神奈川県立歴史博物館で特別展『あこがれの祥啓』を開催している。祥啓という画僧を今でこそ知る人は少なくなったが、江戸時代には贋作も出るほどの人気があった。祥啓が活躍した時代は、室町時代の中期で、雪舟と同世代かあるいは少し下がる世代である。しかし生没年不詳で自画像もないので、不明な点が多い。
史料上彼が初めて現れるのは、同朋衆の芸阿弥が別れに際して贈った『観瀑図』に記載の賛である。そこには、京都で3年間学んで鎌倉に帰る祥啓に、はなむけとして贈ったとなっている。この絵が書かれたのが1480年なので、1478年に祥啓は京都に上ったことが分かる。
水墨画は、筆・墨・水というきわめて単純な道具を用いているにもかかわらず、その描き方の技術は奥が深い。一番、分かりやすい描画法は、書道の楷書、行書、草書に倣って、明瞭にくっきりと描く楷体、少しだけ崩して描く行体、抽象画のように大幅に崩して描く草体である。専門的な用語を用いると、楷体は鈎勒(こうろく)法、行体・草体を没骨(もっこつ)法という。さらには、草体を描画法の違いによって、破墨(はぼく)法と潑墨(はつぼく)法とに分けられる。あるいは、著名な画家の描き方を名前で表して、夏珪(かけい)様・馬遠(ばえん)様・孫君澤(そんくんたく)様(いずれも楷体)、牧谿(もっけい)様・梁楷(りょうかい)様(いずれも行体)、玉澗(ぎょっかん)様(草体)などと呼ぶ。
京都に上るまでは、祥啓は仲安真康に学んだとされる。仲安真康も分からないことが多い画僧である。同じように生没年は不詳であるが、最近、常陸国の生まれらしいということが分かった。仲安真康は行体で、牧谿様を得意としていた。このため、祥啓も彼から学んでいた頃は牧谿様で描いたのではないかと推察される。
ところが、現存している彼の水墨画は、明瞭・細密な楷体・夏珪様である。これは彼が京都に在住しているときに、芸阿弥から宋の宮廷画家が描いた水墨画、あるいはその正確なコピーを得て学び、その描き方を習得したのではないかと考えられている。
室町幕府は明との貿易に熱心で、とりわけ中国の文化を流入することには力を注ぎ、3代将軍義満のときは金閣寺に代表される北山文化、8代将軍義政のときは銀閣寺で知られている東山文化が栄えた。幕府の芸術部門のディレクターは同朋衆が務め、水墨画をはじめとする中国からの貴重な品々は東山御物とされ、同朋衆によって管理された。『観瀑図』を贈った芸阿弥も同朋衆だったので、彼を通して祥啓は東山御物に接することができたとみられている。
ところで、祥啓が入洛したのは応仁の乱が終了した翌年である。応仁の乱は10年間続いたが、勃発時に、室町幕府の菩提寺であり、禅宗の総本山でもある相国寺が焼け落ちた。このため東山御物を見られる環境にあったのかについては疑問が残るが、実物ではないにしろ正確な模写に触れる機会があったのではないかと考えられる。
祥啓が京都に向かった時、関東では享徳の乱がおきており、鎌倉公方足利氏と関東管領上杉家との間で、断続的に戦っていた。このような混乱の中にあって、祥啓はなぜ京に上ったのだろう。
祥啓は、事務方の職である書記というポジションにあり、啓書記とも呼ばれていた。高い僧位を得られる地位にはない。このため僧としての栄達は望めないので、水墨画に目覚め、それを窮めようとしたのであろうか。はたまた、管領・上杉方あるいは公方・足利方のインテリジェンスとして、京の情報を得るために入洛したのだろうか。残念ながら入洛の動機を知るための手がかりは今のところない。しかしともかく、彼は京都で勉強し、芸阿弥からも認められる画僧に成長した。
鎌倉に戻ってからの彼は、明瞭な境界線を特徴とする楷体・夏珪様で山水画を、院体画のように細密に鈎勒法で花鳥図・人物図を描いた。
それではいくつかの作品を見ていこう。根津美術館所蔵の「山水図」は、特別展にも展示されていた作品で、ボストン美術館所蔵の「山水画」と並んで、祥啓の代表的な作品である。夏珪の様式に倣い、骨気ある筆致で、岩組・樹木・諸景物が整然と配されている。
次の作品はクリーブランド美術館所蔵で、瀟湘八景の中の一場面「遠浦帰帆」を、同じように夏珪の様式に倣い、描いている。特別展では、これとは異なるが、白鶴美術館所蔵の「瀟湘八景図」が展示されていた。
次の作品もクリーブランド美術館所蔵の「小川の上にとまるカワセミ」である。特別展で展示されていた神奈川県立歴史博物館所蔵の「花鳥図」は、もっと細密に描かれていて、宋時代の院体画を正確に模写したと推定させられた。
祥啓は、関東の画僧たちに大きな影響を与えた。祥啓は弟子をとらなかったようだが、多くの画僧が彼にあこがれた。その中で代表的な画僧は興悦である。興悦は、祥啓様に倣って輪郭が明瞭な鈎勒法の作品を残す一方で、独自性を表し、没骨法での画も描いた。特別展にも出展されていた、次の東京国立博物館所蔵の「山水図」は、筆数を減らしてわざと粗っぽく描いている。中国の高名な画僧・玉澗の様式にならったものだろう。なおこの山水画には、戦国大名・北条早雲の子である幻庵宗哲(長綱)が賛を書いている。このことは、室町時代に関東を支えた鎌倉公方(のちの古河公方)の足利氏、関東管領の上杉氏が衰えたとき、代わりにパトロンになったのは小田原北条氏であることを伺わせる。
次の作品は、メトロポリタン美術館所蔵の啓孫の「四季山水図」である。啓孫の作品は、後の世になると、「啓書記筆」と説明されることが多く、祥啓の作品であるかのようにみなされた。それほどに似ていたのであろう。この作品ももちろん祥啓様である。
雪舟とほぼ同時代を生きた祥啓の作品を見てきた。祥啓は、没骨法の牧谿様の作品を得意とする仲安真康に学び、そのあと京都で芸阿弥から東山御物(あるいはそのコピー)を閲覧する機会をえて、山水画については鈎勒法の夏珪様を、花鳥図・人物図については細密な院体画を学んだ。雅な京の雰囲気を醸し出す彼の作品は、鄙びて粗野に見える関東の水墨画に、大きな影響を及ぼした。戦国時代になると、祥啓様ともいえる画法が確立し、興悦・啓孫など多くの後継者が生まれた。江戸時代になると、狩野派からのバックアップもあり、祥啓はあこがれの的となった。しかし明治に入って、文明開化・廃仏毀釈など近代化の波に抗しきれず、次第に忘れられていった。今回の特別展は、もう一度祥啓に焦点を当ててみようということだろう。特別展で展示された作品は、図録『あこがれの祥啓 啓書記の幻影と実像』に丁寧にまとめられている。手元において時々眺めるのに適した資料である。