小学校に上がる前の記憶なのではっきりしないのだが、秋になると近所の神社に芝居小屋が設けられ、田舎芝居が昼から夜にかけて行われていた。近辺の人はそれぞれの家からゴザを持ち出し、空いている場所にそれを広げて鑑賞した。
その頃は、テレビなどない時代で、お祭りは庶民の楽しみであった。子供達は神社の境内に並んだ屋台で、駄菓子を買ったり、射的や金魚釣りなどのゲームをして楽しんだ。芝居の方は大人たちの楽しみだったが、付き合わされた子供の私には迷惑な話であった。話の筋がさっぱりわからず、楽しめたのはチャンチャンバラバラと切りあう場面だけだった。このようなわけでどのような演目があったのかは定かではない。それらの中には仮面をつけたものもあったのではないかと思う。
仮面をつけた踊りが演じられたとすると、境内であったことから推察して、神楽だっただろう。神楽の起源は、天照大御神が天の岩戸に籠ったとき、天鈿女命(あまのうずめのみこと)が岩戸の前で舞を舞ったこととされている*1。神楽には2種類あり、宮中で行われるものを御神楽といい、民間で行われるものを里神楽という。御神楽は仮面をつけないが、里神楽は仮面をつける。
神楽は神の世界だが、仏の世界にも民俗芸能として知られているものがある。現在、神奈川県立歴史博物館で、広済寺(千葉県山武郡)の鬼来迎(きらいごう)が映像で流れている。鬼来迎は、地獄に落ちた亡者(亡くなった後、成仏できずに迷っている者)が鬼たちから想像を絶するほどの苦しみを受けているところに現れた菩薩が亡者を地獄から救い出すという野外演劇で、それぞれの演者が、亡者、鬼、菩薩などの仮面をつけている。かつては利根川流域を中心にいくつかの寺で行われていたが、廃れてしまった。今日、唯一実施しているのはこの寺だけである。民俗芸能として重要無形民俗文化財に指定されている。行事の様子はポーラ伝統文化財団が作成した動画で、鬼来迎面は千葉県のホームページで見ることができる。
日本の伝統芸能として楽しまれているものに、先の二つに加えて皇室行事や神社で営まれている舞楽・雅楽がある。こちらも1000年以上も続いてきた伝統芸能である。天皇や貴族が楽しんだ舞が舞楽で、舞を彩る音楽が雅楽である。舞楽・雅楽は中国・朝鮮半島から伝わり、有名な雅楽に「陵王」がある。日本芸術文化戦略機構が作成した動画もある。
これらの伝統芸能は今でも楽しまれているが、どのような歴史的な経緯で現在まで生き延びてきたのだろう。この特別展の主催者は、音楽がその媒介として大きな役割を果たしたとしている。しかし、音楽は音である。このため、現在のような録音技術がない時代には、音は出した瞬間に消えてしまう。このため、その足跡をたどることは容易ではない。そこで、その時に一緒に用いられた仮面でみようというのが、今回の特別展のテーマである。
今回の特別展はあることを前提にしている。それは、音と音楽は権力者のものであったということである。古代の支配者は統治するために音楽を利用し、中世になると武力的権力を握った幕府によって都より鎌倉に音楽が導入され、さらに、地方に配置された御家人たちによってその領地に広まり、近世になると地域の寺院を中心としてこれまでの音楽が大衆化していった、というのが今回の筋書きである。朝廷から大衆へ、中心から辺縁へ、時間軸とともに音楽がどのように浸透し変容したかを観察してみようということである。それでは、図録内の記事・渡邊浩貴著「日本中世音楽社会史論序説」を参考にして特別展を見ていこう。
まずは音からである。
古代にあっては音は支配者のものであったことを、横須賀・蓼原古墳出土の弾琴男子椅座人物埴輪で示している。この埴輪は男性が琴(きん)を弾いている。彼は音楽を専門にする人ではなく、権力者その人と見なされている。それは、古事記や日本書紀から、「琴は国政に関して神の託宣を請う際に天皇自らあるいは重臣が弾く弦楽器であった」ことが読み取れることによる*2。写真の撮影が許されていなかったので、横須賀市自然・人文博物館で撮影したものをあげておく。
中世からは「鐘の音」を例にしている。梵鐘の音は、時を知らせたり、外敵の来襲をおしえたり、コミュニティに一体感を持たせたりするために利用された。梵鐘銘の拓本や、梵鐘鋳型のかけらが展示されている。近世からは「笙の曲譜」を例にしている。近代になるまで、日本は身分社会で身分ごとに担う職種が決まっていた。それぞれの職には継承すべき技能が存在するが、その伝達は口述などにより秘密裏に行われた。音の世界もそうであっただろう。しかし、この曲譜のように多くの人に分かるように書かれているところを見ると、この時代には音に対する大衆化が進んだと言えそうである。
