世界の情勢は不安定さを増しているが、皆が願っているような穏やかな初冬の日に、鎌倉・材木座の光明寺を訪れた。国の重要文化財である本殿(大殿)は、浄土宗が開宗されてから850年の記念事業として保存修理中であり、工事の様子が見られるということで出かけた。
現在は素屋根で覆われ、往時の姿を想像することはできない。ちょうど幼稚園の子供たちが来ていて、一人だけ離れて遊んでいる子がいた。
現在の本殿が建立されたのは元禄11年(1698)である。それまでは、祖師堂あるいは記主堂と称せられていた。棟札*1によると、境内の諸堂が大破していたので、上意により江戸で出開帳*2を実施し、祈祷堂、鎮守、本堂、客殿などを建立したとなっている。棟札を読み解くと、幕府は建立を認めただけ(良きに計らえとだけ言った)で、実際の事業は民衆を基盤とした造営であったそうである*3。本堂は、入母屋造り、瓦屋根を模した瓦棒銅板葺で、正面中央に優美な唐破風がついている。ウィキペディアには修理に入る前の写真が載っている。建物本体は、桁行9間、梁間11間で、鎌倉に現存する近世の仏堂の中では最大規模である。内部の天井や組物等には彩色された装飾が施され、欄間には雲の中で楽器を奏でる天人などの意匠が彫られている。
本堂は、元禄地震(1703)、安政江戸地震(1855)、大正関東大地震(1923)などで被害を受け、建立以来今日まで6回の大修理を行っていて、今回が7回目で、令和元年から10年計画で行われている。現在は屋根の部分が外され、本堂の内陣・外陣の柱の組み方が分かるところまで進んでいる。
写真の中央を横断する柱の下に、斗栱(ときょう) *4が見え、その下に彩色された装飾が保護のために和紙で覆われている。
屋根の一番高いところに取り付けられていた鬼飾りは葵紋で飾られている。徳川家の庇護を受けていたことが分かる。
後先が逆になったが、光明寺の由来について説明する。正式な名称は天照山蓮華院光明寺で、江戸時代は関東18檀林の筆頭として栄えた。寺伝によれば、開山は記主禅師然阿良忠(1199~1287)で、開基は鎌倉幕府4代執権北条経時(1224~46)である。仁治元年(1240)に蓮華寺として開創され、寛元元年(1243)に現在地に移り、光明寺と改称された。その後に不明な時期があり、第8世観誉祐崇(1426~1509)時代の明応4年(1495)に後土御門天皇の帰依により勅願寺となり、格式の高い浄土宗の古刹として君臨した。慶長2年(1598)に関東本山と称せられ、そののち、浄土宗関東18檀林第一の学問寺となり、徳川幕府の庇護のもとに繁栄した。
それでは、県の重要文化財に指定されている三門(山門)を見てみよう。弘化3年(1846)に設計され、翌年に造営された。桁行5間、梁間3間、入母屋造、瓦葺き屋根を持つ2階建てである。外観は中国風の唐様(禅宗様)を基本として、一部和風の要素を取り入れている。この種の唐様山門は本来禅宗寺院に見られる建物だが、近世になると、他宗派の寺院でも建てられるようになった。外側から、
内側から、
屋根の構造、
三門2階より見た富士山、
左は稲村ヶ崎、道を通すために切通しが造られていることが良く分かる。
三門の2階に安置されている釈迦如来像、右側が文殊菩薩、左側の隠れているのが普賢菩薩である。
十六羅漢、
そして、市の重要文化財に指定されている総門を見てみよう。寛永年間(1624~44)の再建と伝えられている。禅宗様四脚門で屋根は元は茅葺だった。外側から、
内側から、
高倉健さんの墓碑が三門を入ってすぐのところにある。
鐘楼も近くにある。
この後は近くにある和賀江嶋に寄った。この島は、北条泰時が執権を務めていた貞永元年(1232)に築かれた人工島である。現存最古の築港遺跡で、国の史跡に指定されている。築港の基礎石は、主として伊豆石とされ、さらに相模川・酒匂川の石などを用いたとされている。干潮時には岬の突端から西に200mほどに渡って石積みが見られるとのことであった。和賀江嶋がある材木座海岸は、鎌倉時代は、海運によって唐物や建築資材などのあらゆる物資を運んだ港であった。その中期、良観房忍性が極楽寺の長老となってから、極楽寺に和賀江嶋の維持・管理・出入りする船からの関料徴収権が与えられたとされている。
船の向こう側が島だが、満潮の時間に近かったため、海の中に埋没していた。
この辺りからの富士山もきれいである。左側は江の島、中央は稲村ケ崎である。
材木座海岸は、子供の頃に泊りがけで海水浴に行った記憶があるだけで何十年ぶりだろう。その頃は、朝早く、地引網を漁師の人たちが引いていたので、それを見るのが楽しみだった。今でもこの習慣はあるのだろうか。地引網を引いたくらいだから、この辺は遠浅な海で港には適さなかったのであろう。大きな船を係留できるようにするために、和賀江嶋を築いたのであろうが、どの程度役立ったのか知りたいところである。もしかすると、沖合に大きな船を停留させて、小舟で取りに行ったのではと考えたりもして、遠い昔を想像しながら小春日和の一日を鎌倉で楽しんだ。