bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

日銀・東証を訪れる

あるグループの仲間と連れ立って、金融の中心である日本銀行東京証券取引所を中心に、日本橋兜町の界隈を散策した。東京駅の日本橋口に、通勤時間帯さなかでの集合であった。最近は通勤ラッシュの時間帯に出かけることはないので、どの程度の込み具合かの認識がない。そこで安全第一と考えて新幹線で向かった。朝方は新横浜駅から東京駅までは指定席も自由席となるので、快適に都心に向かうことができる。さらにアップルウォッチをかざすだけで在来線から新幹線へとすり抜けられるので、切符を購入する手間も省けてとても便利でもある。

皆が集合したところで日銀へと向かった。途中、「近代日本経済の父」と称される渋沢栄一像を見る。彼については、後で詳しく説明するので、まずはその姿だけを目にとめておく。戦前、ここに像が建てられていたそうだが、戦争中の金属供出で撤去され、戦後になって立て直されたそうである。

さらに行くと常盤橋門跡がある。江戸城と街道を結ぶ江戸五口(他に田安門・神田橋門・半蔵門・外桜田門)の一つで、江戸城から本町通り(現在の大伝馬本町通り)・浅草橋門を経て奥州道へと通じる交通の要衝であった。

そして日本銀行。この銀行は、銀行の銀行ともいうべき存在で、その目的は「我が国の中央銀行として、銀行券を発行するとともに、通貨及び金融の調節を行うこと」および「銀行その他の金融機関の間で行われる資金決済の円滑の確保を図り、もって信用秩序の維持に資すること」だそうである。

今回の目的は、旧館(本館)の見学である。見学にはあらかじめ予約しておくことが必要で、予約を取るのはなかなか大変だったと世話人の方が苦労話をしてくれた。

日本銀行は、明治15年(1882)に永代橋のたもとで開業したが、手狭なうえ、都心からやや遠かったこともあり、開業の翌年には早くも店舗の移転が決定されたそうである。現在の本館の設計者は、当時の建築学界第一人者の辰野金吾(帝国大学工科大学教授)である。彼は日本銀行の支店(大阪・京都・小樽など9店舗)や東京駅、旧両国国技館などの設計も手がけた。なお、この建物は昭和49年(1974)に国の重要文化財に指定された。

本店の場所として日本橋が選ばれたのは以下の理由からだそうである。①江戸時代から両替商が軒を連ねていて金融・商業の中心地であった、②大蔵省や同省印刷局が常盤橋を隔てた大手町にあった、③日本橋は、本館建設にあたって建設資材の運搬に活用できるなど水運の利便性が高く、江戸時代には街道の起点で、交通の要所であったことである。

辰野金吾博士は、日本銀行本店の設計にあたって、欧米各国を訪れて銀行建築を調査し、ベルギー国立銀行を設計したアンリ・ベイヤールに学び、調査のためイングランド銀行を度々訪れてロンドンで設計原案を作ったことから、これらの銀行を模範に日本銀行を設計したとされている。外観は古典主義様式で秩序と威厳を表現し、中庭の1階の列柱はドリス式様式、正面・中庭・西面の2階から3階を貫く双柱はコリント式の様式で、正面中央はドーム(丸屋根)を冠している。


内部に飾ってあった写真から全体が分かる。

外壁は外装材の石と内装材のレンガを積み上げ、石の種類は地階と1階は花崗岩、2階以上は安山岩である。大正12年(1923)に起きた関東大震災では、建物自体はびくともしなかったが、近隣火災からの延焼でドームや一部フロアが焼けた。現在のドームはその後復元したものである。
内部は一部写真を撮ることが許された。1億円の束は10kgの重さがある。

7月に発行される新札もお目見えしていた。

地下金庫の中はイギリス製の分厚い扉で守られていた。

お札を運んだマニ車の模型。

天井付近。建てられたころはガラス窓で覆われて太陽光が差し込んでいた。関東大震災でここから火が入ったため、そのあと防火上の理由から塞がれた。

日銀見学後は隣にある貨幣博物館に寄った。ここには古代の貨幣から次の新札までの貨幣の移り変わりと、偽造防止のために各国のお金にどのような工夫がなされているかについての紹介があった。残念ながら撮影は禁止だった。唯一許されたのが、ヤップ島で使われていたという大きな石貨である。