ここからは本題の音楽である。仏教での迎講(むかえこう)・鬼来迎を主に紹介し、最後に舞楽についても触れる。
平安時代、朝廷は平城京(京都)に置かれ、体制は仏教による鎮護国家であった。平安時代後半には浄土教が盛んになり、死んだあとは極楽浄土に迎えられることを願い、権力者は寺院などを寄進した。そして、釈迦如来が死者を極楽浄土に迎える来迎を、念仏(音楽)と仮面を用いての仏教行事として実現し、迎講が行われるようになった。来迎の様子は、下図の高野山の阿弥陀聖衆来迎図(ウィキペディア)のように仏教画として表現される。阿弥陀如来が多種の菩薩と一緒になって、雲に乗って迎えに来てくれる。
時事通信映像センターからは、奈良・當麻寺の迎講「練供養会式」の様子が動画で提供されている。
源頼朝が鎌倉に幕府を開くと、武力だけで権力を維持することは難しいと考えたのだろう。彼は音楽も含めて都の文化を積極的に導入・利用した。著名楽人を都から招聘し、配下の御家人たちに音楽教育を施したり、鶴岡八幡宮寺に舞楽・御神楽のための楽所を設けたりした。この時のものとされる菩薩面(来迎会・迎講で使用される面)、舞楽面(雅楽にのって舞う際につける面)が展示されている*3。
ところで、都の音楽の受容は、源頼朝だけが行ったわけではない。平安時代にも関東の有力な武士たちは都と交流があり、それぞれのルートを通じて同じように受け入れていた。この例として、延久3年(1071)作の神奈川県・阿弥陀寺の菩薩面、天台宗・古刹久能寺に伝来したとされる静岡・鉄舟寺の舞楽面・陵王、甲斐源氏一族の遺品とされる浜松・津毛利神社の王の舞面が展示されている。
鎌倉御家人たちは、鎌倉幕府成立に伴って平家方から得た領地を、また、承久の乱に勝利して京方から得た領地を、地頭職という身分を得て経営するようになる。彼らは新米・外来というハンディキャップを乗り越えるために、文化戦略として音楽を活用しながら、その地を治めていく。
鎌倉からはそれほど離れていない千葉県君津市・建暦寺からは鎌倉時代制作の菩薩面が展示されている。この地域はもともとは上総一族が支配していたが、上総広常が頼朝に謀殺された後、中原親能一族が支配した。中原親能は京都政界や文化に精通し、京都賀茂社齋院次官にもなった。これらの経験を活かして、この地に迎講を広めたとされている。
承久の乱の後、多くの鎌倉御家人が西国に領地を得た。土肥実平の子孫である小早川茂平もその一人で、安芸国・沼田荘を所領とした。そして、迎講を創始したと伝えられている。氏寺の米山寺には鎌倉前期制作の行動面8面(菩薩面・天童面)が残されている。しかし、迎講を創始したというのは言い過ぎのようである。近くの御調八幡宮(みつきはちまんぐう)で、前の領主の沼田氏は迎講をすでに行っていたようで、そこには菩薩面などが残されている。小早川氏は沼田氏の迎講を継承し、自らの偉大さを強調するために実平顕彰と茂平神秘体験*4をその中に組み込み、権力の維持を図ったようである。米山寺と御調八幡宮の菩薩面などが展示されている。
ここまで、鎌倉御家人が迎講を創始・推進した宗教儀礼を見てきたが、近世になると民俗芸能へと変貌をとげる。この頃には宗教は大衆化し、庶民の生活にも深く浸透する。仏教では生前の所業が善であれば極楽に、そうでなければ地獄に行くとされている。寺院は多くの信者を得るために、地獄ではどんなに酷い目に遭うかを仏教劇で示した。これまでは阿弥陀如来が極楽浄土に迎えに来てくれる場面だったが、宗教が大衆化するにしたがって亡者が地獄で鬼にこっぴどく痛めつけられる場面を強調するようになった。この記事の始めの方で紹介した弘済寺の鬼迎講もこの例である。
鬼迎講の痕跡を、弘済寺に近い寺々で見ることができる。香取市・寿福寺には、鎌倉期制作の菩薩面と、江戸期制作の鬼舞面(奪精鬼、奪魂鬼、脱衣婆、大王)がある。鎌倉時代にこの地域を支配していたのは千葉氏一族である。鎌倉時代末期、千葉一族の粟飯原胤秀は、宗教者の伝道を支援し迎講の受け皿となった。胤秀に招かれた然阿良忠は、初めの頃は菩薩の行道を中心とした迎講を整備した。その後、鬼面を用いての鬼舞を創始した。迎講の性格は徐々に薄れ、地獄の獄官や鬼を登場させる場面を増やし、最後には鬼来迎と呼ばれるようになった。同じように成田市の迎接寺にも鬼舞面がある。今回の展示では寿福寺と迎接寺の仮面が多数展示されている。
