bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

横浜市歴史博物館で令和6年かながわの遺跡展を見学する

横浜市歴史博物館で、令和6年かながわの遺跡展「縄文のムラの繁栄ーかながわ縄文中期の輝きー」が開催されている。タイトルの通り、縄文時代中期の土器類が所狭しと飾られている。縄文土器が好きな人にとっては嬉しい展示である。

縄文時代中期は、5,500~4,500年前に当たり、東日本では縄文時代の中で最も集落数・住居数が多くなった時期として知られ、神奈川県では中期前葉に五領ヶ台式、中葉に勝坂式、後葉に加曽利E式の土器が造られた。さらに後葉には甲信地方の曽利式、多摩・武蔵野地域の連弧文の土器も見られる。

この展示での代表する土器は、入ってすぐの6点だろう。
厚木・林南遺跡の深鉢、中葉。鉢の上の把手と鉢の側面の模様に工夫が凝らされていて見ごたえがある。

相模原南区・当麻遺跡の深鉢、中葉。口の部分に向かって広がる曲線に特徴がある。

海老名・上今泉中原遺跡の水煙文把手付深鉢、後葉。把手の部分を見事に飾っている。

平塚・上ノ入遺跡の有孔鍔付土器、中葉。上部にある孔は何のためにあけられているのだろう。蓋をするためと思われるのだがどうだろう。

左:横浜鶴見区 生麦八幡遺跡の釣手土器、後葉、右:横浜旭区 市ノ沢団地遺跡の釣手土器、後葉。これも用途が良く分からないのだが、燭台のような役割をしたように思える。

次の棚には、顔面把手(深鉢型の土器の取っ手部分に付けられた顔、いずれも中葉)が数多く並んで展示されていた。顔の表現に変化があり、見ていて楽しくなる。なお、右上の二つは釣手土器(顔面把手をモデルにしたものと考えられ、いずれも後葉)である。

小さな土偶、いずれも後葉である。お守りとして用いたのだろうか。

上:三角柱状土製品、左下:土製品、右下:土鈴、いずれも中葉。土器を用いて生活に必要な色々なものを作成したのだろう。さしずめ、現在のプラスティックのような役割をしたようだ。

装飾のある土器も展示されていた。魚が描かれている浅鉢(厚木・恩名沖原遺跡、中葉)。単なる飾りなのか、それとも何か神秘的なことを想像してのことなのだろうか。縄文人の宗教観を知りたいところである。

蛇の絵が描かれているのだろうか、深鉢(相模原緑区・川尻中村遺跡、中葉)である。

左:人体の装飾が施されている人体装飾付き深鉢(相模原緑区・大日野原遺跡、中葉)、人体装飾付き有孔鍔付土器(厚木・林王子遺跡)である。

ミニチュア土器、いずれも中葉。小物入れ、そうではなくて練習用とも思える。

ここからはそれぞれの遺跡についての紹介である。

相模原南区・勝坂遺跡で中・後葉。勝坂遺跡は1926年に大山史前学研究所による調査が行われ、古くから知られている遺跡で、縄文時代中期の良好な遺跡として国史跡に指定されている。


相模原緑区・川尻遺跡で中葉。神奈川県北部の谷ヶ原浄水場周辺一帯にあり、縄文時代中期から晩期にかけての変遷が分かる遺跡で、国史跡である。

綾瀬・道場窪遺跡で後葉。綾瀬市西部の目久尻川左岸にある。

横浜都筑区・二ノ丸遺跡で後葉。港北ニュータウン遺跡群の一つで、中期後葉を中心に100軒を超す環状集落である。

横浜瀬谷区・阿久和宮越遺跡で、中・後葉。

海老名・杉久保遺跡で中葉。東名高速道路海老名サービスエリア南側の台地にある集落で、250軒以上の中期の住居跡が調査され、二つの環状集落が接するように見つかっている。

寒川・岡田遺跡で中葉。全国的にも珍しく三つの環状集落が連なっていると考えられ、600軒以上の住居跡が調査されている。

横浜都筑区・大熊仲町遺跡で中葉。この遺跡は住居跡170軒以上で、港北ニュータウン遺跡群を代表するものである。近くの台地上には住居数5軒の上台の山遺跡がある。大きなムラと小さなムラが隣接しているのが特徴で、一つの集団が分散や移動を繰り返していたのではと考えられている。

横浜都筑区・大高見遺跡と小高見遺跡で中・後葉。両遺跡とも集落の形成が断続的であり、同じ時期の住居数も多くはない。

相模原緑区・橋本遺跡で後葉。国道16号線のバイパス工事で調査され、中期後葉の環状集落が見つかっている。また住居に囲まれる土抗墓群の構造が良く分かる集落である。

相模原南区・当麻遺跡で中・後葉。国道129号の整備に伴い、1974年から調査された。

下溝遺跡群は、相模の大地を流れる姥川流域の河岸段丘に、上中丸、下原、下中丸の遺跡などが所在し、環状集落と200軒以上の竪穴住居跡が発見され、集落研究において重要とされている。

変わったところで、左上:漆塗土器、右上:木製容器、下:籠とみられる編み物(全て伊勢原西富岡・向畑遺跡、後葉)である。

埋葬に使われた深鉢(相模原緑区・川尻中村遺跡、後葉)。川尻中村遺跡は環状集落で、ほぼ中央に土抗墓群があり、その周りには環状列石が発見されている。

遺跡毎の展示は、壁に沿って下の写真のように展示されていた。

参考に展示されていた縄文時代前期の南堀貝塚からの黒浜式土器である。

今回の展示で紹介されている遺跡は、勝坂遺跡を除けば、ニュータウン開発や大型土木工事(高速道路・バイパス)などに伴って発見された。現代人は海や川沿いの低地に居住することを好むが、縄文の人々は、そうではなく、高台に住むことを好んでいたことを示してくれる。このことは、定住型の狩猟採集民が小型の小動物や木の実などを採取しやすい場所を優先して近くに川のある高台を選んだということを、教えてくれる。縄文の人々の生活は、文字資料がないので、遺物から想像するしかないが、彼らの土器の中には表現力に優れたものが多く、精神文化の豊かさを感じることができる。今回の展示からもそのことが感じられ、クリスマスの日の彼らからの良いプレゼントであった。