最近の選挙では予想外のことが時々生じるが、今回の兵庫県知事選挙は特にそうである。選挙が始まった頃は、聞いてくれる人が全くいない街頭で、候補者が一人寂しくマイクを握って演説していた。ところが、最終日には、彼の演説を聞くために、熱狂した何千人もの聴衆で道路の隅々まで埋め尽くされた。なぜこのようなことが起きたのであろう。
話は変わるが、最近、スロヴェニアの哲学者の『戦時から目覚めよ:未来なき今、何をなすべきか』を読んだ。環境破壊によって世界が滅びようとしているのに、世界がそこから目を背けている。このような嘆かわしい状態にあることを、ウクライナへの侵略などホットな話題を例にしながら、時には荒々しい汚い言葉を用いて説明している。読み終わったところで、あまりにも例が多すぎたため、さて彼の考え方の本質はどこにあったのだろうと疑問に感じた。そこで、序の「フュチュールとアヴニールのはざま」に思考の中心が書かれているように思えたので、そこで述べられている概念を参照しながら、例題を作って解いてみようと考えた。例題にしたのが、今回の兵庫県知事選挙の分析である。
ジジェクはたとえ話が上手である。複雑な社会現象を、世界で一番高級なコーヒー豆の製造方法で説明する。図に示すように、ジャコウネコがコーヒー豆を食べ、それを消化して糞として出す。それがコピ・ルアクと呼ばれる貴重なコーヒーである。ジャコウネコのおなかでは、消化酵素が働いて酸味を取り除き、まろやかな豆に変えてくれる。兵庫県知事の彼が職を失った経緯もコピ・ルアクと同じように表すことができる。
ここではジャコウネコの役割をしてくれるのは、新聞・テレビなどのかまびすしいマスコミや兵庫県議会のような既成勢力である。入力される情報は、彼の県政での実績で、そこには内部告発も含まれている。マスコミや既成勢力は、入力された事象の中から道徳的に厳しく糾弾されなければならない「パワハラ」や「おねだり」などを抽出し、積極的に情報として流す。これが功を奏して、彼は県議会からの罷免決議によって失職する。彼がこのまま何もせずに放っておくと、最終的には落後者になってしまうかもしれない。コピ・ルアクでは最高のコーヒーが得られたのに、ここでは好ましくない結果になっている。さて、どうしたらよいのだろう。
ジジェクは、別の未来に導く方法を教えてくれている。日本語では、未来を示す単語は一つだが、フランス語には二つあるそうだ。フュチュール(futur)とアヴニール(avenir)である。フュチュールは、現在の続きとしての未来、すでに定まっている傾向の実現を表す。これに対して、アヴニールは、急激な断絶、現在との非継続性という意味を有し、将来どうなるかではなく、これから新しく起きる何かを意味している。
失職した彼には、何もしないと落後者というフュチュールが待っている。これが嫌だとすれば逆転満塁ホームランを狙うしかない。そう、彼にとってのアヴニールを見つけることである。彼が打った手は再選されることであった。ジジェクは、未来に二つの道があったとき、選択された将来は当然となり、そこに至った過去も当然になるとした。アヴニールを実現したいのならば、過去に働きかけ、そこを変えることだと説明している。
上のことを説明するために、彼は「真実と噓」という比喩を用いている。ある時、妻が夫にたばこを買ってきて欲しいと頼んだ。あいにくタバコ屋さんが閉まっていたので、彼はバーに行き、そこで入手しようとした。そこに魅力的な女性がいて意気投合し、彼女のアパートに行ってしまう。煙草を買うにしてはあまりにも長い時間がかかってしまったので、妻への言い訳を彼は考え、アパートにおいてあったベビーパウダーを手にすりこんでもらう。家に戻った彼は、浮気をして遅くなったと妻に正直に言う。妻はそれを信じず、嘘でしょう、いつもの悪友とボーリングに行ったのでしょう、その証拠に手に粉がついていると言う。
この話で、フュチュールは浮気したことが妻にばれてしまうこと、アヴニールは悪友とボーリングに行ったことである。妻に伝えた情報は、浮気をしたという事実とボーリングしたという嘘である。彼は、何もしなければ、フュチュールとしての浮気がばれてしまうので、アヴニールとしてボーリングをしたという嘘を作り上げた。そして、騙す材料として、ベビーパウダーを手にすりこむことを考え出し、妻の心理をうまく誘導した。妻にとってはボーリングしたことが真実で浮気したことは嘘となった。
今回の選挙の場合も上記と同じような状況が、意図したかどうかはわからないが、作りだされた。選挙期間を通して、一人で街頭に立って立候補の理由を一生懸命に説明している姿を見て、これほど誠実に対応している人が悪いことをしているはずはないと有権者は思うようになり、そして県民のために立派な成果を残していることも理解するようにもなった。どうも、マスコミや既存勢力が情報を正しく伝えていないのではないかと考えだし、さらに、SNSでは彼の応援がどんどん増えているので、これまで言われていたこととは異なり「信用できる人」で「頼れる人」だと確信するようになった。これが昨日の選挙結果としてあらわれた。
ジジェクは、地球温暖化に対しては早急の対策をとるように要請している。しかし、世界の動きは鈍く、グローバル資本主義の中で生み出された原理主義右派と自由主義「ウォーク(人種差別や社会問題に対して関心を持つこと、敏感でいることを意味するスラングで、覚醒したという意味。過剰な意識の高さに対して否定的なニュアンスで使われることが多い)」左派を、汚い言葉を使ってクソと呼んでいる。これがフュチュールだとしたら、アヴニールは何なんだろうか?ジジェクは劇薬とも思える言葉を使っているが、それは本の中で探してもらうことにし、我々も自分自身で考えだす必要があると思う。
ジジェクの哲学にはヘーゲルに代表されるドイツ観念論、マルクス、そしてフロイトの後継とされるラカンの精神分析学が大きく影響している。選挙のところで、候補者と有権者との心理的な変化を説明したが、理論的に説明するためにはラカンの精神分析学を必要とする。今回、応用問題を解くことでこの本の序に書かれていることが理解できたので、本論の方をもう一度丁寧に読んで理解を深めたいと考えている。その時にラカンについてもさらに勉強できればと考えている。