bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

東北北部縄文の旅:三内丸山遺跡

昨日の横殴りの雪から予想して、さぞかしたくさんの雪が積もっているものと思って、宿泊しているビジネスホテルの部屋の窓から恐る恐る外を覗いた。悪い予想が裏切られることほど、うれしいことはない。車の屋根には雪は積もっているものの、道路は濡れているだけだ。顔を上げて空を見ると、なんと晴れ間ものぞいていた。

多くの人が吹雪になることを予想していたようだ。口の悪いバスガイドさんは、革靴で、難渋しながら、深い雪の中に入っていく我々の姿を観たかったと言っていたし、案内をしてくれたボランティアガイドさんは、前の夜には深い長靴を用意したそうだ。

2日目は青森駅からそれほど遠くない三内丸山遺跡と、津軽半島西端の亀ヶ岡遺跡。そして宿泊は、なんと大鰐スキー場のてっぺんだ。


三内丸山遺跡の入り口付近だ。紅葉は終わりかけてはいるが、まだまだきれいだ。

それではここの遺跡の紹介をまずしよう。三内丸山遺跡は、前期後半(5,900年前)から中期末葉(4,200年前)の1,700年間という長い時期存在した(概要で説明した山田さんの時代区分では4,200年前は後期になるが、三内丸山遺跡の紹介には中期末葉と書かれているので、ここでは三内丸山遺跡のパンフレットを尊重する)。この遺跡は、概要のところで説明したように、偏西風の北偏と強くなった夏の季節風(南西モンスーン)によって温暖化した前期後半から中期にかけて栄え、最後に弱くなった季節風によって冷涼化したときに滅びた。

それではなぜ温暖化したこの時期に三内丸山地域に大集落ができたのだろう。この遺跡が発見されるまでは、縄文時代の集落は多くても10軒程度の小集落だと理解されていた。温暖化したからと言って、これまでと同じように小さな集落を密度高くして点在させてもよいように思う。このため、三内丸山では多くの人が集まって集落を形成するようになったという話を初めて聞いたときは、とても不思議に感じた。

「大きいことは良いことだ」と言われることが多いが、大きくすると何がいいのだろう。米国のサンタフェ研究所は、たくさんの要素が複雑に絡み合った生態系、すなわち複雑系の研究をしているユニークな研究所だ。この研究所のBettencourt教授が、都市の規模と生産性の関係を調べて、一つの方向を示してくれた。様々な動物の生態系を比較すると、動物のサイズと代謝量の間に、ある一定の相関関係があることが分かる。例えば、大きな動物は、小さな動物と比べたときに、心臓の鼓動がゆっくりしているし、寿命も長い。これは、標準の代謝量が体重の3/4に比例するためだ、と説明されている。生態系でのサイズと代謝量のこのような相関関係をアロメトリ(allometry)という。

都市を動物と同じような生態系と見なすことで、近年では、多くの研究者が都市でのアロメトリの研究に取り組んでいる。その中で大きな成果を上げているのがBettencourt教授だ。彼は2013年の論文”The Origins of Scaling in Cities”で、都市の人口とそこでの総生産高の間には、アロメトリが成り立ち、同じ生産高を上げるには大きな都市の方が少ない労力で済むことを示した。また都市には寿命があるとも言っている。

Bettencourt教授の議論は現代の都市に対してだが、古代の集落の規模についても、示唆を与えてくれる。証明するためには、裏付けデータの獲得が必要だが、古代の都市についても、生産性について同じことが言えるのであれば、集落を大きくしようとする人々の営為が見えてくる。

三内丸山遺跡と他の同時代の遺跡との大きな違いは、クリの半栽培だろう。森を切り拓いて居住空間を広げ、生活空間の周りにクリの木を栽培することで、良質な堅果類の実を得ることに成功し、大きな集団で生活するようになった。その結果、相互補助の効果があらわれて、より低価格での食料の確保が可能になったのだろうと推察される。もちろんまだ推察の域は出ないが、今後の研究の進展が待たれる。

それでは三内丸山遺跡を紹介しよう。ここには1958点もの重要文化財がある。受付で入手したパンフレットには下図のような案内図がある。これに沿ってみていこう。

上図で左上の建物が、縄文時游館だ。この建物の中から遺跡へとつながる通路がある。遺跡への扉の近くにはジオラマがあった。左の上の方に見えるのが、復元した縄文集落だ。ジオラマのある現在地は丁度中央付近で、これから左のほうへと歩いた。

縄文時游館から縄文集落へとつながる道だ。

道の左側の斜面には、環状配列墓が並列に造られていて、道のほうは、道幅約7~12mで、しかも削られて低くなっていたとのこと。縄文時代の人は墓を見上げるように歩いたとボランティアガイドの方が説明してくれた。道の周りは初冬の訪れを感じさせてくれ、紅葉がきれいだった。

