bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

リチャード・フラナガン著『奥のほそ道』を読む

帰りの電車の中で、職場の同僚から「今、イギリスでは、奥のほそ道という本が評判なんです」と教えてもらったことがあった。その彼が退職することとなり、スピーチを頼まれた。話す内容を探しているときに、この話を思い出した。彼はそのときは、どの様な本であるかを教えてくれなかった。イギリス人である彼は、日本人の私には抵抗がありすぎると思ってのことだろう。話を聞いた直後に、紀行文なんだろうと勝手に想像して、Amazon電子書籍で見つけ入手した。タイトルは"The narrow road to the deep north"。これは『奥の細道』の英語訳そのものである。しかし手に入れたものの、仕事が忙しい時期と重なったりして、少し読んだだけでそのまま電子書籍リーダーの奥深くに納まってしまっていた。

今回スピーチのネタを仕入れようと思って取り出して読み始めたのだが、英文だと時間がかかって読み終わりそうにない。グーグルの検索で日本語訳が出ていることを知り、近くの図書館から借りた。電子図書のときは気がつかなかったが、図書館で借りてきた本は446ページもある大書。水曜日の夕方借りて、スピーチするのは金曜日の夕刻、木曜日は一日雑用が入っている。どうやってこの課題をこなしたらよいのだろうと、久しぶりに、過大な宿題を課せられた学生時代に戻された。

この本の主役はドリゴ、作者の父親をモデルにしている。ドリゴはオーストラリア・タスマニアの、人々からは忘れさられた田舎町クリーブランドの出身、父は鉄道保線員、家族の中で彼だけが(12歳での)能力試験に合格、奨学金でローンセストン・ハイスクールに進学、やはり奨学金を受けてメルボルン大学医学部へ進学。オーモンド・カレッジ(寮)では名だたる家系の子弟に出会った。

外科医の訓練を終えようとする頃、エラを知る。父親はメルボルンの高名な弁護士、母親は有名な農場経営者の娘。外科医として将来を嘱望されるドリゴ、名家の娘のエラ、二人は間違いなく優雅な家庭を築くだろうと期待される。

ドリゴは、オーストラリア・アデレードのワラデール駐屯地で最後の訓練につく。本屋に立ち寄った時、ある女性と出会い印象に残る。叔父のキースに逢うように言われていたので、彼が経営するホテルを訪問する。そこでキースの妻エイミーを紹介されるが、彼女こそ本屋で会った女性であった。ほどなくして二人は密会するようになる。

ワラデールでの訓練が終了し、エラと婚約、衛生隊の軍医として従軍し、シンガポールで日本軍の捕虜になる。そのあとシャムに送られ、死の鉄路建設で地獄のような日々と戦う。終戦となり、しばらく後に帰国してエラと結婚、3人の子供に恵まれ、著名にもなり、外見は恵まれた家庭に見える。しかしドリゴは名声を得れば得るほど、孤独になっていく。エラに対しては愛情を感じることはなく、ひたすらエイミーのことを思う。ぎくしゃくした家庭を平穏にするために、生まれ故郷への家族旅行を計画する。先に到着した妻と子供たちは、森林火災に巻き込まれてしまう。ドリゴは警察の制止も無視してその現場に急行し、やっとのことで4人を助け、ヒーローとなる。

スピーチに向かう電車の中まで利用して一生懸命に読んだが、20ページを残して、退職を祝う会場の人となった。残りは帰りの電車の中で読んだが、夢にも思わなかった妻エラからのしっぺ返しが待っていた。

この小説は「人間とは何なんだろう」と深く考えさせてくれる。ドリゴは、名門家庭の娘のエラと結婚するが愛情を感じることはない。不倫相手であったエミリーに思いを寄せ続ける。死と背中合わせの鉄路建設では、部下たちから兄貴と頼られながらも、日本軍からの部下への暴力を制止できない不甲斐なさに陥る。またあれだけ暴力をふるった日本の軍人が、戦後は予想すらできないほどの穏やかな生活を送っている。

この本は5部から成り立っていて、各部のタイトルは芭蕉や一茶の俳句である。最初の章は、"A bee staggers out of peony"(牡丹蘂(しべ)ふかく分出る蜂の名残哉)である。ちなみにこの俳句は、芭蕉が門人の林七左兵衛の屋敷に逗留したときの手厚いもてなしへの感謝を述べたもので、林とその家族が牡丹の雄しべと雌しべ、蜂が芭蕉である。俳句はその解釈を読者に任せているが、この本も人々の行動を淡々と提示することで、その解釈は読者の方でお願いしますと言っているようである。

私は、アデレードに一年、タスマニアにも一週間、メルボルン大学には一日、滞在したことがある。オーストラリアでの光景を懐かしく思い出しながら、感慨深くこの本を読んだ。今回は時間が極めて限られていたので日本語訳で読んだ。著者のリチャード・フラナガンはこの作品で、カズオ・イシグロも受賞したブッカー賞を得ている。大変評判の高い本なので、次回は英語でと思っている。日本語訳の本もとても良くできているが、やはり原文には迫力がある。特にこの本の英語には、鮮烈なストーリーもさることながら、芸術的な素晴らしさがあるので、じっくりと味わいたい。