bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

知る人も少なくなった古刹の證菩提寺に行く

横浜市栄区にある證菩提寺は、大河ドラマの影響もあり、知る人も多くなったことだろう。ここは源頼朝との関係が深いことで有名である。彼が治承4年(1108)に兵をあげて石橋山で戦った時、この戦いに馳せ参じた真田義忠(佐奈田与一)は討死してしまう。その菩提を弔うために、建久8年(1197)に建てられたと伝えられている。義忠は現在の平塚市真田の武将で、岡崎義実の嫡男である。義実の拠点は現在の平塚市伊勢原市に広がる岡崎(真田は西に隣接)である。義実の兄は三浦義明で、彼は石橋山の戦いに間に合わず、追ってきた畠山重忠に討たれ、衣笠城合戦で戦死する。

義忠を討ったのは長尾新六定景である。彼は後に頼朝に降伏し、(義忠の父の)義実に預けられる。法華経を唱えている定景を見た義実は、彼を殺すのをやめて頼朝に助命を願い出る。以後、三浦党の郎党として定景は名を残す。彼の子孫が、後に上杉謙信となる長尾景虎である。

菩提寺鎌倉市に隣接した栄区上郷町にある。最寄り駅は根岸線港南台駅。この駅は横浜駅から23分。港南台駅から證菩提寺までは徒歩で23分かかる。

寺までの道のりはありきたりの新興住宅街の風景だが、大正の終わり頃の地図を見ると全く異なっている。いたち川に沿った谷戸一面に水田があり、山麓にそって集落がぽつりぽつりと見える。昭和14年横浜市に合併されるまで、この辺は鎌倉郡本郷村であった。

さらに時代を遡ると、鎌倉時代は山内荘で、後白河領から長講堂領に、さらに持明院領となった。13世紀初めから中頃にかけて本所の支配は有名無実化するが、山内首藤氏の本領であったと見られている。山内首藤氏は代々源氏の家人で、前九年(1051-62)・後三年(1083-87)の役では山内首藤資通が源義家に従い、保元の乱(1156)・平治の乱(1159)では山内首藤俊通・俊綱父子が源義朝に従って戦い、二人は平治の乱で討死する。乱のあと合戦に参加しなかった経俊が惣領となり、山内荘を継承した。

しかし頼朝挙兵のとき、経俊が平家方に与したために没収され、土肥実平に与えられた。経俊は斬罪に処せられることが決まっていたが、母で頼朝の乳母でもあった山内尼が、一族の源氏への奉公などをあげて助命を願い出でた。ところが頼朝の鎧の袖に経俊の矢が刺さっているのを見せられて退出する。しかし経俊は許され頼朝に臣従した。

建暦3年(1213)の和田合戦のときに実平の孫の土肥維平は和田義盛に与したために誅せられ、山内荘は北条義時の所領となった。これを機会に六浦道とともに山内道が幕府によって整備された。鎌倉の四境は、東は六浦・南は小壺・西は稲村・北は山内とされ、山内荘・六浦津は都市鎌倉の内部とされた。

話を證菩提寺に戻そう。この寺は先に述べたように、建久8年(1197)に建立されたとされている。吾妻鏡によれば、正治2年(1215)に老いた義実が鳩杖をつきながら尼御台(政子)を訪ねた。哀れに思ったのだろう尼御台は、早く所領を与えてあげるようにと頼家に指示している。ある研究者は證菩提寺はこのとき義実の所領になったのではと言っている。義実は尼御台を訪ねたこの1か月後に亡くなっている。鎌倉幕府はこの寺を大事にしたようで、建保3年(1215)に実朝が密議で参詣、同4年には北条義時が追善し、建長2年(1250)には4代頼嗣が荒廃した寺の修理を命じている。

鎌倉幕府での證菩提寺の位置づけは、鎌倉八幡宮との関わりから分かる。頼朝は鎌倉八幡宮を治承4年(1180)に現在の地に移転して鎌倉寺社の頂点とし(このころは神仏習合で、八幡宮八幡宮寺である)、武家鎮護と将軍護持の祈祷や法要を実施させ、また官僧を常駐させた。初代の別当には園城寺(天台宗寺門派)から頼朝の従兄弟である円暁を引き抜いた。さらに文治元年(1185)には、父の菩提を弔う寺である勝長寿院にやはり園城寺より公顕を招いた。

鶴岡八幡宮の北には二十五坊が設けられた。寿永2,3年には円暁を始めとして25人の供僧が任命され、彼らにはそれぞれの坊と供料所(その場所は山内荘に多い)が与えられた(源平合戦で敗れた平家一門からも多くの供僧が任命された)。一方、證菩提寺には、嘉禎元年(1235)に北条泰時の娘・小菅ヶ谷殿によって、新阿弥陀堂が建立された。この新阿弥陀堂には、静慮坊・頓学坊の僧など二十五坊から、鎌倉幕府から供僧が任命された。證菩提寺文書によれば、仁治元年(1240)と文保元年(1317)には、供料未進の訴えが出されており、また正応6年(1293)には北条貞時が、建武元年(1334)には足利直義が供僧を任命している。これらのことから、鎌倉幕府が、鶴岡八幡宮を頂点に、證菩提寺などをその傘下にして、寺院社会を形成していたことが分かる。

それでは現在の證菩提寺を見て行こう。大きくはないが山門、

本堂、

岡崎義忠の五輪塔

鐘楼、

なお、ここには貴重な仏像が安置されている。横浜市重要文化財に指定されていて、ケヤキの一財を用いての一本造りの技法で彫成され、仏像の表現形式を理解していない地方の仏師により彫られたと思われるとても素朴な平安時代の作とされる薬師如来立像。国の重要文化財に指定され、平安時代後期の作とされる阿弥陀三尊像。この仏像は、證菩提寺が建立される前の作であり、治承4年(1180)に岡崎義実が、頼朝の父義朝の菩提を弔うために鎌倉亀谷に建立した仏堂のために造られ、そのあとここに移されたのではと考えられている。そして鎌倉時代の作とされ、先に述べた小菅ヶ谷殿が新阿弥陀堂を建立したときに造られ、神奈川県の重要文化財に指定されている阿弥陀如来坐像がある。これらは歴史博物館で展示されることが多い。

余り有名ではない寺、しかし貴重な仏像がかつての繁栄を伝えてくれる魅力的な證菩提寺、現在は横浜市だが、かつては鎌倉都市の内部に位置していた證菩提寺、儚く移ろう時を感じさせてくれた證菩提寺であった。