bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

井上浩一著『生き残った帝国ビザンティン』を読む

エマニュエル・トッドさんの家族分類を大別すると、親子だけで構成される核家族、三世代で同居する直系家族、大家族をなして男(あるいは女)の子供たちの家族全部と親が同居する共同体家族となる。家族構成の変遷は、核家族で始まり、直系家族を経て、共同体家族に至ったとされている。イギリス・アメリカ・フランスは核家族、日本・ドイツは直系家族、中国・ロシアは共同体家族である。このようになった理由は、中央部での変化が周辺部に伝わっていくので、変化の中心にあったところが最も進んだ共同体家族に、周辺部が原始的形態の核家族にとどまったとされている。古い歴史を有する中国が中心部というのは理解できるが、歴史が浅いとしか思えないロシアがなぜ中心になっているのだろうと常々疑問に感じていた。

西洋の歴史は、ギリシャから始まり、ローマ帝国へと引き継がれていく。ロシアの歴史を調べると、モスクワは「第三のローマ」であると説明される。15-16世紀にかけて形成されたモスクワ公国が、神学的・政治的な主張として「第三のローマ」を謳い、ローマ帝国を引き継いだと言われている。

それではその一つ前のローマ、「第二のローマ」はどこかと言えば、コンスタンティノープル(ビザンティン)である。ローマ帝国は4-5世紀には東と西に分裂し、東側のビザンティン帝国は1453年までの千年にわたって歴史を紡いだ。今日のロシアの歴史は、また家族システムでの共同体家族は、ビザンティン帝国に負うところが多いと考えられる。そこで井上浩一さん著作を読んでみることにした。

何処の国家にも国家の英雄と言われる人がいる。コンスタンティヌス1世(在位306-337)はその一人であろう。彼が歴史に登場した頃には、ローマ帝国は複数の皇帝によって分割統治されていたが、彼はそれを再統一した。またローマ皇帝として初めてキリスト教を信仰した人物でもあり、キリスト教の歴史にとっては欠かすことのできない人物でもある。彼の名を付したコンスタンティノープルは、その後のビザンティン帝国(東ローマ帝国)の首都となり、正教会の総本山となった。このような彼に対して、野心に憑かれた男なのか、偉大なキリスト教皇帝なのかで評価が分かれている。井上さんは、歴史を「自然界における慣性の法則と同じように、人間社会にも現状を維持しようとする力が働く。それにもかかわらず社会は変化し、歴史は発展する。それは危機への対応として起こる」と観察している。それではコンスタンティヌス1世に対しての井上さんの観察を見ていこう。

コンスタンティヌス1世時代の版図 (Wikipediaより https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=10719570)

井上さんは歴史を慣性と脱皮(危機への対応)と見ているので、コンスタンティヌス1世が出現する時の慣性をまず観察する必要がある。紀元1-2世紀は良く知られた「ローマの平和」を謳歌していた時代とされている。ドミティアヌス帝の死からコンモドゥス帝の即位までの時代(5賢帝時代)が、世界史の中で最も人類が幸福でありまた繫栄した時代である、とギボンは『ローマ帝国衰亡史』の中で述べている。しかしこれは楽観的すぎると井上さんは指摘する。すなわち「ローマの平和」の時代にローマ帝国の危機は深いところまで浸透し、生産の中心地はガリアからゲルマニア国境地帯へと移り、中心地イタリアでは産業の空洞化が進行し、退廃的な生活が広がっていた、と「変化」を強調している。

さらに次のように説明している。進行中の危機は紀元3世紀にはいると一挙に表面化し、ローマは軍人皇帝時代と呼ばれる内乱の時期を迎える。いったん終止符を打ったのがディオクレティアヌス(在位284-305)で、皇帝の地位をプリンケプス(市民の第一人者)からドミヌス(主人)へと変えた(皇帝と臣下の関係を主人と奴隷に)。またディオクレティアヌスは、キリスト教徒に対して激しい迫害を加えた。彼の死後、かつての軍人皇帝時代が再現、20年近くに及ぶトーナメント戦を勝ち抜いたのが、コンスタンティヌス1世である。最後まで争ったもう一人の皇帝リキニウスとの間で、合意文章を作成し、キリスト教を含めた信仰の自由と迫害されたキリスト教徒への損害賠償を認めた(ミラノ勅令)。彼はコンスタンティノープルを新しい都(330年)と定めた。しかしこの町が本当の意味で帝都となるのはかなり後の時代である。彼は生涯の最後においてキリスト教に改宗し、「神の名において他人を支配する」体制が築かれた。コンスタンティヌス1世の「脱皮」をこのように鮮やかに井上さんは説明してくれた。