集落に近づくと、大型竪穴住居と大型掘立柱が見えてきた。もちろん、いずれも復元だ。縄文時代の重要な遺跡にいよいよ近づいてきたと思うと、胸が高まってきた。

さらに歩を進めると、そのさきは竪穴住居の集落だった。

奥の方にも集落がある。昨日の雪が少しだけ残っていた。

集落の中に入り、最初に見たのは南盛土だ。大量の土器・石器・土偶・ヒスイ製の玉などが捨てられ、丘のようになっている場所だ。中がみられるようになっているので、入口へと向かう。

中に入ると、土の中の断面がみられるようになっている。

外に出て、竪穴建物を見学した。


長さ15mの大型竪穴建物跡。

大人の墓(土抗墓)だが、あいにく雪が解けたのだろうか水滴で濡れていて、中は見えない。代わりに反射した見学者の顔がこちらを伺っていた。大人の墓は地面に楕円形の穴を掘って、膝を屈伸にして仰向けに埋められたとのことだった。土抗墓は集落の外へと向かっている道の両側に並んで造られているとのことだった。

掘立柱建物。弥生時代の掘っ立て柱建物は貯蔵用に使われたことが分かっているが、ここには何の目的のために作られたのだろう。


たくさんの土器や石器が土と一緒に捨てられた北盛土、

土器に入れられて埋葬された子供の墓。大人の墓が集落の外に造られているのに対し、子供の墓が集落の中に造られているのはなぜだろう。ボランティアガイドの人は再生を願っていたのではないかと説明してくれた。

三内丸山遺跡を特徴づける大型掘立柱建物跡。3個の柱穴が二列発見され、柱の跡も見つかり、クリの木でその太さは直径1mだった。柱穴は直径約2m、深さ約2m、間隔4.2mだった。


復元された大型掘立柱建物。物見やぐらに見立ててあるそうだが、本当のところはわからないそうだ。

さらに大型竪穴建物。集会場や共同作業所として利用したのだろうか。

内部はこのようになっている。

縄文時游館には、三内丸山遺跡からの遺物が展示されている。時代区分では前期から中期、土器の形式は円筒式土器だ。それでは、遺物を見ていこう。

中期の台付浅鉢形土器、

中期の黒曜石の石槍。このころは黒曜石は貴重品だ。北海道十勝や白滝、秋田県男鹿、山形県月山、新潟県佐渡、長野県霧ケ峰などから、日本海を中心とした交易によってもたらされたと考えられている。

前期から中期の石器土器で、狩猟道具の槍として用いた石槍と弓矢の先端として使われた石鏃。

動物の皮をはぐために使われたとされる石匙

ドリルとして使われた石錐

現在の包丁やカッターに相当する削器

ヘラとして使われた石箆

その他に磨石、敲石、凹石、石皿・台石類、砥石が展示されていた。

次は縄文時代の特徴である板上土偶

縄文ポシェット。高度な技術を駆使してかごを作ったことだろう。ヒノキ科の針葉樹の皮を利用している。

三内丸山遺跡での土器の変化を表現している。左側から右へと時代が新しくなり、左側が前期、中央と右側が中期だ。左側の二つは東北北部に広まっていた円筒式土器で、右側は東北南部の大木式土器の影響を受けたものだ。

縄文時代前期から中期にかけての岩偶、

中期の土偶

中期のヒスイ

前期のツル製の腕輪

前期の耳飾りとヘアピン

動物の骨を利用して作った前期の突刺具

同じく針。縄文の人々が、精巧な道具を作れる技術力を有していたことに驚いた。

土器の勢ぞろい。土器の移り変わりを示している。下段より上段へと移っていった。下段より円筒下層式前半、円筒下層式後半、円筒上層式前半、円筒上層式後半、円筒上層式以降(大木式系土器群)。円筒式土器は東北地方北部に見られた土器型式で、丸い筒形の土器で、縄を押し付けたり、転がしたりして、模様がつけられた。このうち円筒下層式は前期、円筒上層式は中期に造られた。このあと、東北地方南部に広まっていた大木式土器の影響を受け、曲線的な模様が沈線で描かれるようになり、これまでの円筒式土器とは、模様や形が大きく異なるようになった。

前期石匙の勢ぞろい。

中期の土偶の勢ぞろい。

真ん中の土偶を拡大してみよう。友人の中にこのような顔立ちの人がいたように思えた。

館内の食堂で昼食をとった後、次の目的地の亀ヶ岡遺跡へと向かった。