用いられた。文政4年(1821)、濠の両側が石垣になるとともに、ヒノキ材による架け替えが行われ、欄干と擬宝珠が付け加えられた。

内濠。本丸・二の丸・北の郭をそれぞれ隔てる濠である。二の丸から本丸へは下乗橋が、北の郭から本丸へは鷹丘橋が架かっている。

本丸近くの内濠は、石垣を修理していた。修理が終われば、本丸はここにそびえる。

中濠。二の丸と三の丸を隔てる濠である。この濠には杉の大橋と石橋の2つの橋がかかっている。

外濠。弘前城の外周、三の丸と四の丸を囲む濠である。

西濠。西濠は、もともと築城時には岩木川の支流を引きこんだものであったが、現在は岩木川と独立している。

今回の旅行を切っ掛けとした俄か勉強で、太宰治さんや司馬遼太郎さんの足元にも及ばないが、私が住む関東とは異なる歩みをした弘前の歴史を垣間見ることができてよかった。今後もこのような機会に恵まれることを望んだ次第である。

参考書:
小瑶史朗、 篠塚 明彦:津軽の歴史、弘前大学出版会、2019

*1:商品作物がコメ一辺倒だったことがあだとなったのは、コメの不作による飢餓である。特に、天明3年の寒冷による凶作の時は、津軽藩24万人のうちの8万人が餓死したと伝えられている。