bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

千葉市美術館で「鳥文斎栄之」展を鑑賞する

鳥文斎栄之(ちょうぶんさいえいし)は、旗本出身で、10代将軍家治が逝去(天明6年(1786))し、田沼意次が老中を辞したころの時代の変わり目に本格的に活動を始めた絵師である。喜多川歌麿と拮抗して活躍したが、栄之の作品の多くは明治時代に海外に流出した。この度、ボストン美術館大英博物館から里帰りして、世界初となる鳥文斎栄之展が千葉市美術館で開催された。千葉市美術館は、家から2時間以上もかかる遠い場所にあるのだが、彼の浮世絵をまとめて鑑賞できるのはこれが最初で最後の機会だろうと考えて、思い切って出かけた。

千葉市美術館は、1955年に開館し、2020年にリニューアルオープンした。

エレガントな雰囲気を漂わせている1階の空間は、さや堂ホールである。ここにはかつて川崎銀行千葉支店があった。この銀行は、矢部又吉によってネオ・ルネサンス様式で設計され、1927年に建てられた。現在は、かつての銀行を覆うように美術館が建てられている。古い建物をこのように覆って残す方式は「鞘堂方式」と呼ばれる。川崎銀行は川崎財閥の川崎八右衛門(彼の先祖は水戸藩の為替御用達であった)によって設立され、1936年に第百銀行に改名し、戦時下に三菱銀行に吸収合併された。

鳥文斎栄之は、宝暦6年(1756)に500石取りの直参旗本細田家の長男(名は時富)として生まれ、祖父は勘定奉行を務めた。安永元年(1772)に17歳で家督を継いだ。絵を狩野派の狩野栄川院典信(えいせいいんみちのぶ)に学び、師の号を貰って栄之と名乗った。天明元年(1831)から同3年まで、10代将軍家治の小納戸役に列し、絵具方を務めた。天明元年(1781)に布衣を着すことを許され、天明3年には無職の寄合衆(3000石以上の上級旗本無役者・布衣以上の退職者)に入っている。天明6年に家治が死去、寛政元年(1789)に34歳で隠居した。浮世絵は鳥居文竜斎に学んだ。天明の時期から浮世絵師として活動していたが、本格的に作画活動したのは、隠居した寛政元年からである。

展示は、プロローグと七つの章とエピローグに分かれていた。プロローグ「将軍の絵具方から浮世絵師へ」では、狩野派の師匠の栄川院が描いた田沼意次領内遠望図と、自身が描いた関ケ原合戦図絵巻などが飾られていた。

1章は「華々しいデビュー 隅田川の絵師誕生」である。喜多川歌麿葛飾北斎はデビューのころは細判の役者絵からスタートしたのに対し、栄之はデビュー間もないころから大判の見ごたえのある続絵を描いた。写真撮影可であった「川一丸舟遊び」。大型の屋形船が、5枚続きで、華やかな女性が描かれている。

同じく撮影可能であった「新大橋橋下の涼み舟」では、大きな屋形船に品の良い美人たちが集い、船上での穏やかな時の流れを感じさせてくれる。

2章は「歌麿に拮抗ーもう一人の青楼画家」である。栄之が錦絵で活躍したのは、喜多川歌麿が活躍した寛政期(1789~1801)とも重なっている。歌麿と同様に、寛政三美人や吉原の遊女を題材とした作品を多く出した。栄之は独自の様式を確立し、後に青楼の画家と呼ばれるようになり、歌麿と拮抗する存在となった。栄之の主要な版元は西村屋与八で、歌麿を見出し育てたのは蔦屋重三郎である。版元同士も競争関係にあった。代表的な作品「青楼芸者撰図 - いつとみ」(Wikipediaよりの転写)も飾られていた。歌麿美人画が妖艶であるのに対し栄之は静謐である。

3章は「色彩の雅ー紅嫌い」である。源氏物語などの古典が、江戸の風俗に置き換えられて「やつし絵」として描かれていた。品の良い画風に加えて、「紅嫌い」(赤い色をわざと避けた錦絵で、紫を多用することから紫絵ともいわれた)の手法を栄之は用いた。展示の一つの「風流やつし源氏 松風」(Wikipediaよりの転写)。会場の展示の方が、紫色が映えていて、見ごたえがあった。

4章は「栄之ならではの世界」である。武家出身の栄之は、上流層の女性風俗や教養を感じさせる古典主題の作品を描いた。

5章は「門人たちの活躍」である。栄之は、細田派という流派を創始し、鳥橋斎栄里、鳥高斎栄昌、鳥園斎栄深、一楽亭栄水、一掬斎栄文、栄鱗、文和斎栄晁、鳥喜斎栄綾、鳥玉斎栄京、鳥卜斎栄意、酔月斎栄雅、桃源斎栄舟、葛堂栄隆、栄波、春川栄山、一貫斎栄尚、酔夢亭蕉鹿、五郷など多くの優秀な門人を輩出した。撮影されることが許されたのが、鳥高斎栄昌の「郭中美人競大文字屋内本津枝」である。寛政9年の「吉原細見」からは、大文字屋に本津枝(もとつえ)という遊女を確認できるそうで、郭中美人競(びじんくらべ)というシリーズの最後に出された図と推察されている。明るい表情の本津枝とかんざしをいじっている猫が印象的である。

6章は「栄之をめぐる文化人」である。天明狂歌と呼ばれるほどに狂歌が流行した天明期(1781-1789)には、武家と町人が相まじりあって狂歌に熱中するグループが登場した。栄之も、山東京伝などが執筆した洒落本に挿絵を描くなど、町人文化にも親しんでいた。次の「猿曳き図」(Wikipediaよりの転写)は、会場にあった絵と異なり左側に猿を操る男性が描かれていないが、この男性と猿を北尾重政が描き、右側の遊女・禿・新造を栄之が描いた。

さらに「女房三十六歌合」では、和歌を江戸長谷川町花形義融門下の少女が書し、栄之が美しく精緻な歌仙絵を手掛けた。

7章は「美の極みー肉筆浮世絵」である。寛政10年(1798)ごろより、錦絵を離れ、肉筆画に集中するようになる。このころから寛政の改革により出版業界に対する統制が強まった。歌麿たちはこれに抗したが、武家出身の栄之はそうはできなかったようで、依頼者の手元にしか残らない肉筆画を描いた。フランス語版のWikipediaには、「Oiran in Summer Kimono」が掲載されている(会場では見ることができなかった)。

エピローグでは、売立目録が紹介されていた。

江戸の豊かな文化を伝える美術品は、明治の頃にたくさんのものが国外に流出したために、海外の美術館に行かないと見れないものが多い。そのような中にあって、今回多くが里帰りし、鳥文斎栄之の作品を一堂に介して鑑賞することが出来てとても良かった。落ち着いた優雅な作品が多く、良い雰囲気の中で楽しく鑑賞できた。

追伸:かつての川崎銀行の横浜支店も昔の建物が保存され、それを覆うように新しい建物(損保ジャパン日本興亜馬車道ビル)が建てられている。横浜支店も、千葉支店と同様に矢部又吉の設計で、1922年に建てられた。様式も同じくネオ・ルネッサンスである。ちなみに、矢部又吉は横浜生まれで、ドイツで学んだ。
旧川崎銀行横浜支店の正面。

側面。