話は脱線するが、井上さんはヒューマニズムと宗教の関係についても興味深い意見を披露している。人間の歴史がより豊かな社会、搾取や抑圧のない社会を目指すものであるとすれば、それを支えた思想は、ヒューマニズム(ギリシャ・ローマに端を発し、ルネッサンスで復活、近代思想の主流となった人間主義)と宗教である。ヒューマニズムは基本的に正しいが、一方で、人間をモノとして扱う奴隷制を生じさせ、ルネッサンスにより人間の欲望を解放したときにあらゆる悪徳を噴出させた。これを批判する思想として宗教が現れた。ヒューマニズムに伴う人間の高慢さ、利己主義、悪徳に対して、キリスト教は人間の小ささ、愛、倫理を説いた。しかし、宗教が抱える問題は、法学者エンゲルが言うように、神とともにあることに満足した信者は一人もおらず、自ら神に服従しようとするものは、他人をもこの神に服従させようとすることである。

そして井上さんはコンスタンティヌス1世を次のように評価している。彼の時代には、支配階級と言えどもヒューマニズム謳歌することができず、彼らもまた己のひいては人間の無力さを感じ、神という超越的な存在にひれ伏し、さらにこの超越的権威への服従を被支配者に説くことも怠らなかった。ローマ帝国は、危機を克服し、生き延びてゆくために、このように国家と宗教が一体となった「神の名において他人を支配する」体制を作り上げた。

コンスタンティヌス1世の後、名前がよく知られる皇帝は、民主政治の伝統を終焉させ、ビザンティン専制国家をもたらしたユスティニアヌス1世(在位527-565)であろう。井上さんは彼についても、コンスタンティヌス1世のときと同じように、慣性と脱皮を用いて説明している。ユスティニアヌス1世の下で、コンスタンティノープルは繁栄の頂点に達し、聖ソフィア教会は栄華の象徴で、ローマに代わる都市としての地位を獲得した。

ユスティニアヌス1世時代のビザンティン帝国(赤)(Wikipediaより https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=19926428)

ユスティニアヌスバルカン半島北西部イリリア地方の農家の出身。彼を引き取って面倒を見た叔父も百姓であったが、若いころに軍隊に入り出世して皇帝となった。血統や家柄に関係なく実力と運があれば皇帝になれる。このようにビザンティン帝国は開かれた社会であった。ユスティニアヌスの妻テオドラは、サーカスの熊使いの娘で、踊り子。ユスティニアヌス1世は、旧西ローマ帝国領を奪還し、大ローマ帝国を再建するという夢を抱いていた。征服戦争の準備として内政の充実に努め、『ローマ法大全』の編纂にあたった。まとめられたローマ法は、ビザンティン帝国基本法となっただけでなく、西欧諸国の法律に大きな影響をもたらした。その中でも空中税(高層住宅に住む者に課税)はユニークである。

戦争準備は市民に大きな負担を強いたため、その反動で市民の蜂起「ニカの乱」を惹起した。ローマ世界では戦車競走の歴史は古くホメロスの時代から見られる。首都ローマの市民はパンをはじめとする食料が国家から供給され、娯楽として様々な見世物が提供された。戦車競走では金をかけ、勝敗に一喜一憂した。この「パンとサーカス」は、ローマ帝国では栄華を極めた。コンスタンティノープルでも「パンとサーカス」は引き継がれた。競馬場の収容人数は5万人、年間開催日は百日を超え、1日数十レースも行われていた。パンの源は帝国の属州支配。穀物産地エジプトからの租税として積み出された穀物が市民のパンとなった。レースは色の名で呼ばれる厩舎によって運営され、このころは「青」と「緑」が人気を二分していた。ユスティニアヌスは「青」に肩入れし、「青」は調子に乗って、蛮行を繰り返した。見かねた市総督は、ユスティニアヌスが病のとき、「青」の犯罪者を一斉検挙した。病が癒えた時、市総督は追放された。しかし、ユスティニアヌスは、戦車競走に現を抜かす市民を軽蔑するようになる。

