bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

證菩提寺の阿弥陀三尊像を鑑賞する

昨年の今頃、證菩提寺*1を紹介したが、その中で国の重要文化財阿弥陀三尊像について簡単に触れた。その三尊像が横浜市歴史博物館の「横浜市指定・登録文化財展」で展示されている。しかも撮影もOKということなので、早速出掛けた。まずはお揃いのところから、

中央が阿弥陀如来坐像、写真の左側が右脇侍の勢至菩薩立像、右側が左脇侍の観音菩薩立像である。三尊像はそれぞれ木造で漆箔が施され、平安時代末期に造立された。12世紀ごろの和様彫刻の典型的な作風で、仏師は京都、奈良で活躍した一流の仏師と推定されている。また国の重要文化財に指定(1925年)されている。

阿弥陀如来は、大乗仏教で信仰の対象となっている如来(釈迦や諸仏)の一尊である。浄土教系の仏教では、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、浄土に往生できると説いている。そして阿弥陀如来は西方にある仏国土(浄土)の教主とされている。

平安時代初期に、入唐した最澄空海によって密教がもたらされたが、中期から後期になると、辛苦を伴う修行をしなくても、単に念仏を唱えるだけで浄土に往生できるという浄土教が主流になった。これに伴って、宇治の平等院、平泉の中尊寺、鎌倉の永福寺のように極楽浄土を思わせるような寺院が建立され、その本尊として阿弥陀如来三尊が祀られた。證菩提寺阿弥陀如来三尊は、どこの寺院の本尊として造立されたかは不明である*2

それでは一躰ずつ見ていこう。最初は阿弥陀如来坐像、

右脇侍の勢至菩薩立像、

左脇侍の観音菩薩立像、

最後は再びお揃いで、

このように間近で見るチャンスはそうそうないので、とても良い機会を得ることができ、とてもよかった。

*1:平安時代の末に源頼朝が伊豆で挙兵した。東に向かう途中の石橋山の戦いで頼朝は敗れたが、そのとき身代わりとなって戦死したのが佐奈田与一義忠(岡崎義実の息子)である。そのの菩提を弔うため、頼朝によって證菩提寺は建てられたといわれている

*2:横浜市文化財保護審議会副会長の山本勉さん(講演:仏像が語る横浜の平安時代)によると、阿弥陀三尊像が造立されたのが1175年頃で、岡崎義実が佐奈田義忠菩提堂を建立したのは1189年なので、この間に14年間の開きがある。そこで、岡崎義実が頼朝の父の義朝の菩提を弔うために鎌倉亀谷に建立した仏堂の本尊を證菩提寺に移した可能性があるのではないかと見ている。また仏師も奈良仏師・成朝ではと見ている。ちなみに勝長寿寺は頼朝が発願した義朝の菩提寺で、本尊は成朝(定朝系)が造った。