日本橋に向かう途中で三浦按針屋敷跡の碑を見る。

日本橋で、魚市場発祥地の碑を見る。

日本橋川沿いの魚河岸を中心として、本船町・小田原町・按針町の広い範囲で魚市が開かれ、江戸時代もとてもにぎわっていた。浮世絵『東海道五十三次(隷書東海道)』「日本橋」(歌川広重 - ボストン美術館)からもその様子が分かる。

明治時代に作られた旧道路法で、日本橋は国道の起点とされた。東京市道路元標は、大正12年(1923)の関東大震災から復興したことを記す日本橋のモニュメントとして昭和3年(1928)に建てられた。

東京市道路元標は都電の架線柱として使用されていたが、その廃止(昭和47年)に伴って北西側袂に移設された。同時に、東京市道路元標があった場所に、50cm四方の日本国道路元標が埋め込まれた。

現在の日本橋明治44年(1911)に架橋されたルネサンス様式の石造り2連アーチ橋である。照明灯の柱などには和洋折衷の装飾が施されていて、中でも妻木頼黄(よりなか)考案の麒麟や獅子のブロンズ像は完成度の高い芸術作品である。

日本橋郵便局は郵便発祥の地でもある。

この後は東京証券取引所を目指した。途中、日本最古の銀行の第一国立銀行があった場所に立ち寄った。設立者は渋沢栄一である。彼の生誕地・深谷市のホームページに、彼の紹介があるので、そこから抜粋して紹介する。

天保11年(1840)、武蔵国榛沢郡血洗島村(現在の深谷市血洗島)の農家に誕生し、幼少の頃より、家業の藍玉製造・販売、養蚕を手伝い、父市郎右衛門から学問の手ほどきを受け、7歳頃から従兄の尾高惇忠のもとで「論語」などの四書五経を学んだ。

文久3年(1863)、尊王攘夷思想の影響を受け、高崎城乗っ取り・横浜外国人商館焼き討ちを企てた。幕府からの追手を避けるために故郷を出た後、一橋家に仕える機会をえて、財政の改善などに手腕を発揮した。徳川慶喜の弟・昭武の欧州視察の随行員に抜擢されて渡欧し、先進的な技術や産業を見聞した。

帰国後、蟄居した慶喜のいる静岡で地域振興に取り組んだのち、明治政府に招かれて新しい国づくりに関わった。その中の一つに富岡製糸場の設立がある。明治6年(1873)、官僚を辞めた後は、第一国立銀行の総監役となり、民間人として近代的な国づくりを目指し、生涯に約500もの企業に関わり、約600の社会公共事業・教育機関の支援や民間外交に尽力した。昭和6年(1931)、91歳で没した。

明治時代の浮世絵師・小林清親は、浮世絵「海運橋・国立第一銀行 」(小林清親、 浮世絵名作選集より)を描いている。

東京証券取引所の正面近くにある「鎧の渡し」にも寄ってみた。その由来が説明書に次のように記されていた。平安時代(1050)の奥州平定の途中、源義家渡し船に乗っていて暴風にあい沈みそうになった。そこで鎧を沈めて龍神に祈りを捧げたところ無事に渡れたそうである。

明治5年(1872)に橋が架けられ渡しはなくなった。江戸の名所の一つだったのだろう。浮世絵『名所江戸百景』「鎧の渡し小網町」(歌川広重)が残されている。

最後は、東京証券取引所だ。

ここは、日本最大の金融商品取引所である。かつては立ち合いでディーラーが激しくやり取りをして熱気を帯びた場所であったが、現在では取引はコンピュータで行われるため人影がほとんどない。大きな電光掲示板に株価の変化が示されるだけである。訪れた日は4万円を超えることが期待され、報道陣がその瞬間を今か今かと待ち構えていた。

直径17メートルのガラスシリンダーで覆われたマーケットセンターは、市場の透明性と公正性を表現するためにガラス張りになっている。

センターの上をぐるぐると回っているチッカーは、一周が約50mの大きさの電光掲示板で、売買が成立した株価が次々と表示される。売買数が多くなると回転速度も速くなる。

証券史料ホールには東証の歴史を中心に展示・解説がなされていた。江戸時代の古い地図もあった。東京駅(写真の真ん中)から東京証券取引所(真ん中から少し下がったところ)まで、まっすぐに運河があるが、ほぼこれに沿って歩いたことになる。

歩くだけだと小一時間の距離だが、日銀と東証では係の人に案内してもらい、途中でも世話人の方がブラタモリに倣って詳しく説明してくれ、しかもお昼を抜いての強行軍だったのでいささか疲れたが、簡単には見ることができない場所を詳しく説明してもらい、有意義であった。