そのような時、些細なことから応援団が起こした喧嘩で死者が出て、犯人が逮捕される。市民たちは犯人の釈放を求めて、「ニカ(勝利せよ)」と叫んで蜂起した。ユスティニアヌスは、競技場の貴賓席から今回の件は自分に落ち度があると宣言するが、市民からやじられる。彼は絶望して逃亡を決意するが、皇妃テオドラが「帝衣は最高の死装束である」と彼を鼓舞する。彼は競技場に軍を突入させ、3万人の市民を殺害した。ユスティニアヌスは、古代の民主政治の伝統を最終的に否定し、ビザンティン専制国家への道を開いた。このあと彼は、西方の領土を奪い返し、聖ソフィア教会をたて、「偉大なローマ皇帝である」と確信したことであろう。しかし「ローマ帝国」という建前を現実にした時、それは重い負担となって国家と民衆の上にのしかかった。ゴート戦争に勝利したものの、取り戻したイタリアは著しく荒廃しており、ローマ市の人口は500人に過ぎず、ローマ帝国の復興がいかに虚しいものであるかを知ることとなった。

ユスティニアヌスの理想が色褪せ、袋小路の行き止まりの壁が見えたとき、「ただ一つの救いとなることができたものは、完全な革命であった」とエンゲルスは書いている。奇しくも、アラビア半島の彼方から「革命」がやってきた。7世紀の初頭にマホメットイスラム教を起こし、短期間に世界史の地図を塗り替えていく。それに遭遇したのがヘラクレイオス(在位610-641)である。彼はペルシャ帝国との26年に及ぶ戦いに勝利し、奪われていた土地を取り戻したものの、イスラム帝国に敗れその土地を再び失った。彼の晩年から8世紀にかけては、ビザンティン帝国史の中では暗黒の時代となった。

ビザンティン帝国の中で最も評判が悪いだろうと思われる皇帝はコンスタンティノス5世(在位741-775)である。彼はイスラム教徒の攻撃からコンスタンティノープルを守り抜いたレオーン3世の息子である。コンスタンティノス5世はコプロニュモスとあだ名された。コプロスはギリシャ語で「糞」を意味し、彼の宗教政策に由来する。彼は偶像崇拝の禁止と聖像(イコン)の排除を行ったが、後に聖職者たちによってこの行為が神を冒涜することと見做された。このことについても井上さんは興味深い論を展開している。聖書では神の像をつくってはいけないし、キリストをかたどるものは、ミサにおけるパンと葡萄酒のみであるとなっているにもかかわらず、(コンスタンティノス5世が聖書通りのことを言っているにもかかわらず)偶像崇拝禁止を神への冒涜と聖職者たちが見做したのは、聖書に書かれている事を糊塗するためだろうと言っている。

コンスタンティヌス5世時代のビザンティン帝国 (Wikipediaより https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=11597554)

宗教についても優れた説を井上さんは提示している。古代の地中海・オリエント世界には二つのタイプの神が存在する。一つはオリエント型と名付けられた全知全能で近づきがたい超越的な神。もう一つはギリシャ型と呼ばれた人間の姿を持ち人間と同じような感情を持ち、不死であることを除けば、人間とさほど変わらない神。ギリシャ型の神は、ギリシャヒューマニズム、民主政治と結びついた。ローマも基本的にはギリシャ型の神だが、エジプトやパレスチナと言ったオリエント型の神を伝統とする地域を支配下に置くようになり、オリエント型の神を受け入れる下地が出来上がった。3世紀の軍人皇帝時代の内乱期には、ローマ帝国の衰退とともに、オリエント起源の宗教が急速に広がる。キリスト教もその一つだが、他の宗教とは神の在り方において異なっている。ユダヤ教から全能不可知の神というオリエント型の性格を受け継ぐ一方で、「受肉」という「奇跡」によって人間に近づく神となり、ギリシャ型の特徴も合わせ持った。このためキリスト教では、キリストの神性と人性にどちらに比重を置くかで常に問題になった。初期キリスト教会の多くの神学論争はこの問題をめぐるものであり、偶像崇拝禁止問題もこれに帰着する。偶像禁止派はオリエント型を強調し、イコン崇拝派はギリシャ型である。

そして以下のようにまとめている。「キリスト教の歴史において偶像崇拝問題が占めた位置は次のようになろう。本来オリエント起源の宗教であったキリスト教が、ローマ帝国においてギリシャ文化と出会って、ヘレニズム化してゆく過程で起こった、オリエント的要素の反動である、と。この反動を乗り切ることによって、キリスト教ギリシャ文化は最終的に融合し、独自の文化としてのビザンティン文化が完成する。聖像崇拝論争の影響は帝国の政治体制にも及んだ。皇帝が宗教問題において指導的役割をはたすという、コンスタンティヌス1世以来の原則は、この聖像崇拝禁止運動の中で再確認され、聖像崇拝復活後の時代にも受け継がれたのである。」

