bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

町田市郊外に秩父平氏ゆかりの大泉寺を訪ねる

秩父平氏のことを調べていたら、ゆかりの寺が近くにあることが分かった。NHK大河ドラマで、畠山重忠(中川大志)が北条義時(小栗旬)と戦った場面を覚えている人は多いだろう。今回紹介する大泉(だいせん)寺は、ドラマでよく知られるようになった重忠ではなく、その叔父の小山田有重を弔うために建立されたものである。そして秩父平氏が生まれた秩父から遥かに離れた町田市下小山田にある。

19世紀初めの新編武蔵風土記には、次のように記されている。小山田村の東北にこの寺があり、補陀山水月院と号している。曹洞宗で、入間郡越生(おごせ)龍穏寺の末山で、寺領として八石の御朱印を受けている。安貞元年(1227)に起立された。伝わるところによれば、この寺の境内には小山田別当有重が居住し、有重のために開基されたようである。有重の法諡(はふし)は大仙寺天桂椙公で、寺の名前はこれに由来する(仙と泉は同音)。開山の僧は無極と言い、永享二年(1430)に寂した。Wikipediaによれば、無極が室町時代に開山したが、それより以前にはこの地に真言宗高昌寺があり、1227年に有重五男の行重によって創建されたとなっている。

有重は、武蔵国多摩郡・都築郡にまたがる小山田保、武蔵小山田荘を支配して、小山田別当を称し、小山田氏の祖となり、その子孫からは榛谷氏・稲毛氏が分出した。なお保は、平安後期に律令制での郡郷組織の解体編成に伴って成立した国衙領の単位の一つ。保は開発領主による田地開発の申請が国主により認可されたことでたてられ、開発申請者は保司職に補任された(律令制での郡司に近い役割)。従って、有重は、小山田の土地の開発を行い、その領主となって、小山田保をたてたのだろう。

有重の父は秩父重弘、兄は畠山重能である。有重が史料に初めて見えるのは『保元物語』である。保元の乱(保元元年(1156))には三浦義明・小山田有重・畠山重能は参加しなかったが、敗者となった源為朝が、父の為義に対して、この三人らと談合して関東で抵抗しようと提案している場面が描かれている。なお、保元の乱での勝者は、後白河天皇藤原忠通源義朝平清盛源頼政信西などで、敗者は崇徳天皇藤原頼長源為義平忠正などである。

平治の乱(平治元年(1159))では、平家が勝ち、源義朝藤原信頼らが敗れた。『平家物語』『愚管抄』では、重能・有重兄弟は、平家の郎党と記されているので、勝者側であろう。源頼朝が挙兵(治承4年(1180))したときは、重能とともに京都で大番役を務めていて、平家の忠実な家人であった。武蔵にあった秩父一族も、頼朝挙兵のときは平家方であったが、そのあとすぐに頼朝に帰伏した。

吾妻鏡』によれば、一族が源氏方についたことから平家棟梁の平宗盛に拘束されたが、平家の家人の平貞能のとりなしによって、重能・有重・宇都宮有綱は東国へ戻ったとなっている。しかし『平家物語』『源平盛衰記』では少し異なって記されている。

また『吾妻鏡』には、頼朝による一条忠頼(甲斐源氏武田信義嫡男)の謀殺(元暦元年(1184))の場面でも有重は見られる。しかし、これ以降は有重が史料に現れることはない。

それでは大泉寺を見てみよう。
惣門。


立派な構えの仁王門。

本堂。

本堂前の羅漢像。古い写真を見るともっと数が多いのだが、どこへ行ってしまったのだろう。

宝篋印塔。

小山田氏は、畠山重忠の乱(元久2年(1205))のときに没落し、甲斐国都留郡に入部したようである。そのあとの動向は不明だが、南北朝期には『太平記』に小山田高家の逸話がみられる。建武3年(1336年)までに高家新田義貞に従ったとされる。そして湊川合戦のときに義貞の身代わりとして討ち死にした。
小山田城址高家碑。

鐘楼。寺にもITが??

観音堂。武相卯歳観音霊場の一つであり、来年はうさぎ年なので、開帳されて中の観音様がみられるはずである。

境内には山茶花がみごとに咲いていた。

かつては大泉寺の鎮守社だった上根(かさね)神社。

秋晴れの素晴らしい日だったので、このあと1時間ほど近くの都立小山田緑地を散策した。
杉の木立や雑木の林に沿って小高い山の道を歩いていくと、うさぎ谷に差しかかる。ここにはつり橋がかかっている。

初夏には黄色い花が咲くアサザ池。

里山の風景。この辺は谷戸が多いので、かつてはこのような景色があちらこちらで見られたことだろう。

豹模様の蝶を見かけた。ツマグロヒョウモンだろう。アザミの花と戯れながら秋を楽しんでいた。この緑地では、オオムラサキに出会うこともあるそうだ。

最後に、秩父平氏の広がりを見てみよう。

秩父という地点から、武蔵国一円に広がっていく様子を見ることができる。土地を新たに開発して開発領主となって発展したのであろう。小山田氏の繁栄は、大泉寺からわずかに知ることができるのみであるが、この頃の武士たちがどのような場所に好んで進出したのかを肌身で感じることができた。また秋晴れの一日を、都内では貴重ともいえる自然の中で満喫できた。これから紅葉もきれいになるだろうから、そのときにもう一度訪れようと思っている。