bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

早春の四国・中国旅行-城めぐり・備中松山城(天空の山城)

大学時代の友人と姫路から淡路と讃岐を巡り、その後別れて、高校時代のクラスメートに案内されて岡山へと、全部で4泊5日の旅をした。これまでは旅行をしたときは経路に従って見学した場所を説明してきたが、今回はテーマごとに説明したいと思う。まずは今回の主目的であった「城めぐり」から始める。それでは山城から平城の順で説明する。城は言うまでもなく軍事的防衛施設で、古い時代には山城が多く、新しい時代になると平城が多くなってくる。これは土木技術の発達と関連していて、まだ未熟な時代には山の地形を利用して山城を構築したが、発達してくると平地に高台や堀を構築できるようになり平城を造るようになった。

今回訪ねた山城は、天空の山城として有名な備中松山城で、この時代の山城では唯一天守を残している。臥牛山(標高487m)にあり、天守のある所は標高430mである。岡山駅で出迎えてくれた友人の車で約1時間、臥牛山5合目の城町ステーションで車を駐車して、登城整理バスで8合目のふいご峠まで運んでもらった。そこからは坂道を20分700mをひたすら歩く。

坂道は敵の攻撃をかわすためなのでかなり急であった。友人とどちらが長く持ちこたえられるかを競いながら、息を切らせて登る。二人とも呼吸を整えざるを得なくなったため、途中で小休止を入れ、眼下に見える高梁市の風景を愛でた。

高梁市から観光パンフレットが配布されていて、その中に城内の地図(下図)がある。左の広場が三の丸、中央左が二の丸、中央右が本丸、右中央の建物が天守、右の建物が二重櫓である。

城内は三の丸、二の丸、本丸と階段状になっているので順に進む。まずは三の丸。

さらに近づいて二の丸から見た備中松山城で、左から六の平櫓、五の平櫓、天守である。

本丸より見た天守。木造本瓦葺き・二層二階であるが、三層に見える。そして国の重要文化財に指定されている。籠城戦を想定して、天守の中には囲炉裏や装束の間が設けられている。

天守の二階には、城の守護神を祭る御社壇がある。

天守の裏には国の重要文化財の二重櫓があるのだが、訪問時にはその存在を知らなかった。

備中松山城の歴史は、コトバンクには次のように説明されている。この城がある地は山陰と山陽を結ぶ戦略上の要所として知られ、中世から戦乱が絶えなかった。仁治元年(1240)に秋葉重信が地頭になり、臥牛山の一番北の峰の大松山に最初の城(簡単な砦)を築いた。以後、城主はめまぐるしく替わり、戦国時代の三村元親の代に本格的な山城として整備された。しかし元親は毛利輝元と争って自刃した。関ヶ原の戦いの後、小堀正次・政一父子が代官として入り、城の改修を行った。その後、池田氏(1617~1641)、水谷氏(1642~1695)と領主は替わるが、現存する天守などの建築物は水谷氏時代に築かれた。水谷氏改易後、安藤(1695~1711)・石川(1711~1744)・板倉氏(1744~)と、譜代大名が城主となった。幕府の老中となった板倉氏7代目の勝静(かつきよ)の代に明治維新を迎えた。

備中松山城は先に記したように「天空の山城」として有名である。雲に浮かんだ城を眺めると幽玄な気分に誘われるであろうが、今回は残念ながらそのような機会には恵まれなかった。またの機会があればそれに期待しよう。

次の記事では姫路城を説明する。