コンスタンティノス5世の頃にビザンティン帝国は、教育レベルも高く、小規模で効率の良い官僚制に支えられ、8-10世紀の新たな発展へと進んだ。絹織物は大宮殿やソフィア教会と並んでビザンティン帝国の栄華を象徴した。ユスティニアヌス1世の時に西域地方から蚕の密輸に成功し、その後に原料を自給し、絹織物はビザンティン帝国の重要な生産物となった。

10世紀後半からのニケフォロス2世(在位963-969)、ヨハネス1世(在位969-976)、バシレイオス2世(在位976-1025)はいずれ劣らぬ軍人皇帝で、バシレイオス2世の時代に至ってビザンティン帝国は繁栄の頂点に達する。東はアルメニア・シリアから西は南イタリアまで、北はドナウ川から南は地中海の島々まで、大きく広がった国境はどこまでも平和で安定し、宮殿の倉には金銀財宝がうなるほど積み上げられていた。彼が残した帝国は、平和と繁栄を謳歌する中で、深刻な問題が生じていた。農民の間では貧富が広がり、租税や軍役の義務を果たせないものが増えた。しかし後継の皇帝たちは大体が無能で、危機は一挙に表面化した。セルジュク・トルコが1055年に小アジアに攻め入り、現在に至るまで、この地域はトルコ人の世界となってしまった。

バシレイオス2世時代のビザンティン帝国 (Wikipediaより https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=4078443)

8世紀から10世紀の発展期におけるビザンティン帝国の軍隊は主に農民から徴募された。税金を納める代わりに軍役に就くものも多かったので、兵士への出費が抑えられ士気も高かった。しかし10世紀中ごろから、納税や軍役の義務を果たせない農民が増えてきた。かつては裕福な農民が肩代わりしたが、帝国が発展したために、遠い地方への出兵が要請され、農業との両立が困難になり、助け合い機関としての機能が村から奪われ、農地を手放して小作人となって税金や軍役を逃れるようになった。逃げ出した農民と捨てられた土地は、貴族の元へと集まった。その結果、戦う人としての軍事貴族と、働く人としての小作農民へと「兵農分離」が進んだ。

貴族たちは、かつては国家の文武の官僚で「皇室の奴隷」であったが、経済力・軍事力を持つに至って「皇帝の友人」とという意識をロマヌス4世(在位1068-1071)は持ち始めた。貴族の中には、皇帝に対して敵意を抱くものもおり、戦場から離脱するものもあらわれ、帝国の力は衰えていった。このあと紆余曲折を経て、1453年に千年の歴史を閉じた。1453年4月5日、オスマン帝国の若きスルタン、メフメト2世はコンスタンティノープルの城壁の前に到着。5月29日、1千年以上にわたって破られることのなかった大城壁に三日月の旗が上がった時、コンスタンティノス11世は、死に場所を求めてトルコ軍の中へと消えていった。

コンスタンティノープルの城壁(Wikipediaより https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=880970)

ビザンティン帝国については、ローマ帝国から分離した国で、正教会という少しわかりにくいキリスト教の国家という程度の認識しかもっていなかった。しかし周辺の国から戦いを挑まれながら、千年の長きにわたって歴史を紡いだ国であった。井上さんがエピローグで、キリスト教と結合した「ローマ」理念に支えられながらも脱皮を繰り返したと書いている。そこには、「ローマ帝国の危機を前にして、キリスト教を取り入れたコンスタンティヌス1世、古代民主主義に否を突き付けたユスティニアヌス1世からはじまって、イタリアよりもスラブに目を向けたコンスタンティヌス5世、地方貴族の台頭を前にして、彼らとの提携と支配体制を根本的に転換したアレクシス1世(在位1081-1118)、みずから国営模範農場に力を注いだヨハネス3世(在位1222-1254)、バルバロイ(野蛮人)と軽蔑されてきた西洋に援助を求めたマヌエル2世(在位1391-1425)、いずれの皇帝もただ伝統を守ったのではなく、新しいことを行った」とある。最後の言葉がとても重要と感じてこの本を閉じた。