同じような傾向は、舞楽でも見ることができる。伊勢原・高部屋神社には、室町時代に制作された舞楽面の陵王がある。初めの頃は神社での舞楽に使われたようだが、近世になると大衆化し、雨乞の儀礼に用いられるようになった。陵王の頭部はもともとは龍であるが、修理した頃はその意味が薄れていたのであろう。なんとウサギの耳に代えられてしまい、名前も黒面と呼ばれるようになった。同じように、癋見(べしみ)の方は赤面と呼称されるようになった。高部屋神社からはこれらの面が展示されている。
長野県駒ヶ根市の光前寺も同じで、舞楽面陵王が雨乞儀礼で用いられるようになった。極めつけは、甲賀・油日(あぶらひ)神社の福太夫面とずずい子*5で農業儀礼として用いられる。これらも展示されている。さらには、大山阿夫利神社からは能面*6が展示されている。
今回の展示では当たり前のことだが仮面が多数展示されていた。菩薩面(行道面)、舞楽面、鬼舞面、能面と種類も豊富だ。菩薩面はその性質もあってどれもが似通っている。それに対して、舞楽面は、二ノ舞、陵王、納曾利、地久、抜頭、八仙、貴徳、退宿徳、胡飲酒、新鳥蘇など種類が豊富で見ていて楽しい。鬼舞面も同じように多様性に富んでいて面白く、特に鬼の面は見ていて楽しい。これだけたくさんの仮面を借りるにあたって、学芸員の方は人には言えない苦労をしたのではないかと思われ、感謝である。しかし、仮面だけ見ていても中世音楽は聞こえてこないので、Youtubeで関連する動画を鑑賞しその良さを理解したが、それには努力と時間が必要であった。展示会で音楽をテーマに取り上げることの難しさがよく分かったが、デジタル技術の発展が著しいので将来は良い方法が見つかるのではないかと期待したい。
*1:「かぐら」の語源は「かむくら(神座)」で、その意味は「神の宿りどころ」だそうだ。すなわち神座は、神々が降りてくるところであり、巫(みこ)・巫女(みこ)が人々の穢れを祓ったり、神懸かりして人々と交流したりするところである。すなわち、神と人とが一体となる宴の場である。そこでの歌舞が神楽と呼ばれるようになった。
*2:横須賀市自然・人文博物館からの歴史のたより「古代の琴は神を呼ぶ」に次のように記述されている。『古事記』仲哀天皇の条には「‥、天皇御琴を控かして、建内宿禰大臣沙庭に居て、神の命を請ひき。」とあり、『日本書紀』神功皇后の条には「‥、皇后、吉日を選びて、斎宮に入りて、親ら神主と為りたまふ。則ち武内宿禰に命して琴撫かしむ。中臣烏賊津使主を喚して、審神者にす。」とあることから、古代において琴は国政に関して神の託宣を請う際に天皇自らあるいは重臣が弾く弦楽器であったことがわかる。
*3:建立時、菩薩面・舞楽面あわせて33面制作した。今日、菩薩面1面と舞楽面6面が伝承している。菩薩面はかつては12面存在し、迎講の行道面 として使用された考えられている。また、伝世する舞楽面の陵王、散手、黄徳鯉口、黄徳番子は、頼朝が東大寺大仏供養に参列したときに、奈良・手向山八幡宮から送られたのではとみられている。
*4:小早川家の氏寺米山寺由来記には、「文治3年(1187)に小早川家の祖とされる土肥実平が探題としてこの地に下向、沼田庄高山に居住、承久2年(1220)に亡、遺骸が当山に送葬された。また小早川茂平は、暦仁元年(1238)に関東御教書を拝領、荒野を再開発、不断念仏堂を建立、来迎の阿弥陀仏を正尊として、毎年2月15日に往生結縁の供養をした」となっている。また、小早川茂平は、阿弥陀仏に招かれたかのように、迎講が行われている2月15日に亡くなった。
*5:白洲正子の代表作は「 かくれ里」である。京都の博物館で見た「お面」を思い出し、油日神社へ寄り道したと言った。そこで、正子は「福太夫の面」と「ずずい子」を見ることができた。福太夫の面の正式名称は「田作福太夫神の面」と言う。1508年に、桜宮聖出雲が制作した。ずずい子の顔は満面の笑みである。福太夫と同じく桜宮聖出雲が制作したもので、豊穣の祭りに使われた。ずずい子を見て、かつて豊穣の祭りでは裸のまま田圃をつついて回ったのではないかと、白洲正子は見ている。